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3.箱入り令嬢、現実を知るもお嬢様ぶりを発揮


 高級住宅街の中でもひときわ目を引く白亜の城、胡桃沢くるみざわ邸。



 令嬢の部屋から続く洋風の広いバルコニーは、静寂に包まれていた。令嬢の危機に駆けつけた彼女の祖父と執事も、時が止まったかのように微動だにしない。



 シルクのガウンを纏った祖父・胡桃沢くるみざわ春平は、財界の鉄人と呼ばれるに相応しく、七十を間近にして無駄な贅肉のない堂々たる体格。対して顔つきは柔和である。海苔のように黒々とした髪がトレードマークだ。



 執事の方は、灰色の髪を綺麗に撫でつけた紳士である。



 対峙する者たちの間を、一月の冷たい風が吹き過ぎた。



 (トイレって)



 ふつふつと怒りが込み上げる。鮮やかに奪ってくれるんじゃなかったのか。それに……。



 (何なんだ、その内股は!)



 ヒカリは、怒りにまかせて泥棒のすねを思い切り蹴り上げた。



 ───



 (カッコわりぃ──!)



 ラグジュアリー感あふれるレストルーム。ピカピカに磨き上げられた最新家電のような便座に腰を落とし、頭を抱えるカゲである。



 何かのセンサーに反応したのか、小さなスピーカーからヒーリングミュージックが流れ始めた。落ち着かない。トイレのくせに広すぎるのだ。



 (あのガキ、腕を思い切りつかみやがって! あれがなければ、とっくに逃げてた!)



 ヤケになって金を脅し取ろうとしたら、「トイレを貸せ」と口走ってしまった。助かったけど。



 (だったら初めから、トイレを借りにきたフツーの人っぽくしとけば良かった!)



 ともかく脱出だ。カゲは上を向いた。伸び上がって、天井裏に続く四角い蓋をパカッと開き……静かに閉じる。先ほどの執事が無表情に待ち受けていたのである。



 (くっそ、万能か)



 耳をすますと、レストルームの外にも人声がしている。



 「すまんかった、わしが警備システムを切ったばかりに。あの会社は信用ならんくてのう」


 「何で? R警備保障の会長さんとは旧知の仲でしょ?」


 「あいつムカつくもん」


 「またケンカ、おじいちゃん?」



 ジジイ同士のケンカはともかく、外にいるにはガキと年寄りだけ。なんとか突破できそうだ。カゲはニヤリと笑うと、レストルームの扉を細く開けた。



 突然、首根っこをつかまれた。いつの間にか執事が戻って来たのである。



 (万能か!)



 この細っそりとした初老の紳士のどこに、そんな力が潜んでいるのか。そのまま書庫のような部屋へ引きずられて行った。



 不貞腐ふてくされて床にあぐらをかくと、目深に被ったフードをぎ取られる。





 (こんなのを運命の人だと思っていたの……?)



 現実に直面するヒカリお嬢様である。真っ黒なパーカーのフードから現れた顔は──。



 歳がいっているようでもあり、意外と若そうでもある。細面でキリリとした目元は、一般的に見てそう悪くはない。パッと見はヒカリ好みの優男やさおとこだ。



 しかし、あの「内股でトイレを我慢する姿」は脳裏から離れない。一度地に堕ちたイメージは、二度と回復することはないのだ。



 そして、襟足のあたりまで不揃いに伸びた茶色がかった髪。清潔感がないのも大幅にポイント減である。



 「通称カゲ。少々名の通ったコソドロですな」



 二階の書庫。執事・橋倉が落ち着いた声を発する。ヒカリは、祖父の胡桃沢春平とともに無言で彼を見下ろした。



 「何で知ってる? 万能か」



 カゲの問いに反応する者はない。万能執事・橋倉に知らないことはないのだ。ヒカリは、カゲに対する興味が急激に失せた。



 「……くしゅっ」



 書庫の埃っぽさのせいか、鼻がムズつく。



 「お、お嬢様がくしゃみをされたぞ!」



 橋倉が青い顔で叫ぶと、メイドがカシミヤのストールを持って走って来た。春平が大事そうにヒカリの肩を抱く。



 「大変だ。ヒカリ、明日は学校を休みなさい」


 「んー、そうね」



 ヒカリはちょっと鼻をすすると、ストールをかき合わせた。



 ───



 カゲは呆気に取られた。



 (まあいいや、今のうちに逃げ……)



 橋倉に首根っこをつかまれる。気づかれてた。万能か。結局、さっきと同じ場所に座らされる。



 料理人ぽい服装の太った男が駆けつけた。橋倉が指示を出す。



 「料理長! お嬢様が風邪を引かれた。玉子酒を」


 「なんと! すぐにご用意いたします!」


 「んー、ココアがいいわ」


 「それがいいでしょう! ココアだ!」


 「はっ! ただ今!」



 カゲは逃げるのも忘れてポカンとした。何だろう、こいつらは──。



 ヒカリが何かを思い出したように「あッ」と頬を押さえる。



 「学校に本を置いてきちゃったわ……残念」


 「なんと! 可哀想に、我が孫よ」



 ジジイが涙ぐんだ。



 (……茶番か)



 いい加減、気持ちが悪くなってくる。カゲは、ボリボリと首筋を掻いた。



 「あッ! 諦めなくてもいいじゃない、あの本!」



 ヒカリがポンと手を打って振り向いた。彼女の動きに合わせて、大人たちは右往左往している。




 「ねえ、泥棒さん。取ってきてちょうだい。私の本」





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