「………………キタ、カ……」
幻妖に揺らめく赤紫の炎によって、薄明るく灯された板造りの広間。
縦長へと異様に延びる廊の、奥のさらに奥側。
左右両側に延々と敷き詰められる古畳に導かれしは中央、幾層にも平たく積み上げられた台座の上には。
漆黒の甲冑鎧を纏った、一体の化け物の姿が。
目と鼻はなく、真横へ大きく引き裂かれた口を持つその生物は、ローミッドとエルフ国兵らがこの広間へ来るのを待っていたかのよう、彼らにその姿を見つけられた直後。ゆっくりと、台座の上から板張りの床へと降り立って――。
「な…………なんだよ、このデカさ……」
警戒するエルフ国兵らの前で仁王立つ化け物の、その巨漢さ。
武器を構えるエルフ国兵全員が、悠々と見上げてしまうほど。ゆうに五メートルはある体高に、頭頂部は天井すれすれまでへと至り。
巨体を支える二本の脚周りは、どんな丸太よりも太く、その脚が持つ幅は、ヒトが十人束に集まって初めて同等となるほど。
岩石のような、肉厚な両肩からぶら下がる両腕も、二の腕の太さなどヒトが一人抱き着いても覆い尽くせる範囲は、たったの半周さえも満たせない。
あまりにも、規格外なその姿に。
呆然と見上げるエルフ国兵らは、息をするのさえも忘れて。見た事もない巨体から放たれる圧倒的な威圧感を前にして、身体中から汗を噴き出しながら、思わず後退りしてしまう。
「あいつが……。気配の正体、か……」
遠く離れる位置にいたローミッドも、表情を強張らせては、慄くエルフ国兵らに囲われる巨大な怪物をじっと見つめて、鞘に納めた剣をいつでも引き抜けるよう、腰をかがめて構えを取る。
畳間の迷宮からここまでずっと、彼が微かに感じ取っていた尋常ならぬ気配も、いままさに、奥で立つ怪物から放たれていて――。
「ツワ……モノ…………ヨ」
エルフ国兵に囲われる怪物は、禍々しい口を開けては、低く掠れた声を轟かせ。
「…………ひっ!」
一歩、片脚を僅かに前へと進めただけで。
甲冑を模る銅合金の擦れる音が鳴り響けば、板造りの床へと踏みしめた脚を中心として、辺り一帯に大きな振動を発生させる。
それを受け、じりじりと化け物から遠ざかろうとしていたエルフ国兵らは、小さく悲鳴を上げたらば、更なる恐怖感に身体を硬直させその場で固まってしまうと。
「あ……あぁ…………」
カシャン……と。
幾人かは、持っていた武器を手から滑らせ、足元へと落としてしまう。
「(初動を……。奴の初動を見誤るな…………)」
一歩ずつ、ほんの少しずつと動き始めた化け物の、一挙手一投足を凝視し続け。
エルフ国兵らとは異なって、その場から動じず敵の様子を窺うローミッドでさえも、あまりの緊迫感に顔を強張らせれば、額からは汗が止まらぬほど噴き出して。
頬を伝い、顎下へと流れて床に滴り落ちている感覚さえ忘れてしまっては。
ぷっつりと、いつ切れるか分からないほどに張られた一本の細い糸のように。
それほどまでに、彼の集中力は極限状態にまで達していた。
「アァ…………。ツワモノ、ヨ……」
動き出す巨漢の怪物は、己を囲うエルフ国兵らのことなど微塵も気にすることなく。
ただただ、裂ける大口からは、生ぬるい吐息と共に、同じ言葉を繰り返し呟いて。
その巨体は、ローミッドの正面に向くようにして、真っすぐに。
――――歩いた
「――っ!!!!」
次の、瞬間。
「(………………は?)」
囲うエルフ国兵らの下から、忽然と怪物の姿は消え。
「ツワ…………モノ…………」
奴がどこへ行ったのかと、そんな思考を与える間もなく。
気付けば怪物は。
離れていたはずの、ローミッドの顔面間近に。
その大きな拳を当てようとして――。
「――っ!? ぐうっ!?」
間一髪。
目の前まで迫っていた巨大な拳を反射で避けたローミッド。
襲われた瞬間、自身へと殴りかかる巨大な拳がまるで、スローの映像を見ているかのような錯覚に陥っては。
「(なんだっ!? こいつ、いつの間にっ!?)」
上半身がねじ切れそうになるまでに体勢を仰け反らせ、頬を掠める感覚を受けながら、なんとかギリギリの所で躱しきる。
喰らってしまっていたらば、粉々に砕け散っていたであろう。
化け物の拳がローミッドの目の前で空を切ると、コンマ数秒遅れて。振りかざされた拳の通ったあとを追いかけるように、物凄い風圧が発生する。
「ぶっ!! はぁっ! クソッ!!」
避けた勢いで、床へと派手に転がるローミッドは、すぐに立ち上がれば腰に下げた鞘から剣を抜き。
「はぁ……はぁ……! こいつ、いまどうやってっ!?」
今さっきまで、自分はあの化け物の挙動をずっと見ていたと。
エルフ国兵に囲われていたあの怪物の行動すべてを隈なく細部に渡って見ていたはずだと。
だが、気付けば奴は姿を消し、次の瞬間にはもう、己に向かってあの凶悪な拳を振りかざしていた。
一体、どうやって――。
この瞬く間に起きた一連の出来事を、動転する精神の中で懸命に振り返っては、散らばった記憶を整理し思考を巡らせようとするローミッド。
対して。
「アァ…………。ツワ、モノヨ……」
ローミッドへと襲い掛かってきた化け物は、初撃で獲物を仕留めきれなかったと言いたげな様子で、自身の拳を見つめれば。
再び言葉を小さく呟いた後、またしてもゆっくりと、ローミッドのいる方向へと顔を向ける。
身体を向け直そうとする怪物を見たらば、ローミッドは少しずつ、少しずつと勘付かれないよう後ろへと下がって距離を取り。
「(次は、どうくるっ……! 動いたほうがいいのか、それとも……!)」
さきほどの一撃だけでは分からない。
目の前の怪物が、どんな術を使ったか、どんな動きをしたのか。視認が出来なかったことが故に、来るはずであろう二撃目への対応に判断しあぐねていると。
刹那。
「――っ!!」
再び、視界の中からあの怪物の姿が跡形もなく消え去れば。
「(まずいっ!? くるっ……!?)」
どこかへと横っ飛びするわけでもなく、ローミッドは途端に身体の正面へと剣を構え、全身を硬直させたらば
「…………ツワモノ」
「――っ!!!!!!」
再び、ローミッドの目前にはいつの間にか、巨漢の怪物の姿と、迫る巨大な拳が現れて。
「ぐっ!!!!????」
一歩たりとも動く暇もなく、振り下ろされた拳は構えられたローミッドの剣へと直撃する。
「(重っ……!?)」
怪物の拳が剣へと当たれば。
これまで生きてきた中で感じたこともないほどの威力と重さが、刀身からローミッドの手、そして両腕にかけて一気に襲い掛かり。
「ぐぅっ……! あぁぁぁっ!?」
押し返そうにも全くもってびくともせず。立てた刃に拳の表面にすら食い込ませることも出来ず。
怪物の拳が完全に振り下ろされるタイミングを見て、すぐさま身体の斜め下へいなし捌こうと、軸足をほんの少しだけ下げようとしたその瞬間。
「――っ!?」
ローミッドの両脚は、押してくる拳によって宙へと浮き――。
「ぐぁぁぁぁぁっ!?」
そのまま、身体ごと飛ばされて。
物凄い勢いで宙を舞うローミッドは、エルフ国兵らがいる辺りから近くの壁へと激突してしまう。
「な、なんだよ……なんだよあの化け物っ!?」
「さ、さっきまで…………オレ達の目の前にいたはず、なのに……」
巨漢の怪物によってローミッドが吹っ飛ばされてから、暫しの静寂が流れたあと。
人間が怪物によって小石のように飛んでいく様子を見ていたエルフ国兵らは、遠くで仁王立つ怪物へと視線を移せば信じられないといった表情を顕わにし。
「お、おいっ! 大丈夫かっ……!?」
一人のエルフ国兵が、壁に激突したローミッドの身を案じて急いで駆け寄り声を掛けたらば――。
「…………うっ! ゲホッ、カハッ!」
背中から打ち付けられたローミッドは、無惨にもめり込んだ壁の中でグッタリとし、苦悶の表情を浮かべながら咳き込んで、口からは少量の血を吐き出していた。
「オ、オレのことは……。それ、よりも……やつ、は……」
駆け寄ってきたエルフ国兵に気付いたローミッドは、己のことを心配するエルフ国兵に対してすぐに首を横に振ると。
今は自分に構うなと。
視線を目の前のエルフ国兵から広間のほうへとやり、ぼやける視界の中で、先程自分を殴り飛ばしたばかりの怪物の姿を探そうとする。
「…………あそこ、かっ……」
そうして見つけたらば、怪物は先ほどローミッドへと殴りかかってきた位置からほとんど動いておらず。
「…………ツワモノヨ」
ローミッド達に対して背を向けたまま、壁際で立ち尽くす巨漢の怪物は、またしても呻き声を轟かせながら同じ言葉を吐き続け、そして、ゆっくりと。脚を動かし床を揺らしていく。
「(た、立て……! また、奴の攻撃が……!)」
背中を中心に、全身に走る鈍い痛みを堪えながら、右手傍に転がる剣を握り直し。
「くっ……くそったれが……!」
床に刃を突き立て、なんとか立ち上がろうとするローミッド。
「(あの見えない動き……何が、なにをきっかけに……!)」
怪物から受けた二度の攻撃。
その前後の動きを幾度も反芻するが、姿を消し、再び現れる原理が一体どのようなもので、何を合図に来るものかは全く分からず。
「アァ…………ツワモノ、ハ……」
「――っ!」
そうこうしているうちに、怪物の身体の向きは既にローミッドがいるほうへと向き直っていて。
「まずいっ……! 来るぞっ!!」
またあの瞬間移動からの攻撃がやってくると予期したローミッドは、急いでここから離れろと、近くにいるエルフ国兵らに手を振り大声で叫べば、立ち上がって再び剣を構えた。
――その時だった
「……ダメ、ダ…………」
突然。
「ヤハリ……。マルゴシ、デハ…………ソノ、イノチ……」
巨漢の怪物は誰かに向かって襲い掛かることはなく、代わりに自身の首を大きく横に振り始めれば。
「(な、なんだ……?)」
ローミッドへと殴りかかったその巨大な拳の指を広げると、頭部に手を当て項垂れて、どこか残念がる様子を露わにする。
「あ、あいつ……なにしているんだ……?」
襲ってこない怪物に、ローミッド達が困惑していると。
「…………。アレガ、ホシイ……」
怪物は掌を頭部から右傍に建てられた壁へと移して。
「…………”
次に、詞を唱えれば。
「「「――っ!?」」」
壁へと寄り掛かった掌は、沼の中に沈み込むようにスッと壁の中へと入っていき。
「…………アァ。キタ、カ……」
暫く壁の中で右腕を奇怪に動かしていれば、何かを見つけたか、怪物は壁の中へと吸い込まれた手を引き抜こうとする。
「お、おい…………」
「なんだよ、あのデカいの……」
そうして、壁の中から怪物の手と一緒に現れた物は。
「ワガ…………ナガネンノ……」
なんと刀身四メートルはある、途轍もない大刀。
「ま、まさか……アレをっ……」
あまりの大きさの代物に、じっと見つめていたエルフ国兵らもローミッドも、みな唖然として。
「…………サァ」
「「「――っ!!」」」
獲物を手に取った怪物は、鞘から引き抜いた銀飾の大刀を両手で握り直し。
「ハジメ、ヨウカ…………」
己を警戒する兵どもを狙い定め。
「ワガナハ……。エーイーリー」
「…………来るぞっ!!!!」
ローミッド達へと。
「イザ…………ジンジョウニ」
襲い掛かる。