僕が時計台の土台に腰掛けての読書をやめたのは、痔になったからだった。
僕の貧弱な尻は、石作りの土台に座り続けることに不向きだったらしい。
それとも、石の上にも三年という言葉は、僕が思っていたよりもずっと過酷なものだったということなのだろうか。
「今からでも尻の筋肉を鍛えた方がいいかな?」
「知らねえよ。なんでオレが男の尻の話に付き合わなきゃいけねェんだ」
目の前に座っているのは腐れ縁の男。ツッコミを入れるときだけ荒っぽいタメ口を叩くが、かなり年下だったはずだ。
僕が
僕たちは今、落ち着いた喫茶店に置かれた柔らかなソファーの上に座り、向かい合っている。間にはテーブル。そしてマスターのご息女の趣味で揃えられた可愛らしいティーカップとソーサーが二組置かれている。
「それより先生、仕事のことです」
目の前の彼が言葉遣いを丁寧なものに直して、話を元に戻す意思を示す。なるほど、それ自体は承知した。ただし、僕にはそんなことよりも気になることがある。
「未だに君にも先生と呼ばれてしまうねえ……」
僕は先生と呼ばれるのが嫌いだ。講師をやらなくなったきっかけだってそれだ。
本当は『◯◯講師』とでも『◯◯さん』とでも呼んでもらえたらよかったのだが、学生たちは『教授』『助教授』『講師』『コーチングスタッフ』などが入り混じる目上の人間たちの呼び分けに戸惑って、大概が全員を『先生』と呼んだ。
僕だって鬼じゃあない。学生たちの立場を考えて、学生たちにだけは『先生』呼びを正式に許していた。
だけど、ある日僕は「講師をやらなければ学生たちのために呼ばれたくもない呼び方をされることはない!」と気づいた。その天啓に従って講師を引き受けなくなったというのに、まったく、この子は。
「今更でしょう。アンタが『先生』って付けられてない場面の方が中々見ねえよ」
「そうだったかなぁ」
昨日行ったファミレスでは『様』って付けてもらったし、ご近所さんには『さん』で呼ばれるんだけどなぁ。
「……余計なこと考えてるだろ」
「余計じゃないかもよ?」
僕は笑った。
客観的に見れば余計なことだと謗りを受ける内容だとわかっていながら、僕は僕の思考を放し飼いにして脳の中の広い草原を好き放題走り回らせている。
「『先生』呼びは許可してないんだけどなぁ」
僕のぼやきを、彼は無視する。
「ともかく、メールで送った執筆依頼のことです。オレはアンタがいいと思って打診を掛けたんだ。やるでもやらんでもいいから返事くださいよ」
「ふむ……確か、オカルト関係の小説の依頼だったね。それなら、」
僕は試すように老眼鏡をずらして、上目遣いの裸眼で彼の顔を覗き込む。
「やっぱり僕の尻の話になる」
「はあ?」
予想通りに顔を歪めた彼に、僕はしてやったりとばかりに笑う。
へっへっへっへっへ。
僕は文筆業と大学講師以外の仕事をしたことがない。肩書きだけで殆ど何もしていないものも加えると、大家さんもやっているけれど。
文筆業で一発当てたときの資産運用に大成功して、ずっと好き勝手悠々自適に暮らしてきた。
だから仕事をしたくなければ仕事をしなくてもいい。僕らの人種にとっては排泄に等しい『文章を書く』『読ませる』という行為だって、インターネットを介せばやり放題だ。人目に触れる機会や金銭授受の多寡こそ変われど、そこを重視しなければ何でもない。
ちなみにそれでいうと、僕は結構長いこと催していない。理由は簡単、作品を生み出せるほど食べてないからだ。
食べてないというのは、僕が新しい情報や情緒を受け取らずに過ごしているという意味合いだ。勿論生きている以上絶食しているわけじゃない。ただ、昔のように人が創ったものに頻繁に触れてはいない。
件の彼のメールに返事ができなかったのも、それが原因だった。せっかく縁を繋いでくれた仕事なら受けたいものだが、書けない。
それもこれも、僕が痔になったせいだ。
僕は読書体験に外出を必要とする。どうしてとか言われてもわからない。昔から部屋に閉じこもって本を読む気になれない。どこか出掛けた先、それも外で人も多い場所でないと中々集中できないのだ。本以外の媒体なら家でもよかったが、ネット友達に勧められたゲームなんかは一本クリアするのに半年を要するし、動画なんかも楽しめるには楽しめるが、書くための刺激には少し足りない。
そうなると、やっぱりあの時計台の土台にでも腰掛けて本を読みたい。
「ああ、そうだなあ……」
僕は一人、自室の窓から外の青空を見上げて、自分の心の動きに納得する。
一度思い浮かべてしまうと、何としてもあそこで本を読みたい。読まなければいけない。ならば、僕が最初にすることは決まっている。
僕はパソコンを立ち上げて、件の彼のメールに返信する。
読めさえすれば確実に書けるのだ。答えは「是非」だった。
* * *
私は入社一年目の新人編集者だ。
今は書を置いて町に出て、この街の待ち合わせスポットとして有名な時計台の下に立って、人を探している。
編集部の先輩が急に待ち合わせに向かえなくなったとかなんとかで、作家先生に渡すものを預けられているのだ。
「こんなの渡して失礼じゃないのかなぁ……」
お団子にした髪を弄って、私は手元の預かり物を見下ろす。
丈夫そうなドーナツクッションが入ったトートバッグだ。ご丁寧に洗い替えのカバーまで二枚も入っている。先輩みたいに付き合いの長い同性ならともかく、初対面の異性に渡されたら嫌じゃないだろうか。
問題は荷物だけではない。先生が見当たらないのだ。
先輩は見ればすぐわかると言っていた。髪が短い壮年の男性で、顔も編集部にある著者近影からちょっと老けた程度で、白いワイシャツと黒いスラックスの落ち着いた格好をして、おそらく文庫本を読んでいると。
だけど時計台の下に座っている何人かは、見た目もほど遠ければ手に持っているのもスマホかタブレットだ。
先生、まだ来ていないのかな……。
私は少しの間、待ってみることにする。
――そうして、たっぷり小一時間後になって私は先生と出会う。
古着屋の悪ノリに乗っかってロングヘアーのかつらをつけた、ヒッピーみたいな格好の先生に。今日初めて電子書籍に乗り換えて、タブレットを片手に持った先生に。
不安だった分出会えた感動で泣いてしまった私を、目印にした時計台が見下ろしている気がした。