わたしは、中身が手紙で合っているかを確認するために、蓋と器の二つに分かれた木箱を留める紐をしゅるりと解く。
「一応、間違えてたらいけないから、ちらっとだけ見る」
本人には問えない代わりに、妹さんである美紅さんに宣言して表題だけチラ見する。
すると美紅さんは一緒になって箱の中をチラ見しながら小鳥のように首を傾げる。
「そのお手紙はどこに届ける何なのかしら……」
何の気なしに、という雰囲気ではあるものの、美紅さんの方から詳しく聞くのは遠慮するとか一旦一歩離れようとかそういう気配は一切見受けられない。
そこでわたしは、後回しにしていた気まずさを拾うことに、観念した。
「……えぇっと、奥さんに届ける離縁状だそうで」
「…………え?」
数秒、美紅さんはぼんやりした印象の目の焦点をズレたままいて、はたと復帰する。
「え、そんなのがあったの?」
ちょっとシリアスな気配すら出てきた。離婚するなんて夢にも思わないような夫婦関係だったんだろうか。
わたしは言いにくさを逃す手遊びに後頭部を掻きながら、自分が知っていることをそのまま伝える。
「先代にあたる魔女が受けた依頼だからわたしも詳しくは知らないんだが、生前に依頼されていたみたいだな」
「そう……」
美紅さんはまたぼんやり視点を浮かせて、それから改めてはっきりとこちらを見る。
「どこに届けるのかっていうのは、具体的に聞いてるの?」
わたしはスラックスのポケットに仕舞っていた魔女の予定帖を出す。ちょっと取り出しづらい。
休日だからほんとはカーゴパンツかなんかで来たかったんだが、一応神様相手だしと思ってスラックスとシャツに上着を足した格好で来ているのだ、今日は。無駄な気使わなきゃよかった。
余計なことに気を取られかけたが、わたしは今回の依頼のページを開いて、書かれているものの特に住所の部分を見せる。
「この住所って言われてる。一応座標は調べたら出てきたよ」
書いてあるのは古い住所だ。今も場所そのものはあるけど、場所を指し示す言葉や数字という意味での『住所』がかなり違う。わたしから見て郵便番号が二桁足りなかったのも、平成のどっか以前までは五桁とかでよかったってだけだったらしい。
昔のことを知っている美紅さんは、予想通り平然と顎を引く。
「ああ、なるほどね。わかったわ」
それから口元に手を当てて考える素振りを見せて、ぱっと離して顔を上げる。
「……そうね、今日は遅いし、ここに泊まって行きなさいな」
「えっ」
意外な申し出にわたしは目をみはる。
「いいよ、そんな。近所だし、ギリ届けてそのまま家帰れるし」
けど、美紅さんは穏やかながらしっかりと首を横に振る。
「ギリ、って自分でも言っているでしょう? 今日は風も強いし、ちゃんと休みなさい。それとも子供だから泊まり込みはできないかしら」
子供。未成年だからそれはそうなんだけど。でも、わたしはこれでも魔女に分類されていて、自分で取っていい取るべき責任や判断は、普通の大学生くらいはある。
わたしは色々考えながら美紅さんに言う。
「いや、そこは平気。泊まっていいなら、風強いから助かるけど……急にいいの?」
実際助かるとか、気を使うからちょっと抵抗あるとか、そういうのがないまぜの言動を、美紅さんはあまり気にしていないふうな態度だ。
「いいわ。むしろ危ない思いをされるより泊まって休んで頂戴な」
わたしは都合とかなんとか以前に美紅さんに逆らうのもなんだか違う気がしてきて、素直に頷いた。
「わかった。お世話になります」
着替えから何から全部世話になって、わたしは客間に泊められた。
お風呂がちょっと離れたところにあって客間までの帰りで湯冷めしたり、トイレがちょっと離れたところにあって夜中に迷子になったりはしたけど、それ以外は特段、なんてことのない夜が過ぎて、明けた。
翌朝、美紅さんは焼き鮭と味噌汁に麦ご飯と漬け物という、朝からきっちりしたご飯を出してくれた。お茶も水も丁度良い。
わたしも急にお世話になる分何かしら手伝うつもりだったのだが、朝は起きてきたらすでに朝食も着替えも準備済みだったのだ。まあ、何か支度が残っていたところで、わたしがやったら段取り悪くのろのろだっただろうけど。
わたしは自分の隣に離縁状の入った木箱を置いて、朝食をいただく。
「いただきます」
「どうぞ」
既に朝食を終えた美紅さんが、緑茶を手に包んだままわたしの食事風景を眺めている。
そんなに見つめられたらご飯なんか食べづらいはずだけど、わたしは何故か気にせずに、『美味しい』なんて何度も伝える余裕も持って朝食を食べ終える。
そして、「ごちそうさまです」と手を合わせた瞬間だった。
視界が不快感なしにぐらりと揺れて、わたしはふんわりと畳に寝そべってしまう。突然のことのはずなのに、焦りはない。だって、急に眠くなっただけだから。
とてもじゃないけど起きていられないその眠気は、わたしを優しく夢の中に引き摺り込む。
瞼を持ち上げられなくなる直前、最後に、美紅さんの柔らかい声がさらりと言ったのが聞こえた。
「おやすみなさい」
夢の中でわたしは、木造の建物の中から外の桜を眺めていた。
建物の中は独特の匂いが漂っていて、絢爛な色味で、なのに落ち着く。
「今日は見事な水色の空だなあ」
隣に座っていた男が、盃を手に言った。
わたしは、そうだなとかそうですねとか言おうとしたけど、何の言葉も出てこない。
男はそんなわたしに構わず立ち上がると、観音開きの広い扉から出て行って、賽銭箱の横を抜けて巫女服の女の隣に立つ。よく見れば美紅さんだ。
わたしがぼんやり眺める前で、二人はとても仲睦まじく話している。
ああ、いいなあ。
わたしは夢の中なのにまた眠くなる。
そんなわたしに、先ほどの男が振り返って何かを大目に見るときの大人の顔で笑う。
「愛いのう、愛いのう。まだまだ子供に見えるぞ」
そんなことないだろ。もう高校生だし見習いだけど魔女もやってんだぞ。
そう言いたいけど、口は動かない。
すると男ははははっと気持ちよく笑いながら、ずかずかとわたしの前に来て、わたしの頭を撫でる。
「眠ってしまったことは許す。だがな、しかと渡せよ」
「わかった」
朝食を食べていたちゃぶ台前で、わたしは言葉と共に目を覚ました。
直感的にわかる。あれが依頼元の神様だ。めっちゃ釘刺された。
わたしは手探りで、隣に置いていた木箱を取ろうとする。
が、手は畳の上を滑るばかりで何にも当たらない。
「あれ?」
寝ぼけているせいかと思い目を擦るが、存外ぱっちり目を覚ませている。
だから、今度は目視で木箱を探す。
「え……」
離縁状の入った木箱が、どこにもなかった。