「さぁ、フィローゼ。もう一回よ」
「はいっ、お母様っ」
少女が夢憧れ抱いた、その次の日から。
「いち……にっ…………さん……」
いつか、叶う機会に備えてと。
フィローゼ嬢は夫人様より舞踊の手ほどきを受けることとなりました。
「背筋は真っすぐ、首筋の裏から糸が天井へと引っ張られているような感覚を想像して」
「はいっ!」
「伸ばした腕は硬くならずしなやかに。肩から指先の線は下げないよう、常に少し上を意識して。表情も暗く見せちゃいけないから、視線も落とさないようにするけれど、あまり上を見過ぎてしまって顎まで上げちゃダメよ」
「はっ……はいっ!」
立ち振る舞い、視線の細かな誘導。
常に誰かに見られているということを意識して。
いかに己が花園煌めく随一の薔薇へと成りて、舞い踊る蝶々方を虜にさすこと出来るかを。
「目線は高く、胸は張って……背筋はっ……」
決して嫌味は感じさせない、誰もが羨むような容儀を魅せきれるか。
「指先までしなやかに……笑顔は忘れずっ……」
その一挙手一投足の全てを支配して。
スマートに、エレガントに。
「う……うきゅぅぅぅぅ…………」
あまりの注文の多さ、気を付けるべきことの膨大さに。とうとう目を回してしまわれるフィローゼ嬢様。
動きづらいドレス衣装に、歩きにくい衣装靴と。
何度も転げそうになっては、フラフラと部屋中を酔い回り。
「あ、あらっ……さすがに詰め込み過ぎたわね…………」
その様子を見た夫人様も、いきなり全部を教え過ぎてしまったことを反省しては、すぐに倒れそうになる娘の下へと急ぎます。
ですが。
「も、もう一回…………」
差し伸べる母の手を取ることはなく、近くの壁際へと一度寄りかかれば、手をつき御自分の身体を支えまして。
「頑張り、ますわっ……」
呼吸を整えたのち、再び流れる音楽に合わせて踊り始めようといたします。
「いちっ……にぃっ…………さんっ」
初めから、全てを完璧にこなせる者はおりません。
「いちっ……にぃっ……うわぁっ!」
ぎこちなく、そして泥臭く。
「…………もう一回、もう一回っ」
転んでしまった拍子でしょうか、脚や腕には僅かに掠り傷がついてしまわれて。
「いちっ……にぃっ……さんっ!」
汗ばむ額に、徐々に荒がる呼吸の音。
目の前で、手本を何度も見せる母親の踊る姿に近づこうと、懸命に真似を試みますが。
「く…………ぎゅうぅぅ……」
己の動かす身体は決して、想像通りには働いてはくれず。
失敗の数を重ねるごとに、彼女の心の中では強い悔しさが募り始めます。
時には音楽を止めてみては、縦置きの姿見に映る身体に目線をやり。
母親に言われた通り、きちんと隅々までキチンとした姿勢が保たれているかどうか。立ちずまいは確かなものとなっているかどうかを。己の目と躰の感覚その一つ一つによって、御確認されるのです。
普通の娘ならばどこかで根を上げてもおかしくはないでしょう。
途中で匙を投げだす方も、当然いらっしゃるでしょう。
ですが、フィローゼ嬢様は。
「もう、一回……」
彼女は自らの御意思で、諦めることなく何度も立ち上がり、何度も踊り直そうといたします。
気づけば時間は朝から正午。お食事を挟んでそこから夕刻へ。
練習を始められてから、気づいたときには明るかった窓の外も、あっという間に暗転のカーテンが張られておりました。
「…………ふぅ。フィローゼ、今日はここまでね」
「は…………はいぃぃ……」
夕食のご用意ができた合図を以って。ようやく夫人様から終わりの言葉を告げられますと、その瞬間。
「も、もう動け……ない…………」
フィローゼ嬢様は、糸が切れた御人形のように、朱色の絨毯の上に大の字となって倒れ込まれました。
ほぼ丸一日と。舞踏会に向けた様々な所作を御受けになられたフィローゼ嬢様。
「お腹……空いた…………」
いつの間にか、美しく靡いていた髪はボサボサとなり。
纏われる衣装にも、幾つもの皺を作られておりました。
盛大に腹の虫を鳴らしても、そこから起き上がる体力はほとんど残っておらず、そのままその場で草臥れてしまいます。
「ふふっ、頑張ったわね」
放心したまま天井を見つめる我が娘をそっと抱き寄せる夫人様は。
「さぁ、御着替えして御夕飯にいたしましょう」
ここまで踊り続けようと努めた娘の耳元へ、優しくお褒めの言葉を伝えると。
丸まった背中を手でゆっくりと擦りながら、静かに部屋を後にされるのでした。
暫くされて――
「…………あれ? フィローゼはどうしたんだい?」
「えぇ、実はね」
当主様が御屋敷へと戻られたあとのことにございます。
「はっはっは。なるほど、フィローゼももうお年頃だからな」
「あまりに夢中で頑張っていたものですから、てっきり私も力が入りすぎちゃって」
いつもならば、家族三人揃ってからの夕食も、その日はフィローゼ嬢様の姿だけが食堂になく。
いつまで経っても姿を見せない愛娘を心配した当主様が、向かいに座る夫人様へとすぐに尋ねられたのです。
「そうか……もうあれから十五年も経つか」
「あの時はお互い様に右も左もわからず、緊張し合っていたものですからね。挨拶から踊りまで、もう何がなんやらで」
「はっは! いいじゃないか。それもあってからこそ、いまこうして結ばれ家族となり、素晴らしい日々を送れているのだから」
そうして、夫人様から事の経緯を聞かされた当主様は、次の瞬間ふと笑みを零すと、舞踏会に憧れる娘を可愛く想えば、続けざまに今度は夫人様と出会った際の記憶を思い返されます。
「また、あの時のような。王都での素敵な舞踏会が開かれるといいな」
「えぇ。その時は家族三人でいきましょう」
「あぁ、そうだな。フィローゼの晴れ姿がこの眼で見られると思うと、本当に感慨深いものd…………まてっ、その時にもしフィローゼが誰かに恋でもしてしまったら」
「あらっ、いいじゃないですか。もしその際に出会われた方が素敵な殿方であればなおさら、親としては心から祝うべきことですよ」
「い、いや。そうだが、そうなのだが……それはつまり、フィローゼはこの家を離れていってしまうというわけで」
「…………あなた。あまり親バカが過ぎるとフィローゼにも良くはないですよ」
「くぅっ……! フィローゼの幸せな姿を見たいのはもちろんだが、しかしっ……! もうしばらくは、しばらくはまだこのままの暮らしを……!」
「あらあらもう…………ふふ」
当主様は、本当にフィローゼ嬢様のことを愛しておられるのですね。
決して今すぐといったお話でないのにも関わらず、それでもこうして頭を抱えながら娘との別れを惜しみ出すとは。
夫人様も、そんな当主様の御姿をみて笑われております。
あぁ、とても。
とても仲睦まじく、素敵なご夫妻でございますね。
そんな中。
「すぅ………すぅ……」
自分のことで両親の会話が弾んでいることなどつゆ知らずして――。
「いちぃ……にぃ…………」
先に御夕食を済まされていたフィローゼ嬢様は、そのあと自室にて寝台へと向かわれると、そのまま気を失うようにして眠りへと就かれては、早速夢の世界を堪能されておりました。
「いつか…………フィローゼも……」
初めて母から話を聞かされてから。
ここまでずっと、フィローゼ嬢様の頭の中では舞踏会のことばかりでいっぱいになり。片時も、抱いた憧れが胸中から離れずに。
それこそ、今日この日も。
一日中、厳しい鍛錬を乗り越えることができたのも、絶対に夢の舞台へと己も立つのだという強い想いが、彼女の精神と躰を支えてくれたお陰でありました。
「舞踏会に…………綺麗な恰好で……」
明日もまた、沢山覚えなければいけないことがあるでしょう。
それでも彼女は、精一杯に夢へと向かって駆け抜けます。
いつか、その日が来る機会に備えて。
小さき眠り姫は、夢の中でも鍛錬へと取り組まれるのです――。
「いちっ……にぃっ…………さんっ」
それからも毎日、フィローゼ嬢様は舞踊の練習へと励み続けて参りました。
「視線は真っすぐ、しなやかに……優雅にっ」
夢に向かって真っすぐ懸命に、努力される者の成長は早いものです。
「そうっ。良いわねフィローゼ。だいぶサマになってきてるわよ」
初めは馴染めなかった衣装ドレスも華麗に着こなしては、歩き辛かった衣装靴でのステップにも軽快さが生まれ始め。
「はぁっ、はぁっ。ありがとうございます、お母様っ」
流れてくる音楽に合わせて踊る躰も、己が持つイメージと近いほどに、自在に操れるようになって参りました。
一度に踊れる体力も、回数を重ねるごとに増していき。
疲れて酔い回るようなご様子も、ほとんど見られなくなっておりました。
「基礎はだいぶ刷り込まれてきたわね。あと少し、魅せ方だったり惹き方を学んでいけば……」
娘の成長を目の当たりにしては、夫人様も大いに喜ばれ。
あんなにぎこちなかった動きも、いまとなっては我が娘ながらも一瞬見惚れてしまう動きもあったりとして。
「フィローゼもそろそろ、いつ舞踏会に招待されても大丈夫なくらいにはなれるかもねっ」
いよいよ外へとお披露目しても問題はないと、充実した表情を顕わにする娘へ向けて太鼓判を押されます。
「ほんとにっ!? ぃやったぁっ!」
もちろん、それを受けたフィローゼ嬢様も大はしゃぎで喜ばれると、ここまで頑張ってきた甲斐があったとして、勢いそのまま母親の下へと駆け寄ります。
「こらこら、そんなに暴れたらドレスがまた皺くちゃになってしまうでしょ」
抱きついてくる娘の頭を撫でる夫人様でしたが、微笑みながらも、また一段と大きくなった彼女の姿にいよいよ、どこかへと嫁がれ旅立たれるそんな光景が、脳裏へと描かれるようになり。
「(どうか素敵な方と結ばれますように……)」
舞踏会でどうか殿方に誘われて、素晴らしい出会いと縁の結びがあらんことを、心の中で祈られます。
「さぁ、少しお茶でもして休憩したら、また続きを始めますよ」
「はいっ、お母様!」
一年後か、二年後かもしれません。
いつ訪れるか分からないその瞬間を。
待ち焦がれながらも、限られた時間の中で、今出来る最善を尽くさんと。
これからも、精一杯に心血を注いでいこうと。
部屋から出ていこうとする娘の後ろ姿を見て。夫人様は決意新たに思われるのでした。
ですが――。
「――っ! みんなっ! 大変だっ!!」
奇しくもその時は。
「お、お父様っ!?」
「あなた、どうしたのっ!」
突然にして、起こります。
「はぁ……はぁ…………大変だっ……」
時刻はまだ昼下がりの頃。
当主様がお仕事から帰ってくるには些か早い時間帯でございました。
「案内が……案内がっ……!」
しかし、慌てて御屋敷へと戻られた当主様の、その手に握られていたのは。
なんと。
「王都主催の舞踏会への案内が届いたんだっ!!」
「「――っ!」」
なんと、国王からの招待状が入った手紙だったのでした。