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1.ピアノ王子


 艶を放つグランドピアノと美しい青年に、スポットライトが当たっている。

 儚い余韻を残して、青年は鍵盤から指を離した。ホールが割れんばかりの拍手に包まれる。



 客席では、ヒカリが彼を見守っている。



 青年が立ち上がってマイクを握ると、会場が水を打ったように鎮まった。すらりとした体躯にシルバー・グレイのタキシード。彼が美しい所作で礼をすると、亜麻色の髪がふわりと揺れた。うっとりするような甘い容貌に、そこかしこから堪え切れないように溜め息が漏れる。青年は、濡れたように艶やかな唇から柔らかな美声を発した。



 「次の曲は、僕が愛するただひとりの女性ひとに捧げます。曲名は『ヒカリ』……。聴いてください」



 青年は、客席のある一点だけを見つめる。



 「イヤぁ!」


 「誰なの、愛する人って!」


 「きいぃっ!」



 会場中の女が悲鳴を上げる。ヒカリだけが、潤んだ瞳で彼を見つめていた。



 (なんて素敵なの。私だけのために……)



 青年は目を閉じて、鍵盤に伸びやかな指を落とした──。








 「ふにゃー……奏斗かなとしゃまぁ……ムニャ……」



 レースのカーテンを通して、柔らかな陽が部屋の中に入ってくる。



 「おい! 朝だっつってんだろ!」



 無情にも毛布が引き剥がされた。



 「何すんのよ!」



 悲鳴を上げたのは、この屋敷の令嬢・胡桃沢くるみざわヒカリである。腕の中には大判の写真集。切れ長の三白眼が、誘うようにこちらを見つめている。



 奏斗かなと



 名前以外は神秘のベールに包まれたピアニストだ。

 別名、ピアノ王子──。



 ヒカリが抱えているのは、そんな彼の1st写真集である。昨晩は、写真集を抱いて妄想しつつ眠ってしまったのだ。



 「勝手に入ってこないで!」



 パステルピンクのモコモコパジャマ姿のヒカリは、不満そうにベッド上で身体を起こす。大人が五人は悠々と横になれそうな、天蓋付きの豪奢なベッドだ。



 「何度ノックしても起きねえからだろうが」


 「そうだわ、鍵! かけたのにどうして!」


 「コレがありゃ、どの部屋にも入れるんだよ」



 使用人の男は、小さな鉤状の針金をコイントスのように指で弾くと、パシッと掌に受けた。いや、使用人にしては口も素行も悪いようだが……。



 「女の子の部屋をジロジロ見ないでよ! イヤらしいわね!」


 「そんなことより、こいつ写真集まで出してんのかよ。本業はどうした、本業は?」


 「いいじゃないの。素敵なんだから」


 「けっ! 作り物みてえな顔しやがって、気持ちわりぃ」


 「なあに、カゲ。ひがんでるの?」



 カゲ。それがこの男の名だ。

 職業は泥棒。



 屋敷への侵入がバレて拘束されていたところを、ヒカリが気まぐれで雇ってしまったのである。護衛として。



 ……異を唱える者はない。

 この屋敷では、「お嬢様の言うことは絶対」だ。



 カゲはこの機に乗じてお宝をゲットし、サッサと逃げてしまおうと目論んでいるようだが。未だこの屋敷に留まっているところを見ると、計画は難航しているようである。



 「もう! 着替えるんだから出てって!」



 不機嫌なヒカリお嬢様である。ピアノ王子との夢を邪魔されたのが、余程お気に召さなかったとみえる。



 「なあ。この家って現金あんのか? やっぱジジイの部屋か?」



 食堂に向かいながら、カゲが言った。ヒカリは、これを華麗にスルー。直接訊く方がどうかしてるのだ。



 (仕方ねぇ、もっかい自力で調べるか)



 財界のトップに君臨する胡桃沢くるみざわ家だ。現金以外にも、金になるものは山ほどあるだろう。



 (こうして見ると、そう悪くはないのよね……)



 一方のヒカリも、カゲの横顔を盗み見て考え事をしている。この屋敷に盗みに入った時はだらしなく不潔な印象であったが、こうして不揃いだった髪を整え、護衛用の黒服に身を包んでみると──。



 悪くない。



 シャープな輪郭。鋭い目元は、護衛としては頼もしくも見える。意外に綺麗な横顔を眺めながら、ヒカリはあの夜のことを思い出していた。



 ──屋敷を汚されたくなければ、トイレ貸しな!



 あの時カゲは、自分にナイフを突きつけてそう言ったのだった。内股の足は、仔鹿のようにプルプルと震えていた。



 「……やっぱないわ」



 一度地に堕ちたイメージは、二度と回復することはない。



 (やっぱり奏斗様がいちばん素敵。カッコ良くて清潔感があって、言うこともやることも超スマートなんだもの)



 カゲが突然きびすを返した。



 「どこ行くの?」


 「ヤボ用だ」



 早速のトイレだ。これでもまあまあ我慢した方である。



 (この後、時間がないかもしれない……!)



 護衛はお嬢様を学校へお連れし、さらにその後のお世話もしなくてはならない。その間のおトイレが心配だ。彼は尋常じゃないほどトイレが近いのだ。



 しかし、彼の尿意はある種のセンサーでもある。様々な危険を知らせるセンサーだ。盗みを実行する際には特に役に立つ。トイレを探して彷徨さまようことで、追手から逃れることも可能だ。実際、カゲは何度も自分の尿意に救われているのだ!



 もっとも、ヒカリと出会った時にはセンサーの調子が少々狂っていたようだが──。




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