駅に着いたことを連絡しようとスマホを取り出したが、やっぱりやめた。二十分前に送った、今から電車に乗る、というメッセージに既読が付いていなかったからだ。結乃はスマホをカバンに入れて歩き始めた。
時刻は午後八時を過ぎたころ。
二日に一回はこの道を通る生活を続けて五年。もっと会社の近くに住んでくれればよかったのだが、満を持して上京した先生が選んだのは、昼の生活音が嘘のように静まり返るこの住宅街だった。
結乃は漫画雑誌の編集者。売れっ子漫画家の仕事場兼自宅に通いつづけている。
駅から先生の家まで徒歩十分、民家を縫うようにして行くと最短七分。でも今日はスーパーに寄りたいから近道は使わない。
駅前の家族向けマンションを過ぎて少し歩くと、年代物の民家やアパートと今風の住宅が混在する中に、やたらと光る建物が見えてくる。それがスーパーだ。
年中通して過剰なイルミネーションはこの住宅街に合っていない。
それでも地域密着を謳う経営方針と夜中の一時まで営業している利便性からか、ひと昔前のパチンコ屋みたいな電飾を近隣住民は大目に見ているらしい。
夕食時を過ぎたスーパーは値引きを期待する客で混んでいた。結乃は人だかりを横目に、食材をてきぱきと買い物カゴに入れる。
白菜、ネギ、豆腐、鶏肉にシイタケ。相変わらず今日のメニューも鍋だ。
「また鍋かよ」と子どもみたいに口を尖らせた先生の顔が目に浮かんだが、特に母性がくすぐられることはない。メシを作ってやっているのだから、感謝してほしいくらいだ。
食事だけではない。掃除も洗濯も身の回りのことは全て結乃がやっている。これも仕事のうち、と割り切っているが、たまには「ありがとう」のひとつくらい言えないものか。
考えていると無性に腹が立ってきた。シメのラーメン用に、と手に取った中華麺に力を込め、乱雑にカゴに入れた。
もやもやと膨らんだ気持ちは、レジ横の肉まんで手を打つと決めている。
ひと気のない静かな道を肉まんを頬張りながら歩く。先生の家まであと五分。
暖かなオレンジの灯りを横目に街灯の無機質な光の下を歩く。
たまの休みに会う友人に話しても「オカンみたい」と呆れ笑われるばかりで、理解はしてもらえない。プライベートの時間が圧し潰され、そうそう歳も変わらないひとのオカンになる毎日。憧れた編集者とはこういうことが仕事なのだ。
肉まんは温かった。
レジ横のただの肉まんのくせに肉の餡がしっかりと詰まっている。噛むごとに肉汁がジュワッと溢れだす。餡の塩味と皮の少しの甘さがちょうどいい。
毎日毎日、こんなに頑張っていることをこの肉まんだけが認めてくれているようなそんな気がする。
うっかり涙が出そうになった。そこまで疲れていたことに驚いて、少し笑えた。
こんな仕事だが、やりがいはある。世の中を明るくする一部となれるなら、オカンになってもいいと思う。
だから今日も最後のひと口を飲み込んで、結乃は前を向いた。目の前には玄関灯の点いていない、静かな一軒家。
きっとまだ風呂に入っていない。腹を空かせながら、寝ることさえ忘れて、先生は生命を削って漫画を描いている。
先生の連載作品が完結するまで、買い物袋片手にドアを開けるこの日々は続く。