どこからか。
なにか、大きなものがくずれ落ちる音がした。
「――っ! い、いまのは……」
気のせいだろうか。
辺りが静まり返ったあと。
「た、隊長……?」
ほんの一瞬だけ、隊長が叫ぶ声が聴こえてきた気がした。
「そこに、いらっしゃるのですか……?」
声がしたほうへと、ワタシは急いで駆け寄って。
もう一度、もう一度だけ聴きたいと。
そう、神に一抹の望みを縋る想いで。
目の前の戸を押し倒す勢いで、顔を、耳をくっつけてみたけれども。
あれから、二度同じような声が流れてくることはなくて。
「隊長……隊長っ!!」
近づいてみれば、聴こえないものも聴こえるようになるかもしれない。
そう、戸を開け幾度か部屋の奥へと進んでみたけれど。
「…………聴こえ、ない……」
それでも。
隊長らしき声が、聴こえてくることはなかった。
「はっ……はっ……はぁっ…………」
呼吸がずっと、ままならない。
いつまでも、胸の奥に渦巻くこの、嫌な予感が。
払いたくても、払えない。
無理に取り除こうとすればするほど、それは、悪戯にワタシの心をかき乱そうとしてきて。
吐き気すらも覚えてしまうほど。
この状況が。隊長の安否が分からない、この状況が。
ワタシには、到底耐えうるものではなかった。
あの時――。
ワタシも、隊長と共に向かうべきではなかったのだろうか。
隊長からの進言を、強引にでも、無理やりにでもイヤだと言いきって。
一緒に行かせてほしいと。
そう、言うべきだったのではないか。
…………隊長は、本当に強い方だ
それは、傍でずっと。
あの方の剣を見てきたワタシが、一番に知っていること。
隊長の力強さ。
立ち振る舞い、剣を持つ所作。
繰り出される剣筋から伝わってくる、その真っ直ぐさ。
そこからは、王国を守ろうと、民を守ろうという強い意志がヒリヒリと伝わってきて。
あぁ、なんて恰好いいのだろうと。逞しいのだろうかと。
ワタシもあの様に、凛々しくて、真っすぐな。そんな剣士像になりたいと。
そう、志して。
幾重にも剣を交え、鍛え、そして――。
いまこうして、ここまで生き延び、隊長によって生かされてきた。
ワタシは…………隊長のことが好きだ
この気持ちに、嘘はつけない。
憧れ、志し、そして。傍にいたいと。
願わくば、この先の未来も。
隊長が見据える景色の中を、共に歩んでいきたいと、想い続けていた。
こんなことを言ってしまえば、きっと隊長は、酷く遺憾に思われるかもしれない。
そもそも、いまこの時。
隊長の命に背き、一人この生命の樹へと、隊長を追って入っていったこと自体が…………。
「…………剣技」
それでもワタシは、あの時分かれた際の、見送った隊長の背中が、どうしても忘れられなかった。
隊長は、強い。
それは、ワタシが一番に分かっていること。
けれど、もし。
「…………”
急げ、急ぐのだ。
迷っている暇など、どこにもない。
ワタシの行く手を邪魔するような、こんな部屋など全て、斬り捨てて。
あの方の、下へと。
いま、すぐに。
* * *
「ぜぇ……はぁっ……!」
「「「ギャハハハハッ!!」」」
エセクとの遭遇から、はや十数分を超えた頃合い。
「ギャハッ!」
「――っ! 左だっ!!」
畳間の迷宮にて、エセクらとの命を懸けた追いかけっこを繰り広げていたローミッドとエルフ国兵達は。
「「ギャハァァッ!!」」
「ちっ……! つぎっ!! 三つ部屋を越えた先で右に曲がれっ!!」
二手三手、続々と別れるエセク達による挟撃を避けながら、目が回りそうになる勢いで、右へ左へとせわしなく方向を転換させ、ここまで一度たりとも留まることなく走り続けていた。
「イタゾッ! イタゾッ!!」
「どけっ!!」
「――っ!? ギャアァァァッ!?」
どこから出てくるか、いつ出てくるか分からない。
何手にも分かれたエセク達の行動は、逃げるローミッド達にとってまさに神出鬼没なもの。
「右だっ!! 右へ走れっ!!!!」
最前頭と最後尾を行き来するローミッドが、背後のエセクらの行動を注視し続けて、何匹か群れから離れれば、その度奴らが向かっていった先から、次にどの辺りで出てくるかと予測して、エルフ国兵達にどこへ逃げればよいかと指示を送り続けていた。
それでも。
「(くそっ……! このまま躱し続けたとしても、いずれ体力切れで全員追いつかれるぞっ……!)」
執拗に迫り来るエセク達からは、諦めてくれるような様子はどこにもない。
狂乱じみた笑みを浮かべ、鋭利に伸ばした両腕を振りかざしながら、いますぐにでも獲物を捕らえて嬲り殺してやりたいと。
奇声を発し、ローミッド達を徐々に追い詰めていく。
「はぁ……はぁ……だめ、だ……」
「――っ! おいっ! 諦めるなっ!!」
もうどれだけ走り続けたかなど、誰も分からない。
いよいよ体力の限界が近づいてきていたエルフ国兵らは。
「オレも……もう脚、が……」
一人、二人と足を止めようとし始める者も現れ出して。
「しっかりしろっ! 必ず活路はあるっ!!」
疲労で鉛のように重くなってしまった脚が、もつれ思わず転びそうになるエルフ国兵を、横からローミッドがその背を掴み、声を荒げて無理やり立たせようともしてまで――。
先ほどの庭園のように、どこかにまた開けた場所があるはずと。そこまでの辛抱だと、ここまでなんとか凌いできたローミッド達。
だが、いよいよ万策も尽きようとして。
また彼らには、この状況を打開できるだけの気力すらもほとんど残されてはなく。
「(もう、ダメなのかっ……!)」
鼓舞し続けてきたローミッドの頭の中にも、遂には諦めの二文字が浮かび始めた。
――――その時
「(――っ!? なんだっ!?)」
突然、ローミッドに強烈な違和感が襲いかかる。
「(この気配……さっきも似たようなっ……!)」
それは、ローミッド達が庭園に辿り着く前のこと。
迷宮の中で彷徨っていた際、出口を探していたローミッドは、何処かからか、強者が纏う威圧感に似た気配を感じ取っていた。
しかし。
「(これは……さっきの時よりも比にならんほどっ……!)」
いま再び感じているそれは、先とは全くもって異質なもの。禍々しい気配に思わず全身が震え立ってしまえば、強大なその圧迫感に息が詰まりそうなほど。
「(どこだっ、どこからだっ!?)」
冷静さを欠いてしまうほどのあまりの雰囲気に、ローミッドは顔を引きつらせながら、瞬時に辺りを隈なく見渡せば。
刹那。
「お、おいっ!!」
逃げる集団の、先頭に立つエルフ国兵の一人が唐突に大声を上げると。
「あそこ見ろっ!!」
決死の表情を浮かべながら、力いっぱいにある一点を指差す。
「出口だっ! 出口があったぞっ!!」
幾層にも連なる畳間の部屋の奥の更に奥。
そこには、左右に開かれた大きな鉄の壁が聳え立てば、その先では、広々とした空間が待ち受けていて。
「ほ、ほんとだっ!!」
「いそげっ! はやくっ!!」
ようやくにして、心から待ち望んでいた出口が見つかったのだと思い込んだエルフ国兵らは、それを見るや、最後の力を振り絞り、畳の上を駆け。
「(―ーっ! やっとか!?)」
そんなエルフ国兵らの声を聞きつけたローミッドも、彼らが走り去っていく方向へと顔向けて。
「良く見つけたっ!! 全員そのままあの部屋へっ……!」
後を追うよう、共に奥に構える大部屋へと向かおうとした。
――――が。
「――っ!!!!」
ローミッドが一歩、足を踏み出そうとした先の、その大部屋から。
「(…………まさか)」
今し方、慄くほど強烈に感じ取っていた、あの威圧感が漂ってきて。
「奴らはっ……。――っ!!」
ふと、あることを察知したローミッドは、エセク達の様子が気になり一瞬だけ背後を確認しようと振り返れば。
「「「へへ…………へへへへへへ」」」
なんと、エセクらはもう、ローミッド達のことを追いかけてはなく。
畳間の部屋で直立不動となれば、不気味な笑みをただただ浮かべ、ローミッド達が駆け抜けていく様子を、じっと眺めているだけで。
それを目撃したローミッドは。
「待てっ!! そっちは罠だっ!!」
このタイミングで現れた大部屋に。急に立ち止まったエセクらの姿と、目の前から迫り来る異様な気配から、ここまで意図的に追い回されていたことを悟り。
「急げっ!! 急げぇっ……!!」
慌てて前を走るエルフ国兵達を引き留めようとしたものの、既にその時には半数以上が大部屋の中へと入り込んでいて――。
「くそったれっ……!!」
彼らを見捨てるわけにはいかない。
そう思ったローミッドは、この先に途轍もない危険が待ち受けているだろうと予感させられてもなお。
足を大部屋のほうへと向け、そうしてエルフ国兵らの背を追いかけて――。
部屋を越えるごとに、開けられた障子戸は背後から一つずつ閉じられて。
まるで、何者かによって意志を持つように、彼らを来た道へと引き返せないようにするかの如く。
閉じられた障子戸の先からは、もうエセクらが追いかけてくることもない。
誘われているなど、ローミッド以外に誰も気付かずに。
誰も彼も、我先にと大部屋の中へ転がり込んでは、その勢いのまま地面へと倒れ伏して。
そうして鉄の壁までも、誰の手も借りずに勝手に閉じようとし。
僅かな隙間から、ローミッドも大部屋の中へと駆けこんだ、その時。
彼らは鉄の壁によって、完全に大部屋の中に閉じ込められるのだった。