ホームルーム前のわずかな時間。教卓をぐるりと囲んだソファの、いつもの位置に座ったヒカリはスマホを見つめていた。待ち受け画面も奏斗である。
「ちょっと、ヒカリ。何でアンタが奏斗様を知っているのよ?」
ヒカリの前に立ちはだかり、腕組みして尖った声を上げるのは
「姫華。いつも真似をしてくるのはアンタの方でしょ」
「何を言うの? “ホテル・ヨルトン”のラウンジでピアノを弾いてる彼をスカウトしたのは、この私よ」
ヒカリは耳を疑った。この女が?
「その縁で、今度の我がR警備保障の新CMには彼が起用されるの」
ハッタリとも思えない。今度は、ヒカリが唇を噛み締める番であった。金魚のフンたちが、「さすが姫華さんね」などと持ち上げる。
「あなたたちも撮影の見学に来るといいわ」
姫華が満更でも無さそうに声をかけると、金魚のフンたちはワァッと沸き立った。
「ヒカリ。どうしてもって言うなら土下座でもなさい。そしたら見学させてあげても良くてよ。端っこの方で」
姫華と金魚のフンが、意地悪そうにクスクスと笑う。
「……お断りよ!」
一瞬、間が空いてしまったのが悔しい。
奏斗様。何故、冷泉の会社のCMになんか!
「まぁ。姫華さんの寛大なお心を無下にするなんて」
「失礼ね」
金魚のフンが囃し立て、姫華は高笑いしながら去っていく。
(きっと断れなかったのよ!)
冷泉側が汚い手を使ったに決まっている! ヒカリはギリリと歯噛みした。
(そうだわ! こっちには『ペコム』があるじゃないの!)
祖父・
(決めたわ。『ペコム』のキャラはワンちゃんよ! 奏斗様には、犬耳をつけて『ペコム』のCMに出てもらう!)
可愛いバージョンの奏斗様が見られる。奏斗様とお近づきになれる……! ヒカリは春平に連絡を取るべく、スマホのメッセージアプリを開いた。
「皆さん、ホームルームを始めますよ」
担任が来てしまった。銀縁眼鏡の神経質そうな女教師だ。ヒカリは思わず舌打ちしそうになる。隠れてスマホ操作できないのが、このソファ席の欠点だ。
「本日より2週間、教育実習の先生が入られます。入って。モリシタ
クスクス……。
失笑が漏れる教室に、彼はおずおずと足を踏み入れた。前方の大型スクリーンに彼の名前が映し出されている。
あのピアノ王子、
「これから二週間、森下先生にはこのクラスの担任の他、音楽の授業を担当してもらいます。じゃ、先生」
銀縁眼鏡の担任は、やや心配そうに彼に挨拶するよう促した。顔を
「あ……も、森下か……と、いいます。皆さ……どうぞ宜し……ねが……しま……」
消え入りそうな声だった。
急場凌ぎで揃えたと思しきグレーのスーツはブカブカで、まるで制服に着られた中学生のよう。鼻のまわりのソバカスが、彼の顔立ちをより一層幼く見せている。
「聞こえませーん」
誰かが言うと、教室はイヤな笑いに包まれた。彼は、生白い顔をサッと赤く染めて俯いてしまう。
彼、森下奏人先生は。全てにおいて自信なさげでぎこちなくて、「先生」には程遠かった。
同名の、今をときめくピアノ王子・奏斗とのギャップも相まって。彼は来校初日にして、癖の強いお嬢様たちの格好の笑い者となってしまったのだった。
───
「そいつなら俺も見かけたぜ」
カゲは、そう言って煙を吐き出した。
「こんなところで吸わないでよ。寒いし」
「カビ臭えんだよ、俺の部屋」
胡桃沢邸、ヒカリの部屋である。
「カビ臭い」というカゲの部屋は、ヒカリの部屋に近い書庫だ。胡桃沢邸に忍び込んだのがバレた際に連れて行かれた書庫が、そのまま彼の部屋になっている。トイレまでの距離は申し分ないが、古本独特の匂いには慣れない。お嬢様の部屋の方が何百倍も過ごしやすいのだ。
バルコニーへ続く窓を開け放し、カゲは煙草をふかしている。かつて、彼がよじ登ったバルコニーだ(【泥棒の章】参照)。
煙草の銘柄にこだわりはない。大きな声では言えないが、適当にくすねた物で充分なのだ。ただし。この煙草は温厚な護衛仲間、鈴木さんから了解を得て貰った物である。
「ああいうの見てるとイライラしちゃう! もっと堂々とできないの!?」
ヒカリが話すのは、教育実習の森下奏人先生のことだ。初日とはいえ、彼は結局、生徒の前で何一つまともにできなかった。
「実は、あいつな」
カゲは途中まで言いかけると、ニヤリと笑って口をつぐんだ。
「やっぱいいや」
今朝、学校でトイレに行った後、カゲは奏人先生とすれ違っていたのだ。奏人先生は物陰に隠れて電話をしていたのだが……。その内容を思い出し、再び笑いが込み上げる。
「何よ?」
気になったヒカリがどれだけ聞いても、カゲは意味ありげに「カカカ」と笑うだけだった。