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第三十話 『蟲の感謝』その1

『蟲が人に恩を返したがっている。蟲があんまり経つと忘れちゃうっていうから期日を決めてきた。要注意!』

 いい加減見慣れてきた魔女の字の横には、宣言通り、珍しく期日が書いてある。

「あ?」

 わたしは思わず文字に向かってガラ悪く凄んだ。惰弱な女子高生が凄んでも怖くないとはいえ、結構低い声が出ている。

 魔女の隠れ家の窓から降り注ぐやわらかな日差しに似合わない気分が、じわりと沸騰する。

 そして、あまりテンション高く騒がない方(のはず)のわたしは、珍しく腹の底からツッコミを入れた。

「明日じゃねえか!!!!!!!!!!!」

 勢いよく立ち上がったせいで、わたしが座っていた木の椅子がゴロンゴロンと転げて、床で昼寝していた使い魔のローエンにぶち当たる。

「あ」

 気づいたときには既に遅し、真っ黒い毛に埋もれていた金色の目が鋭く釣り上がっていた。

「はる來!」

「ごめん!」

 わたしは初めて、自分の使い魔に飛びかかられた。

 猫って格闘強い。



 今回の依頼主の住処は、わたしの家にほど近い住宅街にあった。

 わたしはローエンと喧嘩した足でそのまま住宅街を訪れて、そして依頼主を探している。

 今回はローエンを置いてきた。喧嘩したからではない。『獲りたくなるからついていかない』と言われてしまったのだ。普段「猫の本能なんて知りませんけど?」みたいなツラしているローエンにも、そういう一面があるってことらしかった。

 わたしは箒には乗らず、ただ手に持った状態で移動してきた。近いし、たまには運動した方がいい。

 スマホの地図に従って住宅街の真ん中らへんまで来たわたしは、小さな公園に入る。

 平日の真っ昼間だけあって誰もいないその公園には、遊具がほとんどない。土台っぽいものがいくつか残っているので、おそらく危ない遊具を排除していった結果遊具がなくなっていったのだろう。

 真ん中の大きな木が作る日陰の中には、ブランコと小さなベンチくらいしかない。日なたになっている辺りには砂場もあったようだが、完全に固い地面で埋め立てられている。かろうじて水飲み場は生きているようだが……割とギリギリ公園って感じだ。

 わたしは小さく居残ったブランコに腰を下ろして、ローエンに教わった内容のメモと、魔女が書いた注意書きを一緒に読む。それぞれスマホと予定帖に別々に書かれているから、膝に二つ並べて見比べるみたいになる。なんか間抜け。

 ローエン曰く『目と足がいっぱいある』『分類上は節足動物』『理知的でも話は通じないと思っていた方が失敗しない』『まったく違う生き物』。

 魔女のメモ曰く『小さくて目立たないから踏んづけ注意』『声に高音が混ざってて間近で聞くとキツいから対策用意する』『落ち着いてるから人間くさく思える瞬間もあるけど、やっぱ虫だな~って思う』。

 とまあ、少なくとも今から会う依頼主は蟲ではあっても昆虫にはあたらないらしい。足がいっぱいあるので。わたしが虫ダメな女子だったらこの時点で詰んでいる。まあわたしは小学生時代虫取り少女だったし、成長と共に苦手になるなんて傾向もほとんど出てなかったからなんとかなると思うけど。

 ……あ、でも。ホラー映画で叫んだ実績を思い返すと、あまりにも大量の蟲に取り囲まれたら叫ぶかもしれない。集合体恐怖症だなんて言ったら大袈裟だけど、集合した細かい何かが蠢いているのは、流石に怖いので。

 わたしは予定帖とスマホを鞄に仕舞って立ち上がり、尻にうっすらついた砂を叩いて払うと、公園のド真ん中、中心を目視で探る。

 それからだいたい中心くらいに立って、箒の柄を地面に突き立てる。地面に魔方陣を描かなければならないレベルの魔法を使うときと同じ感覚だ。

 何も描かれていない地面は、魔方陣があるときと違って何の反応も見せないし、周りや世界の何かが書き換わるわけではない。

 わたしの視界だけが、薄く張っていた幕をピリリと裂いたように、一段、真実に近づく。

 薄皮一枚の何かが剥がれた地面に、そいつはいた。

「やや、その魔力形質は、魔女さんではないですか。約束の件ですね」

「うぉ……」

 わたしは思わず、返事より変な声を出して黙り込む方を先にしてしまう。

 ぴかぴかした甲羅を持つそいつは、蜘蛛と蟹のハーフみたいな形で、真っ赤な目が左右にそれぞれだいたい六つずつあって、脚も多分八本くらいはあって、大きさは身長160センチ弱のわたしから見て一抱えくらい、高さは脛くらいの、非常に立派な『蟲』だった。

 一匹だけのそいつは、わたしに向けて恭しく礼をした。

「頭を垂れるのが挨拶でしたね。こんにちは、魔女さん」



「今上がっている太陽が沈みきって、暗い時間が少し進んだ辺りが期限でしたね」

「ああ、遅くなってすまん」

 蟲の言葉にわたしが軽く謝るが、蟲は何を謝っているのかがわからないようで、きゅるきゅるした丸い目をこちらに向けたまま固まる。

 今、わたしと蟲は木の近くに置かれた小さなベンチに並んで腰を下ろしていた。依頼前に確認したいこともあったし、どんなやつかわからないまま動いても上手くいかない気がするからだ。

 早速やり取りに躓いたわたしは、ちょっと考えて説明する。

「人間は期限を越えてなくても、あまりにギリギリだと心配したり、人によってはちょっと怒ったりするんだ。あんたは気にしないんだな」

 すると、蟲は芝居がかったように前足を上げて言う。

「やや、人間というのは変な生き物ですねえ!」

「そうかもな」

 わたしは頷く。本当に、言われてみればそうだ。だけどそれが人間らしさというやつなんだろう。

 それから、依頼について話を振る。

「ところで、あんたが恩を返したい相手っていうのはどんな奴だ?」

「ここからあちらに向けて私の体百個分くらい行ったところに、『神田』という家があります。そこに住む人間です。私が動けなかったときにね、食べ物を与えてくれた方です」

 蟲に表情はなく、声は平坦だが、心なしかニコニコしているように感じた。

 動機が意外とわかりやすくて、わたしは一気に微笑ましい気持ちになる。おとぎ話みたいだ。

 しかし、蟲はそれこそ昔話を読み上げるように、その言葉を続ける。

「人間はあのご馳走を生ゴミと呼ぶそうです。側溝と呼ばれる溝で動けなくなっていた私に毎日与えていただいて、お陰で命が繋がった」

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