あたしのすべてが歌だったらいい。
そうしたら、誰の目にも留まらずに生きていけた。
だけど、空気を震わせて音にするためには楽器が必要で、あたしにとっては自分の肉体と魂が楽器だ。何かどこかでも交換してしまえば、あたしの歌はあたしの歌ではなくなるだろう。
それに――
「お久しぶり」
あたしは待ち合わせの駅前で、自分より十センチは背の高い女性に小さく手を振る。久しぶりに都会まで出てきたけど、流石に早朝なら人も見つけやすい。
「おひさです」
やや猫背気味にあたしと目線を合わせたのは、ハンドルネーム・川流さそり。こうして会うのは三回目の、数年前からの相互さん。
相互さんというのは、SNS上でフォロー……つまり相手の情報を追う、見る機能をお互いに対し使っている人のことを言う。友人と呼べるほど近しくもないけど、知人と言ってしまうと遠すぎるあたしたちの関係は、どう形容したものか悩ましい。だからただ事実だけを指して『相互さん』と呼ぶくらいがちょうどいい。
「えぇと……とりあえず、並びに行きます?」
さそりはあたしの呼び方に迷ってまた誤魔化して、目的地の方向に向く。さそりが被ったキャップの後ろの穴から出されたポニーテールがわさっと大きく揺れる。髪多いな。長さはあたしと変わらないくらいのロングなのに、分量は倍くらいある。
「ですね、さそりさん」
あたしはわざと名前を呼んで、さそりの横に並ぶ。
さそりがあたしの名前を言い淀む理由は、とってもわかりやすいひとつだけ。あたしのハンドルネームのイントネーションがわかりづらいからだ。ひらがなだし、上がっても下がっても意味として通るし、どういう意味で名付けたのかも言ったことないし。さそりも文字では普通に呼んでくるから、本当にただイントネーションに自信がないだけなんだと思う。
でも、あたしは敢えてさそりに「こうだよー」って教えたことはない。
だって、戸惑って迷って結局聞けずに誤魔化してばかりのさそりを見るの、地味に好きだから。
さそりって普通にしていればかっこいい女の子なのに、女同士のやりとりに慣れてないのか、たまに引っ込み思案な童貞みたいな挙動をする。普段はすっと芯が通ったかっこいい話し方なのにね。以前『友達少ないけど彼氏は何人かいた』と言っていたけど、こんな風に同性にぎこちなくなるなら、確かに友達もできづらいだろうなと思う。
……たぶんこれを思ったまま伝えたら、さそりはあっさり「わかるー」って言う。だから伝えてもいいんだけど、絶対元彼の話に繋がるし、それはあたしがつまらない(別れたくせに『大好きな友達』の分類に居座っているのだ、歴代の男共。それがなんかムカつく)ので絶対言わない。
そんなことを考えながらてっこてっこと歩いた先で、あたしたちは歩道橋を潜るように並ぶ人々の背中を見つけて、自然と後ろにつく。あたしたちもだけど、みんなバンドのロゴやらサインやらが入ったTシャツを着ている。
「今回もすごいですね」
さそりが、先頭が全く見えない列の向こうを見ようと背を伸ばしながら言って、あたしも感想と心配を口にする。
「ね、人気で嬉しいですけど。買えるかなあ」
あたしたちは今日、共通の好きなバンドのライブを見に来ている。朝早くから来ている理由はライブじゃなくてグッズの方だけど。
「今回のTシャツは絶対絶対ほしいっ」
つま先をぴょんぴょんさせながらさそりは小さく喚く(大声じゃないのが器用だ)。さそりの髪もわさわさ跳ねて、『さそり』のくせに馬の尻尾みたい。
でも、あたしだって気持ちの上では似たようなものだった。今回新しく出されたバンドTのデザインはとってもカッコよかった。その上特殊なインクを使ったらしく数量限定、レアものなのだ。ファンとしてはほしいに決まってる。そして物販は早い者順。だからあたしたちは朝から並んでいる。
「あ、でも、新曲も楽しみですね」
さそりは無邪気に笑って言う。
「ですね」
あたしは返事しながら、チョットだけ熱量に差があるのを感じた。あたしも勿論バンドのファンだけど、新曲は聴いてみないとわからないからまだ楽しみにしてない。好きじゃない曲も稀にあるのだ、このバンド。
自分も音楽やってるからかもしれないけど、あたしは結構、音楽の好き嫌いははっきり噛み分けてしまう方だ。そういった好きの引力と嫌いの斥力で、自分なりの演奏や楽曲を作り上げていく。その表現の最たるものが、歌。
趣味を持ち、相互さんと待ち合わせをして、それでいてこう言うのも大袈裟だけど……歌は、あたしのすべてだった。
「あ、列だいぶ進みますよ」
さそりに言われて、あたしは我に帰る。そうだ、なんとしてもTシャツは手に入れなければ。
で、Tシャツは手に入ったわけだけど……。
「まさか一曲目でメンバー全員仲良く骨折るとは……」
駅までの道を歩きながら、死んだ目でさそりが言った。
「アホでかわいい連中とはいっても、流石に今回はアホすぎてだめですね」
同じく目が死んでるであろうあたしも、ペットボトルの紅茶をがぶ飲みして言った。
ライブは、一曲目で終わった。
まだまだここからってところで会場が冷えきって、しばらくしたら追い出されて……もう、なんてこったって感じ。
あたしはまだいい。電車でちょっと来ただけ。普通の電車で一時間半くらいしかかけてない。けど、
「早朝に合わせるために夜行バスで来たのに……」
さそりは夜行バスに揺られてきて、このあとホテルに泊まってから新幹線で帰るのだ。報われない人だなぁ。
どう慰めたものかと思いながら歩いていると、駅に着く。
さそりが泊まり込み用に持ってきたスーツケースをコインロッカーから出して、「荷物だけでもホテルに置いてこようかな」なんてこの後の話をする。
あたしは、荷物置いたら遊びに行くことを提案しようと思いついて、息を吸う。そのタイミングで、あたしたちは駅の外の広場の前を通りがかった。
ギターを抱えた路上ライブの青年が、ライブ帰りの喧騒に負けながら必死で歌っていた。
……ふむ。
「さそりさん、スーツケース借りていいですか?」
「いいですけど」
「あとぶっ叩いていいですか?」
よくわかっていないままぼんやり許可をくれたさそりに、あたしは一言付け加えた。
「……ん? いいですけど、何を?」
「まあ見ててくださいって」
改めて許可をもらったあたしはさそりのスーツケースを持って人ごみをかき分け、青年の真後ろに陣取る。
青年は戸惑っているけど、曲が途中だからか何も言えない。アクシデントがあっても音楽は続けるその意気、あたしは買う。
あたしは青年の演奏を後押しするように、スーツケースを叩いてリズムを追加する。そして、歌の音階が低くなって青年の声が喧騒に負けるタイミングにだけ、一オクターブ上に旋律を重ねて、サビにはコーラスを入れて曲を補強する。
青年は癪だなぁと思っていることがわかる、でも笑顔であたしの演奏に合わせる。この程度の喧騒に負けといて癪とか百年早いわ。
さそりは最前線であたしを見て、演奏を聴いている。さそりはあたしばかりを聴いている。それでいい、さそりはあたしの
あわよくば。
あわよくば、この演奏にインスピレーションを得たさそりが何か一枚描いてくれないかなと、頭の隅で期待する。さそりの絵はあのバンドの楽曲と違って、必ず『良い』から。
と、ギャラリーの一人があたしと青年にスマホのカメラを向けた。
あたしは内心肝を冷やすけど、音楽が止まらないうちはあたしも止まれない。どうしよう、どうしよう。
顔はいやだ。
するとさそりがギャラリーの一人に話しかける。何か説明して、手を合わせて腰低くお願いしている。
あたしはほっとすると共に、若干おざなりになりかけていた音楽にちゃんと戻る。ラストのサビ、ちゃんと盛り上げないと。勝手に入った責任として。音楽をやる者の責任として。
一曲終えて、拍手に包まれる。青年にも握手を求められた。悔しそうで、でも爽やかな笑顔。音楽で認められた、というか認めさせた手応え。
「負けんなよな」
あたしは青年にそう言って、さそりの元へ戻る。
「急にすみません」
「いえ、すごくよかった。やっぱりあなたの歌が一番好き」
わかっていて形だけ謝るあたしに、さそりは幸せそうな笑顔でそう言った。
「でしょう、あたし、歌と音楽だけは自信あるんです」
あたしは自然と破顔して言う。あー……でも、今のあたし、あたしの嫌いな顔かも。
最悪なんだけど、あたしは、さっきカメラを向けられたせいで、自分の容姿を意識してしまっていた。
あたしは、自分の顔かたちが人の目に留まるのがいやだ。どちらかといえば可愛い方なのも知ってるし、体型だって服に困らない程度には普通だし、背も少し低めなだけで普通、だけど、自分に姿があるのが、結構本気で嫌だ。
「今のが聴けたなら、ライブが中止になった甲斐あります」
さそりが大袈裟に褒めてくれて、あたしは暗い思考からほんのり浮上する。
やっぱり歌。歌がいい。でしょ。
あたしのすべてが歌だったらいい。
そうしたら、誰の目にも留まらずに生きていけた。
だけど、空気を震わせて音にするためには楽器が必要で、あたしにとっては自分の肉体と魂が楽器だ。何かどこかでも交換してしまえば、あたしの歌はあたしの歌ではなくなるだろう。
それに……こうしてさそりに見つめられるのは、実はそんなに嫌じゃない。絵描きの癖で細かく特徴を記憶されているとわかると、ちょっと嫌だけど。でも、あたしの姿を通してあたしの歌を見ているなら、まあまあ許せる。
言ったら変に意識させて関係が変わっちゃいそうだから、絶対言わないけど。