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2.胡桃沢家の朝


 広い空間に長いテーブル。胡桃沢くるみざわ家の食堂は、中世ヨーロッパの城をイメージした造りになっている。



 今朝は洋食だ。フワフワのパン、野菜スープにスクランブルエッグ、フレッシュジュース。一流ホテルから引き抜かれた料理長が、材料からこだわって腕を奮っている。



 ところで。胡桃沢家では、主人も使用人も全て同じ食卓について食事を共にするのが慣例だ。



 当主・胡桃沢春平くるみざわしゅんぺいが、ヒカリの寂しさが少しでも紛れるようにと提案したのだ。



 ヒカリの両親は不慮の事故で亡くなっている。ヒカリが小学校へ上がった頃のことだった。



 春平にとっては息子夫婦を失ったことになる。遺されたヒカリは大事な孫だ。あの事故以来、溺愛ぶりに拍車がかかっている。



 「何だよ、朝っぱらからこの曲は? ここは地獄か」



 後から入ってきたカゲが小指で耳を掘りながら、うんざりとした声を上げた。ダイニングルームには、先ほどからクラシック音楽が流れている。奏斗かなとのピアノ演奏を収録したCDである。



 「お黙りなさい!」



 既に席についているヒカリは、パンを片手にカゲを睨んだ。



 「ねーえ、橋倉。この曲は?」


 「フレデリック・ショパンの『練習曲第12番ハ短調作品10-12』。いわゆる『革命のエチュード』ですな」



 例によって、万能執事が即答する。



 「素敵だわ、奏斗様」



 うっとりと目を輝かせるヒカリを、祖父の春平や使用人らは温かく見守っているようだが。



 (茶番か)



 激しく叩きつけるような音が降ってくるダイニングルームで、カゲ以外の全員が爽やかな表情でパンを食べ、スープを飲む。



 芸術に疎いカゲは、クラシックなど聴いても眠くなるか暗くなるか、トイレに行きたくなるかのどれかだ。特に『革命のエチュード』の激しさは膀胱が急き立てられる。



 (せっかくトイレ行ってきたのに!)



 悪くない生活だったのに、とカゲは嘆く。早起きと護衛が面倒だが、美味い食事にありつける。



 しかし、お嬢様がピアノ王子に目をつけて以来、頭の痛くなるようなピアノ曲ばかり聴かされるようになった。



 (早いとこ金を引き出さねえと)



 カゲがフレッシュジュースを一気に飲み干した時。屋敷内に、ドタバタと足音が響いた。



 「会長!!」



 脂ギッシュな中年男性が、大きな腹を揺すりながら走り込んで来た。春平は顔をしかめる。



 「何じゃ、朝から騒々しい」



 財界のトップに君臨する胡桃沢家は、多数の事業を手がける。しかし、春平が外へ出ることはほとんどない。実際に動いているのはこの脂ギッシュな中年男性、胡桃沢あつし。ヒカリの伯父に当たる人物だ。



 事故で亡くなったヒカリの父には姉と妹がいる。厚は父の姉、秋子の夫。婿養子である。名前の通り全身が分厚い。



 「新しく立ち上げた警備会社の名前ですよ! お願いですから止めてください、『ペコム』なんて!」



 厚の悲壮感漂う叫びは、ダイニングルームに流れるショパンの『革命』に妙にマッチしている。



 「そんなことか」



 春平は心底面倒くさそうに、海苔のように黒々とした髪を撫でた。



 「おじいちゃん、また会社作ったの?」


 「そうなんじゃよー。R警備保障が気に食わんから、儂が作っちゃった」



 ヒカリには、とろけるような笑顔を向ける春平である。パリッとした白いシャツを着こなす春平は、『財界の鉄人』の異名に相応しく矍鑠かくしゃくとしている。



 春平とR警備保障の会長は、何故か昔から折り合いが宜しくない。恩を売るためにR警備保障を利用していたものの、気に食わなくて警備システムを切ってしまったのである。



 今、泥棒カゲがこの屋敷で平然と過ごしているのは、ジジイ同士の喧嘩が原因であった(【泥棒の章】参照)。



 「ヒカリちゃんからも言ってくれ! 『ペコム』なんて軟弱な名前」


 「『ペコム』っていうの? カワイイよ、おじいちゃん。キャラクターとかを作ってみたら?」



 ヒカリが身を乗り出すと、春平は「そうじゃなあ」と相好を崩す。



 「警備会社の名前なんだよ……?」



 もう、誰も厚の話を聞いていない。絶望的な響きをもって、ショパンの『革命』が終わりを告げた──。



 ───



 「ねえ、鈴木さん。この曲は?」



 学校へ向かうリムジンの中でも、奏斗のCDを聴くヒカリお嬢様である。春平に追い返された厚の車が横をすり抜け、別の道に入って行った。



 「えーっと……」



 さすがに万能執事のように即答とはいかない。



 鈴木さんは護衛の一人だ。七三分けの、温和を絵に描いたような人である。最近は、この鈴木さんとカゲが護衛についている。



 「ハンガリー狂詩曲第2番、ですね」


 「そう。ありがと」



 ヒカリは、愛おしそうにCDジャケットを撫でた。シンプルな黒いシャツで、少年のような笑みを浮かべてピアノを弾く奏斗が写っている。斜め横からアップで撮られたものだ。



 「お前。学校行く前によくこんなもん聴けるな」



 カゲが暗い顔で言った。胸の中に黒雲が広がるかのように気分が重くなり、同時に催してくる。



 「何をクネクネしてるのよ? 気持ち悪いわね」


 「う、うっせえ。曲名も分からねえくせに何が奏斗様だ」



 カゲが落ち着きなく吐き捨てた時。前方に、お伽話に出てきそうな城が姿を現した。桃色の三角屋根に真っ白な外壁。この城こそ、ヒカリが通う『蓮乃宮はすのみや女学院 高等部』。この城だけで高等部である。



 守衛の敬礼に迎えられ、整えられた庭園を悠々と進めば、モネの『睡蓮』さながらの美しい池が心を和ませる。車寄せには続々と高級車が連なり、お嬢様たちが護衛を伴って降りていく。



 ヒカリたちも、開け放たれた大きな扉からエントランスへ入った。一般的な学校で言えば、昇降口みたいなものであろうか。ともかく、二年生専用の棟へと歩き出したその時。甲高い声が響いた。



 「あーら。胡桃沢ヒカリさんじゃありませんこと? 相変わらず地味! ですのね」





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