「う…………うーん」
起床する時間は、まだ、太陽が昇る前の頃。
目覚まし時計の音に起こされる彼は、部屋中に鳴り響く音に顔をしかめると。
「もう……少しだけ…………」
伸ばした手でアラームを止め、しばし目覚めの悪い中にて、布団に包まり二、三度寝返りを打った後。
「…………あっ! 道場行かなきゃっ!」
ハッと、朝の日課を思い出しては慌てて飛び起き、その勢いに任せて掛布団を蹴飛ばすと。
「やべー、おとうちゃんもういるかなぁー」
二階の自室から出てくれば、すぐ傍の階段を駆け下り玄関へと急ぐ。
「いそげっ、いそげっ」
一度、外へと出ていってから、家の敷地からほんの少し離れたところ。
大きく構える道場の正門が見えたらば、隣接された小さな引き戸からコッソリ中へと入り。
正門から見て中央、一本の石畳の通路の先に設けられる小さな木板の階段を従えた、高床造りとなる道場の。
「…………あっ! おとうちゃんっ!」
外廊下に沿って時計回りに、グルっと歩いて三分ほど。
ちょうど道場の裏側、開けた石粒の庭園にて。
「おっ。来たか」
そこには、使い古した竹刀を持ち、息子を待ちながら素振りをする父親の姿が――。
「「………………」」
道場へ集う親と子は、外廊下へと座りこむと。一日の始まりを、座禅を取り組むこととして、それを日々の日課とし。
雑念、煩悩を取り払い、普遍を享受できること、生かされていることへの感謝と詫びを。
澄み切った青空の下、小鳥さえずる静けさの中で、ただ直向きに己の心と向き合って。
――人の心は、水面に浮かぶ
上下左右、常に浮き沈み移ろいでいくその性を、ゆっくりゆっくりと。
深い呼吸とともに、少しずつ落ち着かせ、穏やかな心を以ってして、改めて今日一日を邁進する。
座禅を始めて暫しの時が経ち。
「………………よし」
父の一声を合図に、朝の日課は終わりとし、閉じていた両目を開け、組み交わした両脚を解いて。
「さぁ、支度をしよう」
そうして、座禅を終えた親子は、朝食ができる頃に合わせて、道場から再び自宅へと戻る。
ジュヴィナイル、天下烈志。
「行ってきまーすっ!」
子どもらしい、ハキハキとした出陣の掛け声を携えて。
元気よく、玄関を飛び出す彼は、今日も新たなトキメキを求めて、世へと立つ。
母親が作ってくれた朝ごはんを、腹いっぱいに。
それは、彼の一日の活力となり、母の愛情が、今日も彼を支えてくれる。
「烈志おはよーっ!」
「あっ! 創ちゃんっ!」
学び舎へと向かう道中に友人を見かければ、そこから仲良く共に歩み。
「先生っ! おはようございまーすっ!」
無事に学校へと着いたあとは、そのまま教室へと入り、真面目に勉学へと励みゆく。
ジュヴィナイル、天下烈志。
顔のイイ女を好みとする、まさにルッキズムの権化ともいえる小さな戯れ男。
だがそれは、あくまで彼の内なる癖が爆発したときだけのこと。
普段はクラスでも人気者である彼は、授業後の休み時間や放課後、課外授業の際など、常に級友たちとは仲良くし、教師から見ても、いつであろうとどこであろうと、ふと彼の姿を目にしたとき、いつでも数人の友達が、彼の周りに集っており。
さらには。
「つよしくーんっ!」
「ねぇねぇつよし君。今日一緒に帰らない?」
特段、彼が女の子に声をかけるまでもなく。
彼もまた、そこそこに異性からモテていたこともあり、数日に一回は、同級生の女の子から彼を尋ねてくることもあったわけなのだが。
「…………あっ! リリコちゃーんっ!」
そんな彼がただ求めるは、意中の女の子。
「ねぇねぇっ! リリコちゃんっ! 今度さっ!」
恋は、盲目。
廊下の奥側から歩いてきた彼女の姿を見た彼は、すぐに声をかけてきた他の女の子たちを掻き分けて。
「今度また、一緒にっ!」
また、彼女と一緒にデートでもと。
そう、お誘いをしようとしたのだが――。
「ごめんね、つよし君」
ジュヴィナイル、天下烈志。
彼にも当然、思い通りにはならないことは起こる。
世は。
「あたし、他に好きな人ができたの」
世は、時として非情なり。
トキメキ溢るる彼に対し。
「………………え?」
唐突に。意中の女の子から告げられたのは、別の想い人ができたという言葉。
「ど、どうして……?」
思わぬカウンターパンチが、彼のメンタルへと炸裂すれば。
「えっ……リリコちゃん。誰の、こと……」
予想外の言葉に動揺する彼の口調はしどろもどろに。
それでも、彼女の言う別の想い人が一体誰なのかと尋ねると。
「えっと…………。上級生の、伊集院さん」
相手はまさかの年上で。
「あのね……。伊集院さんのほうがね、つよし君より頭がよくて、運動もできて、足も速くてカッコイイなぁって……」
彼女もまた、まだ年端もいかない、ただの可憐な女の子。
目の前で頭が真っ白となり立ち尽くす天下の、その心を気遣う言葉選びなどせずに。
「つよし君ももちろん、カッコイイけど……でもワタシ、それ以上に伊集院さんのほうが憧れるなぁって思ったから……だから、ごめんね」
直球に、思ったことをありのままに伝えて――。
「おーい、つよしー」
「………………」
「おい、つよしってばぁ。いつまで落ち込んでるんだよー」
学校が終わり、その帰り道。
意中の女の子に振られた天下は、登校の際に一緒にいた友達とまた、共に同じ帰路を歩いていたのだが。
「なぁ、いい加減に元気だせよー。お前―、別に他の女子たちからも告白とかされたりするじゃんよー」
半ば呆れるように、隣で落ち込む天下を励まそうとする友人であったが。
「………………はぁ」
意中の女の子から振られたことが、相当ショックにきてしまっていた天下は、学校からここまでずっと、背中を丸めて下を向き、カバンは地面へと引きずっては、ため息ばかりを吐き続け、友人からの言葉に一切反応を見せようとせず。
「あのなぁ…………まぁでもしょうがないよなぁ」
友人もさすがに、ここまでずっと落ち込みっぱなしの天下を見ては内心苛立ちを募らせていたのだが、あまりの様子に彼を不憫に思い始め、丸まったその背中を、静かにそっと手でさすろうとする。
意中の女の子が、知らない男に取られてしまった。
それも年上、自分よりも遥かに運動神経も高く、おまけに頭も良いときた。
「オレは…………」
あまりの出来事に、心にはポッカリと。
天下の胸中には、虚しさと喪失感だけが冷たく通り抜けるだけで。
自分のことを心配する友達の声も、まったく耳には入ってこない。
背中を摩ってくれる感覚も朧げに、何かが当たっているというぐらいの認識でしか、彼の頭の中にはなく。
「…………じゃあ、俺はここで」
そうして暫く歩いた後。
とある分かれ道にて、ここまで傍に付き添ってくれた友達が、自分の家へと帰るため、彼へと別れを告げようとした。
――その時だった
「オレ…………」
突然、彼は何を思ったか。
「オレ……足速くなる」
「…………は?」
「…………うおらぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
大声を上げながら、その場から駆け出すと。
「お、おいっ!」
そのまま友達を置き去ったままどこかへと行こうとして。
天下の奇行に驚いた友達は、すぐに彼を呼び止めようとするも、瞬く間に彼は、ドンドン先へ先へと進んでいってしまい――。
「はぁ…………はぁ…………」
長い長い追いかけっこが続いたのち。
漸くにして天下が足を止めた先は、遠くに大きな橋が見える幅の広い河川。
「つよし……お前いきなりどうしたんだって…………」
「はぁ……はぁ……すぅー………」
ずっと、ここまで後を追いかけてきた友達のことなど気にも留めず。
河川敷に沿って真っすぐに伸びる急こう配の土手を見つめる彼は、荒れる呼吸を少し整えたらば。
「オレは、足が速くなって……また、リリコカちゃんを」
そう、呟いた瞬間。
「あっ……! つよし待てってっ!」
「うらぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
彼は、急こう配の坂を勢いよく下っていくと、護岸まできた辺りで旋回し。
「オレはぁぁぁぁぁっ! またリリコちゃんをぉぉぉぉぉっ!!」
そうして、途端に坂道ダッシュを始めたのだった。
「おいつよしっ! お前なにやって……!」
「うらぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
制止の声を上げる友達のことなど眼中にない。
「どりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!!」
彼はただ、必死に目の前の坂を駆け上がっていき。
「オレはぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
頂きまで到達したらば、すぐにまた護岸へ向かって坂を下り、下りきったらまた、再び急こう配の坂を登り始めようとする。
大好きなリリコちゃんを奪われた。
「おりゃあぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
それが、彼にとってはとてもとても、悔しくて。
「ぜぇ……はぁ…………。もう、一回…………だぁぁぁっ!!」
どうして自分じゃないのかと。
自分よりも足が速い、運動も出来て頭も良いから。
たった、それだけの理由で。
「だっしゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
ならば、自分だって。
足が速くなれば、もっと賢くなれば。
きっと、もう一度。
彼女は振り向いてくれるのではないのか。
端から見れば、天下烈志は非常に単純な男。
だが、それでも彼は本気であった。
恋のため、己のトキメキを取り戻すため。
雑念、煩悩。
朝の道場での座禅で整った心はどこへとやら。
それでも彼は、彼なりの全力で。
己を磨け、強くなれと。
並ぶだけなど生ぬるい。超えて、今一度。意中の女の子に振り向いてもらうため。
ただちょっとだけイケメンではダメだ。
ただちょっとだけ器用になんでも出来るではダメだ。
その執着が、嫉妬心が。負けず嫌いな性格が。
天下烈志。
彼の、小さき頃からの原動力であったのだ。