広い空間に長いテーブル。
今朝は洋食だ。フワフワのパン、野菜スープにスクランブルエッグ、フレッシュジュース。一流ホテルから引き抜かれた料理長が、材料からこだわって腕を奮っている。
ところで。胡桃沢家では、主人も使用人も全て同じ食卓について食事を共にするのが慣例だ。
当主・
ヒカリの両親は不慮の事故で亡くなっている。ヒカリが小学校へ上がった頃のことだった。
春平にとっては息子夫婦を失ったことになる。遺されたヒカリは大事な孫だ。あの事故以来、溺愛ぶりに拍車がかかっている。
「何だよ、朝っぱらからこの曲は? ここは地獄か」
後から入ってきたカゲが小指で耳を掘りながら、うんざりとした声を上げた。ダイニングルームには、先ほどからクラシック音楽が流れている。
「お黙りなさい!」
既に席についているヒカリは、パンを片手にカゲを睨んだ。
「ねーえ、橋倉。この曲は?」
「フレデリック・ショパンの『練習曲第12番ハ短調作品10-12』。いわゆる『革命のエチュード』ですな」
例によって、万能執事が即答する。
「素敵だわ、奏斗様」
うっとりと目を輝かせるヒカリを、祖父の春平や使用人らは温かく見守っているようだが。
(茶番か)
激しく叩きつけるような音が降ってくるダイニングルームで、カゲ以外の全員が爽やかな表情でパンを食べ、スープを飲む。
芸術に疎いカゲは、クラシックなど聴いても眠くなるか暗くなるか、トイレに行きたくなるかのどれかだ。特に『革命のエチュード』の激しさは膀胱が急き立てられる。
(せっかくトイレ行ってきたのに!)
悪くない生活だったのに、とカゲは嘆く。早起きと護衛が面倒だが、美味い食事にありつける。
しかし、お嬢様がピアノ王子に目をつけて以来、頭の痛くなるようなピアノ曲ばかり聴かされるようになった。
(早いとこ金を引き出さねえと)
カゲがフレッシュジュースを一気に飲み干した時。屋敷内に、ドタバタと足音が響いた。
「会長!!」
脂ギッシュな中年男性が、大きな腹を揺すりながら走り込んで来た。春平は顔をしかめる。
「何じゃ、朝から騒々しい」
財界のトップに君臨する胡桃沢家は、多数の事業を手がける。しかし、春平が外へ出ることはほとんどない。実際に動いているのはこの脂ギッシュな中年男性、胡桃沢
事故で亡くなったヒカリの父には姉と妹がいる。厚は父の姉、秋子の夫。婿養子である。名前の通り全身が分厚い。
「新しく立ち上げた警備会社の名前ですよ! お願いですから止めてください、『ペコム』なんて!」
厚の悲壮感漂う叫びは、ダイニングルームに流れるショパンの『革命』に妙にマッチしている。
「そんなことか」
春平は心底面倒くさそうに、海苔のように黒々とした髪を撫でた。
「おじいちゃん、また会社作ったの?」
「そうなんじゃよー。R警備保障が気に食わんから、儂が作っちゃった」
ヒカリには、とろけるような笑顔を向ける春平である。パリッとした白いシャツを着こなす春平は、『財界の鉄人』の異名に相応しく
春平とR警備保障の会長は、何故か昔から折り合いが宜しくない。恩を売るためにR警備保障を利用していたものの、気に食わなくて警備システムを切ってしまったのである。
今、
「ヒカリちゃんからも言ってくれ! 『ペコム』なんて軟弱な名前」
「『ペコム』っていうの? カワイイよ、おじいちゃん。キャラクターとかを作ってみたら?」
ヒカリが身を乗り出すと、春平は「そうじゃなあ」と相好を崩す。
「警備会社の名前なんだよ……?」
もう、誰も厚の話を聞いていない。絶望的な響きをもって、ショパンの『革命』が終わりを告げた──。
───
「ねえ、鈴木さん。この曲は?」
学校へ向かうリムジンの中でも、奏斗のCDを聴くヒカリお嬢様である。春平に追い返された厚の車が横をすり抜け、別の道に入って行った。
「えーっと……」
さすがに万能執事のように即答とはいかない。
鈴木さんは護衛の一人だ。七三分けの、温和を絵に描いたような人である。最近は、この鈴木さんとカゲが護衛についている。
「ハンガリー狂詩曲第2番、ですね」
「そう。ありがと」
ヒカリは、愛おしそうにCDジャケットを撫でた。シンプルな黒いシャツで、少年のような笑みを浮かべてピアノを弾く奏斗が写っている。斜め横からアップで撮られたものだ。
「お前。学校行く前によくこんなもん聴けるな」
カゲが暗い顔で言った。胸の中に黒雲が広がるかのように気分が重くなり、同時に催してくる。
「何をクネクネしてるのよ? 気持ち悪いわね」
「う、うっせえ。曲名も分からねえくせに何が奏斗様だ」
カゲが落ち着きなく吐き捨てた時。前方に、お伽話に出てきそうな城が姿を現した。桃色の三角屋根に真っ白な外壁。この城こそ、ヒカリが通う『
守衛の敬礼に迎えられ、整えられた庭園を悠々と進めば、モネの『睡蓮』さながらの美しい池が心を和ませる。車寄せには続々と高級車が連なり、お嬢様たちが護衛を伴って降りていく。
ヒカリたちも、開け放たれた大きな扉からエントランスへ入った。一般的な学校で言えば、昇降口みたいなものであろうか。ともかく、二年生専用の棟へと歩き出したその時。甲高い声が響いた。
「あーら。胡桃沢ヒカリさんじゃありませんこと? 相変わらず地味! ですのね」