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100.父と母


 セレネ家当主様が、御勤めのために屋敷を出ていかれた後のことでございます――。



「フィローゼ、次はこの刺繍をやってごらんなさい」


「はーいっ、お母様」


 食堂での朝食、団欒を終えられた皆々様は、一度。それぞれの御部屋へと戻られまして、その後すぐに身支度整えられましては、各々の行動へと向かわれます。


「ふんふんふんっ…………」


 積もる仕事を早く済ませなければと。愛する娘と約束をした当主様は、いの一番に御屋敷を飛び出されまして。

 残された夫人様とフィローゼ嬢様は、家内仕事を進められます。


「お母様っ、出来ましたわっ」


「あらっ、もう? さぁて、どうかしらね」


 御子息は武。御息女は家内業を。

 貴族社会で生きる彼らにとっては、将来に向けた日々の研鑽は決して欠かせぬものでございます。


 よりよい相手と、よりよき将来を築いていくために。


「…………あらっ、ここの裏側ほつれているじゃないの?」


「えぇっ!? そんなはずはっ」


「ウソをつくはずがないでしょう? ほぉーら、ここ」


「えぇ~~、そんな」


「慌てずゆっくり丁寧に。さっ、はじめからやり直しなさい」


「ふぇぇ…………」


 教育に、妥協の言葉はございません。


 ファトゥナ・セレネ家。

 小さき貴族様とはいえその御立場は、然りと貴族社会を生き抜く方々です。


 一家の暮らしを支えていくことが、当主様の勤めでありましたら。


「落ち込んでいる時間はないわよ、フィローゼ? 今日は他にも慣れてもらうことが山ほどありますからね」


「はいぃ…………」


 愛する我が子の未来を拓く礎を築いていくのは、夫人様の御勤めとなります。


「よいしょっ、んしょっ…………」


 母から手渡される布生地に。

 一つひとつ、藍の糸を紡いでいくフィローゼ嬢。


 細く小さく、可憐なその両手で少しずつ。

 少しずつ、少しずつ針を扱いながら。


「…………イタッ! くうぅ…………」


 不器用な手つきであれど、懸命にこなしていきます。



 暫くしたのちに――。


「…………さっ! 今度はきちんと出来ましてよっ!」


 糸斬りバサミでチョキンと短く、結んだ後に余ってしまった糸くずを切り落として。

 揚々と。出来上がりの生地をフィローゼ嬢は母親の前へと見せつければ。


「どれどれ?」


 握りしめる娘の手から滑る生地を受け取った夫人様は、先ほどと同じよう、念入りに彼女が編んだ刺繍の出来を確認いたします。


「…………そうね。これなら大丈夫かしら。はい、フィローゼ。よく出来ていますよ」


 表に裏。全体から細部にかけてまでを見渡したのちに、鋭く見張る目つきを柔和に綻ばせて。夫人様は受け取った生地を再び娘へと返し、お褒めの言葉を贈ります。


「やったぁっ!」


 もちろん、それを聴いたフィローゼ嬢様はその場で踊るように喜べば。


「では次をっ! お母様っ、次を出してくださいっ!」


 陽の光によく似た橙色の瞳を煌めかせながら、すぐに別の生地を任せてほしいと頼み込むのです。


「ふふっ。そうね、それじゃは次はまた…………」


 そんな我が愛娘の姿に夫人様は、ふと笑みを零すと、傍に置かれた麻造りの編み籠からまた、新しい布生地を取り出します。



 時には厳しく、時には優しげに。

 励む愛娘の、日々の成長を心より嬉しく想う母の姿は。


 いつの世も、尊きものでございます。


 …………あぁ、そうですね。


「ねぇ、お母様」


「ん? なーに?」


「お母様も、小さかった頃はこうして何方から教わっていたのですか?」


「えぇ、そうよ」


 そうでありましょう、夫人様。


 伝わりますよ、尋ねなくとも分かりますよ。


 愛する娘の幸せを願わなかった日は一度もない。

 今日この時も、また明日も。


 こうして、彼女が見せる真剣な表情を、愛くるしいほどまでの笑顔を。


 見守ろうと、慈しむのだと。


「お母さんも、昔は……そうね。お母さんのお母さんから、こうして教わったものよ」


 己が親から施されたものを、今度は己の娘へと施し返す。


 過去から今、そして未来へと。

 繋ぎ、紡いで継いでいく。


 かつての遠き記憶を懐かしみながら。

 母は、娘とより心深く繋がっていかれるのです。



* * *



「それでですねっ、今日はお母様からっ…………」


「おぉ~、そうかそうか。それは良かったなぁ~~」


 時は過ぎて、夜中となり。

 裁縫に音楽、勉学に乗馬など。本日も、様々に邁進なされたフィローゼ嬢様は、夕食を終えられたのちに、自室にて当主様と二人きりとなりまして。

 寝台に用意された毛布の中に潜り込めば、可愛らしく中から御顔だけを出し、フリルの付いた両袖を握りながら、今日一日の起きたこと、あったことを当主様へと、とても楽しげに、心躍るおどるお話されます。


 そんなフィローゼ嬢様に対して、深く相槌打たれます当主様でございますが。


「お父さんはフィローゼが毎日こうして大きくなっていくのが本当に嬉しいよ」


 愛おしきものには全く目がないというのはこのことで。


 寝台の中で横になるフィローゼ嬢様の御隣で座りこみながら、目の前で沢山の話を聞かせてくれる娘の姿に表情は溶け落ちて。

 人前では決して見せられないほどの、だらしない様相となっておられます。


「…………お父様」


 …………当主様


「はっはっ…………ふふふんっ……」


 ………………ほら、当主様


「…………おとうさまっ!」


「わっ!? あっ、どうしたんだいフィローゼッ?」


 あぁぁ、当主様。

 あまりの溺愛ぶりに上の空となってはフィローゼ嬢様の御声が耳に届いておりませぬか。


「もぉっ、お父様ったら。ほらっ、今度はお父様がフィローゼにお話しする番ですよっ」


 そうですよ、当主様。

 フィローゼ嬢様は、今日一日を、貴方様との約束を楽しみに、励まれたわけですからね。


「ふむっ…………。そうだな、今日は……」



 ファトゥナ・セレネ・フィローゼ嬢。

 彼女は幼き頃から、同じ年頃の子たちとの交流を持つ機会に恵まれることがありませんでした。


 お分かりの通り、住まいは王都から離れた森林囲われる土地のなか。

 近くに人里や、同じ貴族領主の邸宅があるわけではございません。


 王都へ行こうにも、御屋敷からは丸二日以上はかかる距離でありましたから、魔物との遭遇や、天候の影響を鑑みれば、そう快く馬車を走らせ頻繁に向かうことなどはできません。


 一度だけ。過去に一度だけ、フィローゼ嬢様は御家族と王都を訪れたことがありましたが、それも彼女が二、三歳と記憶おぼろげな年頃にあった出来事にございます。


 ですから、彼女の毎日は基本的に御屋敷の中での暮らしとなり、乗馬の練習のために外へと出られることはありますが、それも近い場所までの範囲での許しのみ。


 お友達とも遊ぶ機会も、どこかお買い物へと向かう機会は全くなく。

 それこそ、他の貴族様の御令嬢方からしてみれば、フィローゼ嬢様の暮らしは非常につまらなく、とても退屈な様相に映ってしまうでしょう。


 フィローゼ嬢様にとっては、今の暮らしに不満を持つことはありませんでした。むしろ、こうして日々御両親と過ごせることがとても嬉しく、素晴らしき日々であると感じていらっしゃいます。


 ですが、彼女も然りとお年頃。

 それでも、王都での暮らしや、未知の華やかさには憧れや羨望の眼差しを向けるものでございます。


 だからこそ。そんな彼女の想像を、興を掻き立ててくださったのは、当主様が語らう王都の出来事と、その物語でありました。


 沢山のお店に、お洋服。

 様々な人々や種族が行き交う大通りに、季節ごとに執り行われる催し物など。


「それでなぁっ、お父さんが王城へと尋ねた時にはなぁっ……!」


 当主様も、お話がとても御上手にございます。

 パッと聞けば大したことのなさそうな出来事も。誇張し、彩り溢るるよう一生懸命に。愛娘に楽しんで貰おうと、時には道化て御見せして差し上げます。


 もちろんその甲斐はあり。当主様が話すことは、フィローゼ嬢様にとってはどれも新鮮で、輝いてみえるものでありました。


「お父様っ! フィローゼもいつかまた王都へと行ってみたいですわっ!」


 良い子はそろそろ眠る時間。

 それでも彼女は父親の話に身を乗り出して、次は何か、次は何かと楽しみに待ち焦がれます。


「そうだなぁ……。フィローゼも大きくなったことだし、またいつか家族みんなで王都へ訪ねたいものだな」


「ホントッ!? 約束ですわよっ! ぜったい、ぜったいですわよっ!」


 父親からの御言葉に、さらに燥(はしゃ)ぐフィローゼ嬢様ですが。


「はっはっは。さぁ、今日はもう遅いから、ここまでにして続きはまた今度にでもしよう」


 夢中になれば、時間が経つのもあっという間。

 時計の針は、十の刻を回ってしまっております。


 これ以上楽しませてしまえば、いよいよ眠れなくなってしまうと。

 もっとお話ししてあげたい気持ちもございましたが、当主様は残念そうな表情を浮かべながら、今日は仕舞いとお告げします。


「えぇ~~、そんなぁ…………」


「また、沢山お話してあげるから」


 突然に終えられてしまったフィローゼ嬢からは、もちろん不満の声が上がりますが、当主様は次の約束をつけまして。


「それじゃあ、可愛い可愛い眠り姫。今宵も良い夢を見てくださいませ」


 頬を膨らませる彼女の横顔へとお休みのキスをして。


「それじゃあフィローゼ、おやすみ」


「はぁい…………。おやすみなさいませ、お父様」


 そっと、静かに部屋の外へと出られるのでした。



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