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第十九話 『さそりはきみを忘れたい』その7

 わたしたちはその後、軽くお昼を済ませてから各々の描画を続けた。

 午前が嘘のように捗っている。……さそりは。

 さそりの絵筆はものすごい早さでキャンバスの上に絵を作り上げていった。電線に腰掛けて気持ちよさそうに歌う女性の絵。風の流れもオレンジの夕日も迫る藍色も電信柱も電線も小鳥も街の影も、すべてがこの女性のためにある絵。

 それに引き換えわたしときたら、描いては消してを何度も何度も何度も何度も繰り返す。実を言うと、丸を描くだけで一苦労なのだ。昨日集中して取り掛かっていたあたりはほとんど文字だったからなんとかなったけど、図の部分のバランスが難しすぎる。

 前に依頼を受けた『幽霊の憑りつき先を“場所と時間”から“個人”に憑りつけ替える』魔法のときは、ここまで厳密じゃなくてもよかった。魔方陣自体が単純で、線が曲がっても描き込むべき内容は全部収まったから。

 今回はそういうわけにはいかない。だって描かなきゃいけない内容が複雑すぎる。特に今描こうとしている辺りは丸が複雑に組み合わさっていて、ちょっとひん曲がるとおかしくなる。

 あるいはこれが絵だったなら、このいびつさも味ってことにできたかもしれない。わたし素人だし。素人の絵はそういうの許されるイメージあるし。

 ただし、魔方陣にそういうのは許されない。となるとやっぱり、魔方陣の丸って書くの難しくね……?

 と、心の中で弱音を吐くわたしに影が差す。

「ところで魔女さん、円を描くのに苦戦しているように見えるんだけど」

「うっ……」

 上から降ってきた涼し気な声は、簡単に図星をついてわたしの喉を詰まらせた。

 見上げると、傾いた陽でオレンジ色に染まりつつあるさそりが、どことなく楽しそうにしている。そろそろ晩ご飯の支度に入るのだろうか、絵筆とパレットは手に持っていない。

 わたしはさそりの背後のキャンバスに目を遣る。少なくとも素人目には完成でいいくらいに描けていた。

 さそりは言う。

「教えるよ」

「師匠」

 テンポよくわたしは呼び方を変える。

 結局その日は“師匠”に丸の描き方を習って終わって、あっという間に次の日になる。



「今日はお手伝いの呑田さんが来るよ! わーい」

 さそりが、一階に降りてきたわたしに向けて嬉しそうに、そしてかなりアホっぽく言った。

「来てくれる日は、日中の家事全部丸投げすることにしてるんだ」

 幸せそうにしながら、さそりはわたしとローエンと簡単な(本当に簡単。トーストだけ)朝食を食べて、しばらくのんびりする。

 そして、十時になるちょっと前くらいだろうか、お手伝いさんがやってきた。お手伝いの呑田さんは、ちゃきちゃきした面倒見のいいおばさんって感じの人だ。

 呑田さんはわたしと名前を名乗り合うと、早速さそりに言う。

「お客さんが来てるなら早めに呼んでくれたらよかったのに」

「えへー、でも私にしては片付いてないですか?」

 ちょっと甘えるように言うさそりに、呑田さんは容赦ない。

「散らかってますよ。玄関からしてそうじゃないですか」

 確かに、言われてみれば靴はわたしの靴一足とさそりの靴しかないのにかなり散らかっている。わたしの箒と、玄関掃除用の箒とチリトリのセットがあるのは普通として、隅に謎のこけしが置きっぱなしでさそりの靴が五足も出ているのは散らかっているといえる。わたしも意識していなかった。

「ごめんなさいねぇ」

 呑田さんはわたしに謝りながらテキパキとさそりの靴を下駄箱に仕舞って行く。

 そしてそのまま台所へ向かうと、後ろについてきたわたしたちに、整理整頓どころじゃない調味料棚を指摘する。そういえば梅ジャムの味を甘くしてみようと試行錯誤したとき、かなり雑に戻してしまった気がする。

 さそりだけのせいになるのもおかしいだろうと、わたしが歩み出る。

「あ、そこは二人で散らかしまして……」

「もう、今からそれだとこういう大人になっちゃうわよ」

 呑田さんは初対面のわたしにも『面倒を見る大人』として接してきた。ハイとしか言えない。

 普段のわたしの小言担当ことローエンも、乗っかって同じ注意をしてくる。

「本当にそうだよ」

 わたしとさそりは当たり前にローエンを見下ろす。

 しかし、呑田さんは数秒、固まった。そして、

「猫がシャベッタアアアアアア!」

 驚きの声を上げて、転びそうになってシンクに手をつく。

「あ」

 わたしのこともローエンのことも、名前しか伝えてなかった。魔女だとか使い魔だとかなんて、帽子を部屋に置きっぱなしにしている今は言わないとわからないのに。



 呑田さんとのお話しが終わると、わたしたちは昨日と同じようにアトリエにこもる。

「今日は週に一度の集中し放題デイなので、過集中防止のアラームはかけません。お昼もてきとうに摂るから、魔女さんはお腹空いたら台所行ってご飯もらってね」

 さそりはそう言いつつ、呑田さんがお土産に持ってきてくれた甘い梅ジャムを口にくわえつつ絵に取り掛かる。足元に水の入ったペットボトルも置いて、本格的に動かず絵を描く気みたいだ。

 わたしもチョークの他には梅ジャムを手元にいくつか置いて、魔法陣の続きに取り掛かる。

 描いては消しての繰り返しが減ったおかげか、昨日までより断然進む。というか、集中しやすい。おかげで進捗も早ければ時間もバンバン後ろに流れていく。間にちょいちょい梅ジャムを舐めたりお水飲みに行ったりトイレに行ったりするけど、戻ってきたらすぐに思った線が引ける。今日のわたしはスーパーでスペシャルかもしれない。

 アトリエは妙に静かだった。さそりの集中力が生み出す、心地よく張り詰めた空気。さそりが集中している部屋で作業カフェとか開いたら受験生が大挙して訪れるかもしれない。……というのは愉快すぎる妄想か。

 そうして手を動かしつつも若干思考が逸れ出した頃、今朝から使っていたチョークが折れる。

「おっと」

 わたしは一人ごちて、隅に置いといたチョーク入れの箱を持ち上げて、蓋を開ける。あと三本。これだけあれば筆圧が強くてもミスを繰り返しても、全然足りるだろう。

 と思ったのに。

「あ、わぁ!」

 わたしはチョークの箱をひっくり返し、取り落とし、更に慌てすぎて溢れたチョークを踏む。嘘だろ。

 静かに衝撃を受けていると、わたしの悲鳴を聞きつけたローエンがそっと入ってくる。

「大丈夫かい、はる來」

「魔法陣はほぼ無事。わたしも平気。ただ……チョーク全滅した……」

 粉々のチョークから足を退けて、持てる部分がごくごく少ないことを改めて確認した。

「どこか買いに行くしかないねぇ」

 ローエンに言われて、わたしは、ですよねーと顔を上げる。依頼人に黙って買い物に行くわけにもいかない。

「さそり、ごめん、チョーク落としたから買いに行ってきます」

 絵を描いているさそりに、少し声を張って言った。

 すると、さそりは最初なんの反応もせず、五秒くらい経ってからはたとこちらを向く。

「あ、ごめん集中してた」

 うっすら汗ばんだ顔で唇だけ妙に乾いたさそりが、わたしの様子を見ながら一気に喋る。

「チョーク割ったのかあ。じゃあ売ってるとこ案内するよ。でもその前に私トイレ」

 ダッシュで部屋を出て行った。その勢いに、トイレを我慢して描いていたことを確信する。それどころか、

「水も飲んでなかったのか……」

 満たされたペットボトルを前に呆れる。芸術家ってちょっと放っておいたら死ぬ生き物かもしれない。

 わたしは立ち上がってスマホを取り出す。もう午後二時を回っている。わたしはわたしで今回は集中しすぎていたみたいだ。さそりに釣られたんだろう。

「お前も気をつけな」

 自省したタイミングでローエンに注意されて、若干反発の気持ちが芽生える。でも言い訳にしかならないから、わたしは黙って頷いておいた。


 その後、わたしとさそりはスーパーと文房具屋を梯子して、食べ物とチョークとレターセットと万年筆を買う。昼すぎまでの集中力を引きずっていたのか、余計なことはせずに最速で買い物ができた気がする。

 ちなみに呑田さんにはローエンと共に留守番を担当してもらった。本来は買い出しも仕事のうちらしいけど、さそりを家から出す口実はいくらあってもいいと、快く送り出してくれた。

 帰り道、まだまだ陽が傾いた感じもない夕方浅い空の下。

 さそりはレターセットと万年筆を入れた袋を見下ろして、噛み締めるように呟いた。

「手紙も書かなきゃね。なんか照れくさいなあ」

 わたしは何を返しても違う気がして、敢えて返事はしなかった。

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