艶を放つグランドピアノと美しい青年に、スポットライトが当たっている。
儚い余韻を残して、青年は鍵盤から指を離した。ホールが割れんばかりの拍手に包まれる。
客席では、ヒカリが彼を見守っている。
青年が立ち上がってマイクを握ると、会場が水を打ったように鎮まった。すらりとした体躯にシルバー・グレイのタキシード。彼が美しい所作で礼をすると、亜麻色の髪がふわりと揺れた。うっとりするような甘い容貌に、そこかしこから堪え切れないように溜め息が漏れる。青年は、濡れたように艶やかな唇から柔らかな美声を発した。
「次の曲は、僕が愛するただひとりの
青年は、客席のある一点だけを見つめる。
「イヤぁ!」
「誰なの、愛する人って!」
「きいぃっ!」
会場中の女が悲鳴を上げる。ヒカリだけが、潤んだ瞳で彼を見つめていた。
(なんて素敵なの。私だけのために……)
青年は目を閉じて、鍵盤に伸びやかな指を落とした──。
「ふにゃー……
レースのカーテンを通して、柔らかな陽が部屋の中に入ってくる。
「おい! 朝だっつってんだろ!」
無情にも毛布が引き剥がされた。
「何すんのよ!」
悲鳴を上げたのは、この屋敷の令嬢・
名前以外は神秘のベールに包まれたピアニストだ。
別名、ピアノ王子──。
ヒカリが抱えているのは、そんな彼の1st写真集である。昨晩は、写真集を抱いて妄想しつつ眠ってしまったのだ。
「勝手に入ってこないで!」
パステルピンクのモコモコパジャマ姿のヒカリは、不満そうにベッド上で身体を起こす。大人が五人は悠々と横になれそうな、天蓋付きの豪奢なベッドだ。
「何度ノックしても起きねえからだろうが」
「そうだわ、鍵! かけたのにどうして!」
「コレがありゃ、どの部屋にも入れるんだよ」
使用人の男は、小さな鉤状の針金をコイントスのように指で弾くと、パシッと掌に受けた。いや、使用人にしては口も素行も悪いようだが……。
「女の子の部屋をジロジロ見ないでよ! イヤらしいわね!」
「そんなことより、こいつ写真集まで出してんのかよ。本業はどうした、本業は?」
「いいじゃないの。素敵なんだから」
「けっ! 作り物みてえな顔しやがって、気持ちわりぃ」
「なあに、カゲ。
カゲ。それがこの男の名だ。
職業は泥棒。
屋敷への侵入がバレて拘束されていたところを、ヒカリが気まぐれで雇ってしまったのである。護衛として。
……異を唱える者はない。
この屋敷では、「お嬢様の言うことは絶対」だ。
カゲはこの機に乗じてお宝をゲットし、サッサと逃げてしまおうと目論んでいるようだが。未だこの屋敷に留まっているところを見ると、計画は難航しているようである。
「もう! 着替えるんだから出てって!」
不機嫌なヒカリお嬢様である。ピアノ王子との夢を邪魔されたのが、余程お気に召さなかったとみえる。
「なあ。この家って現金あんのか? やっぱジジイの部屋か?」
食堂に向かいながら、カゲが言った。ヒカリは、これを華麗にスルー。直接訊く方がどうかしてるのだ。
(仕方ねぇ、もっかい自力で調べるか)
財界のトップに君臨する
(こうして見ると、そう悪くはないのよね……)
一方のヒカリも、カゲの横顔を盗み見て考え事をしている。この屋敷に盗みに入った時はだらしなく不潔な印象であったが、こうして不揃いだった髪を整え、護衛用の黒服に身を包んでみると──。
悪くない。
シャープな輪郭。鋭い目元は、護衛としては頼もしくも見える。意外に綺麗な横顔を眺めながら、ヒカリはあの夜のことを思い出していた。
──屋敷を汚されたくなければ、トイレ貸しな!
あの時カゲは、自分にナイフを突きつけてそう言ったのだった。内股の足は、仔鹿のようにプルプルと震えていた。
「……やっぱないわ」
一度地に堕ちたイメージは、二度と回復することはない。
(やっぱり奏斗様がいちばん素敵。カッコ良くて清潔感があって、言うこともやることも超スマートなんだもの)
カゲが突然
「どこ行くの?」
「ヤボ用だ」
早速のトイレだ。これでもまあまあ我慢した方である。
(この後、時間がないかもしれない……!)
護衛はお嬢様を学校へお連れし、さらにその後のお世話もしなくてはならない。その間のおトイレが心配だ。彼は尋常じゃないほどトイレが近いのだ。
しかし、彼の尿意はある種のセンサーでもある。様々な危険を知らせるセンサーだ。盗みを実行する際には特に役に立つ。トイレを探して
もっとも、ヒカリと出会った時にはセンサーの調子が少々狂っていたようだが──。