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第十六話 『さそりはきみを忘れたい』その4

 さそりは、きっと、人間であることよりも芸術家であることを選んだ人種だ。

 それも、自分のすべてを晒すことを当たり前にするような。


 わたしにそう思わせた画集『わたしはさそり』は、一人の人間にとっての『世界そのもの』を紹介するような作品集だった。

 収録されているさそりの絵は、画風もテーマも全く固定などされてないし、画材もそのときどきで変わるし、色合いの傾向もあってないようなものだ。

 なのに、一人の人間の中から出たものだということだけは、すぐにわかる。

 さそりにとってこの世界は、あるときは単純化されたコメディに見えて、あるときは緻密な色が凹凸深く塗り重ねられた油絵に見えて、あるときは心地よく、あるときは不快に、あるときは愛憎に、あるときは虚無に見えているのだろう。

 ああ、でも、強いていえば抽象画と呼ばれる種類のものだけかなり少ないな。具体的な人物や風景が多い。

 見ていくうちに、サジェストに『ガチ恋』が出てきたわけもわかってきた。これだけ『個人』を晒す作風なのだ、本人の方を好きになる人間も多くなるんだろう。まだ三十手前でたぶん若い方だし。

 ……だけど、全員失恋している気がする。

 『わたしはさそり』には、さっき紹介された女性の絵もいくつか収録されている。それら何枚かを見ていくと、確かな愛情と、微かに恋の気配がわかってくるのだ。

 露骨にそういう絵ばかりだと言いたいわけじゃない。わたしだって、魔女の見習いとして鑑定ができるようになる前なら、愛情とか恋とかはっきり言葉にできやしなかっただろう。

 だけど、言葉にできない程度になら、ほとんど万人に伝わりそう。

 さそりは、想っている人の記憶と記録を、この世から消したいのだ。


 そんな印象は、翌日も変わらなかった。というかめちゃくちゃ強まった。


 翌日次々に鑑定していく絵、そのすべてにはさそりの言う通りに同じ女性が描かれている。その膨大な数だけでもまざまざと気持ちを見せつけられるというのに、中身が更にそれを後押しする。

 絵の中の女性は、澄ましていたり、たまに笑ったり、楽器を弾いていたり、ありえないところに立っていたり、カラフルな色の間に柔らかく挟まれていたり、窓を落ちていく雨粒を目で追っていたり、眠っていたりする。そのすべてに変わらない感情の深さを感じる。

 掠ったような線も、塗り潰された影も、削り取られた光も、すべてにこだわりと心を感じる。

 更に、感情が見えてくるのは、何も女性自身が描かれた箇所だけじゃなかった。

 美しい風景も、抽象的な色も、敢えて残された空白も、すべてその人のために描き出されている。

 そんな膨大な心が込められているにも関わらず、ずっしりのしかかるような類の重さを感じないのも、さそりの絵の特徴だった。常人ではありえないほどに愛情を込め続けている(って評価になっちゃう)けど、さそりにとってこれはあくまで自然なことなのだろう。

 わたしは朝からずっと、ローエンと共にそれらの対価としての価値を測っていった。

 作業の途中、やがて流石に昼食を取ろうってことになって、わたしたちはさそりが作ったサンドイッチを食べる。

 いや、一応ご飯の支度手伝おうって意識はあった。あったよ。鑑定に集中しすぎて、声を掛けられたときにはもう昼食が出来上がっていただけで。

 でもできちゃってたもんは仕方ないのでわたしはぱくぱく食べて味を楽しむ。美味い。野菜、家庭菜園のやつも混ざっているんだろうか。美味い。

 わたしは食べ終わりかけにスマホを取り出して、なんとなく画面を見る。同時に最後の一口を口に放り込んだ。

 と、珍しくクラスメイトの名前の通知が出ている。たまに喋る女子だ。メッセージアプリで何か届いている。

 わたしがメッセージアプリを立ち上げると、吹き出しが並んだ画面に新しい文章が現れた。

『ごめんなさい! この間クラスメイトで撮った集合写真なんだけど……ネットに上げるときに春日ちゃんの顔スタンプで隠すの忘れてた。一旦非表示にしてるけど、消した方がいいよね?』

 ああ、あれか。すぐにピンと来る。

 学校行事で撮った、クラスの半数ちょいが写った集合写真のことだ。今メッセージを送ってきている彼女がどうしてもSNSに載せたいと、写っている全員に許可を取って顔出しの有無の確認をしていたものだ。

 わたしはサンドイッチを噛んで飲み下しながら気楽に返信を打っていく。

『別にいいよ。あれわたしも見たけど半分以上顔出ししてたじゃん。あの比率で顔出てる写真なら気にならんし』

 そう、わたしが顔出しなしでと伝えたのは、自分だけが晒されてたらイヤだってだけの理由だったのだ。気を揉ませて却って悪かったかなと思うくらいには、自分の顔が出るかどうかに頓着はなかった。

『本当? ありがとう! ママがいいねくれてたから消したくなかったの。ありがとう。本当にありがとう。ごめんね』

『いいよ』

 わたしは同級生の彼女のために、ゆるくてかわいい感じのスタンプ(メッセージアプリの機能で、絵とか送れるやつのこと)を探して送る。気にしないでほしい。

「珍しいねえ」

 わたしがあまりに懸命にスマホをぽちぽちしていたのが珍しかったからか、ささみを食べ終わったローエンに話しかけられた。

「ああ、まあね。ちょっと同級生から連絡来ててさぁ……」

 別に隠すことでもなんでもない。わたしは雑談としてローエンとさそりに今のやりとりのことを話す。

「離婚してパパと暮らしてる子なんだよね。忘れてたのがわたしでよかったよ、ドジめ」

「そうかい」

 ローエンは話しかけてきといてまったく興味なさそうな気のない返事をしてきた。まあそうだよね。

 だけど、さそりは、怒ったような、それを引っ込めたような、複雑な顔をする。

「どしたの?」

 わたしは、あまり重くならないように聞いてみる。

 何か思うところがあるやりとりだったんだろうか。それとも、知らん人to知らん人とはいえ離婚の話とか他言するのをよく思わないとかかな? ……一生知らん人だしいいかなと思ったんだけど。

「あー……いや、魔女さんが気にしない人なら全然いいんだ。こっちの話」

「そうか、ならわたしもいいや」

 簡単に表面だけ教えられて、わたしも特に深掘りしない。

 インターネットで顔を出されるって部分に思うところがあったようだ。有名人だし、色々あるのかもしれない。



 そして、夜の入り。夕飯をちょっと遅らせて続けていた鑑定が、やっと終わった。

「……ローエン、これは」

 わたしは自分からの評価に若干自信がないため、途中から発言をローエンに委ねる。

「多分足りる」

 ローエンは、迷いなくそう言った。

 さそりとわたしは同時に安堵の息を吐く。

 すごい才能だ。絵画にしたことで顔の“記憶”が広まりすぎて、対価も膨れ上がっているのに。ほぼ確定的に、そこに届くのだ、この絵画たちの価値は。

「ただし、足りない可能性もあるね」

 ローエンが付け足す。

 わたしは自分でははっきりと感知できない部分を意識しながら、ローエンの言葉に集中する。

 絵画の価値の方じゃなくて、必要な対価の方。そこに、わたしが掴みきれなくて、ローエンが掴んでいる何かがある。

 さそりの絵画ほどはっきりあの女性を示していなくて、でも着実に、あの女性の何かが広がっている感覚。これは一体、なんだろう。

 ローエンはひとつため息して、告げる。

「私も調べたが……お前の絵、随分学習AIに取り込まれているね。“増え過ぎ”だ。この女の似姿のかけらが、この世に」

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