目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第四十一話 『フィルムカメラの頼み』その7

「どこから話そうねぇ」

 人工池の真ん中まで来たボートの上でローエンが遠い目をするので、わたしはズバッと言い返す。

「まずはどうしてフィルムカメラのことわたしに話さなかったのか教えて」

 そこから教えてもらわないと、この不安定なボートの上で暴れてしまいそうだ。

 わたしは、再び泣き出さないように目に力を入れて、狭い木のボートで向き合う位置に座るローエンを見つめる。

 すると、ローエンはすこし目を見開いて、それからすっと頭を低くした。

「悪かった。……ここまで腹を割らずに来たことの弊害が、こんな風に出るとは思わなかった」

「…………」

 わたしは頷きだけを返して、あとはジッと、ローエンの言葉を待つ。核心に入る前にこちらが余計な口を挟んで話を逸らしてしまったら世話ない。

「簡単にいえば、必要ないと思っていた。お前のことを……そうだね、もっと割り切れる子だと思っていたんだ」

「そ、…………」

 そんなことないと反論しようとして、すんでのところで、わたしは自分の言動を振り返る。

 ローエンの前で見せてきたわたしは、ひょっとすると、背伸びが上手くいきすぎていたのではないだろうか。

「そう。そうやって反論する前に一度考えることができる。お前がしっかりしているものだから、私もすっかり配慮してやるのを忘れていたんだ」

 そこまで言ってから、ローエンはやっとその小さな頭を上げる。

「一応説明しておくとね、あのフィルムカメラは本来もっと早く廃棄されるはずだったんだよ。つまり、依頼を叶えて意識が千々になり本体が動かなくなったとしても、それは例えるなら、幽霊を成仏させるのと同じことでしかないんだ。……それでも、お前は納得しづらいかい?」

 わたしは反射的に言い換えさずに、五秒考えてから答える。

「……うん。ていうか逆にお祓いの方に納得しづらくなった。今はまだ存在してるのになくなってもらうって、なんかよく考えると怖い」

 ジッと話しだけするのもちょっとつらくて、わたしはオールを軽く回してボートをゆっくり動かす。

 水がキラキラ光ったのが目に入って、わたしは顔を顰めた。

 しかも魔女帽子の上から降り注ぐ陽光も容赦なくわたしの頭を灼く。黒だから熱を集めまくりで、あちぃ。

 黒い毛皮も負けず劣らず熱いだろうに、ローエンは文句の一つも垂れずにまっすぐ座ってわたしを見つめている。

「わたしの手で、あのフィルムカメラを『ない』にする。……やっぱり、怖いよ。魔女だってわたしのせいでいなくなったようなもんだったんだ。またかって思う。またそんなことするのかって。怖いよ」

 思い起こさないようにしていた魔女とのことが、わたしの胃を炙って、心臓をドコドコ蹴り回す。蓋をしていた感情と記憶が暴れそうだ。変な汗かいてきた。

 うずくまりそうになったわたしに、ローエンは全く別のことを言い出す。

「あのフィルムカメラも不憫な奴でね……」

 敢えての話題選びだとわかったから、わたしも黙って聞くことにする。

 ローエンは小さく頷くと、ふいと視線を外した。水面の上に、そのときの景色でも思い浮かべているんだろうか。

「話してわかる通り、奴自身は『すごく普通の平和な性格の意識』なんだ。誰かの幸せな記憶を記録することに憧れるようなね。だけど持ち主は違った。悲劇の現場や動物の死骸の写真を撮ることだけが慰めになるような、孤独な少年だった」

「……フィルムカメラは、ずっとそのことが嫌だったのか?」

 わたしが質問を挟むと、ローエンはゆるゆると首を振る。

「持ち主の孤独に寄り添ってやれたことはカメラとして誇れると、そう言っていた。今もそれは変わらないだろう。でも、その少年はちょっとした不注意から火事に巻き込まれた。そのとき、死の間際研ぎ澄まされた少年の感覚が、フィルムカメラの中の意識を見つけた」

 火事。どれだけ恐ろしかっただろうとわたしは想像する。陽光の暑さだけで音を上げがちなわたしには、きっと一秒も耐えられない。

「フィルムカメラも覚醒していない状態だったからね、趣味が違いすぎたことまでは気づかなかったそうだ。でも『意識があるなら理想の写真があったのかもしれない』と、少年は考えた。炎の中で、自分の孤独に寄り添い続けたフィルムカメラに、もうフィルムカメラ自身が望む写真を撮ってやれないことを悔やんで死んでいったんだ」

 わたしは思う。思おうとする。他人事だ。わたしが勝手に泣くなんて、場違いかもしれない。でも、泣いたばかりで剥き出しの心から、勝手に涙が滲む。

「そして、少年の幽霊はたまたま魔女に出会った。少年は自分の『幽霊としてこの世にしがみつく才能』を対価に、自分が撮った一番の最高傑作を報酬に、フィルムカメラを蘇らせた。――フィルムカメラが、何か望むなら叶えてやってほしいと残してね」

 対価はもちろん消えるものだ。それが魔女の世界の常識。つまり、少年はこの世にしがみつく才能を失っている。だからきっと、幽霊として出てこない他の死者のようにこの世に溶けて還元されて、雨や風や空気や他の生き物の一部になった。

「皮肉なことに、目を覚ましたフィルムカメラが一番に悔やんでいたのは、孤独に生きた少年が自分のために心を痛めて死んでいったことだったよ」

「そんな……」

 思わず、悲しみがわたしの口をつく。

 だけどローエンの話はもう少し続く。

「フィルムカメラは少年の後悔を濯ぎたいんだよ。だけどそのためには、自分が望んだ『幸せな記憶』を記録するとき、自分自身も心から楽しめなくてはならないと考えた。それで、あの棚の上でフィルムカメラ自身の心の中の喪が明けるのを待っていたんだ」

「喪が明ける……」

 わかるようでぼんやりした言葉をわたしがなぞると、ローエンは頷く。

「すぐに明るい気分になれるほど、気持ちの切り替えが早くなかったんだ。無機物は人間と心が近いからね。時間が洗い流すのを待たなくてはいけないときがある」

 ちゃぷ、がこ、と音がして、わたしは惰性で池の端に戻ってきてしまっていることに気づく。端に軽くぶつかっちゃったし、少し漕げば船着場だ。

 ローエンは突然ボートの上を移動して、わたしの脛に額を押し当てる。

「お前にも本来は時間が必要だったのに、事前の警告すらできなかった。……すまないね」

 わたしはローエンの、猫の体の温かさになんだかひどくほっとして、ローエンを抱き上げると、猫に嫌われる幼児がそうするようにぎゅっと抱きしめる。

「ほんとだよ。ほんとだよ、こわいよ。こわい……魔女のことだって、わたし……っ」

 そうしてわたしは子供のように泣いた。

 ずっと、ローエンの前では泣かなかったのだ。だって、魔女を失ってつらいローエンの前で、直接の原因に近いわたしが泣いたらいけないと思っていたから。


 わたしはずっと、怖がっている。色々重なった偶然のせいで死にかけたわたしを助けた魔女は、わたしのせいで消滅したようなものじゃないかって。それって、わたしが魔女を、そうしたのと――殺したよりも恐ろしい殺し方をしたのと同じじゃないかって。

 だから、フィルムカメラの経緯を聞いたって、怖いものは怖い。またわたしをきっかけに誰かがいなくなる。

 ましてやフィルムカメラはわたしがシャッターを押すことで終わりに向かっている。

 わたしが、手をかけるようなものなのだ。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?