長い年月を経て。
岩上護は施設を出ることとなった。
錆びた鉄格子で模られた門を潜り抜けた彼の姿に、数年前の面影はなく。
彼の見る世界に、彼を出迎えてくれる者など、誰一人として居はしなかった。
ただ彼は、施設の職員から去り際に渡された数枚の紙と、僅かな衣服と金銭が入った手さげ鞄を持って。
たった一人で、俗世へと歩いていった。
「『……では、本日のゲストは、新エネルギー開発研究所の……』」
彼が施設で過ごすうち。
「『新エネルギー”エレマ”を巡り、各国との連携や調整は……』」
世間の様相は移り変わり。
「『……ここで臨時ニュースです。先ほど、新エネルギー庁はエレマ体の実験に成功したことを発表。これを受け、政府は今後、実用化へ向けた取り組みや、いずれは第一次エレマ部隊人員募集のフェーズへ移行することを……』」
様々な出来事は、日々新しく生まれ。
「『号外。ヴェネチア国際ピアノコンペティションにて、国内最年少優勝を果たした天才ピアニスト、右京瀧氏が突然引退を公表……』」
当時、世間を騒がせた孤児院大量虐殺といった事件は、人々の記憶の中からはほとんど薄れていき。
「ねぇ、駅前のさ……」
「お前応募するの!?」
「いきなり今の仕事辞めるわけにはなぁ……」
いくつもの交通機関を乗り降りし、人がごった返す街中を歩いていた岩上護の、その姿を見て。
彼があの時の事件で捕まった少年だと気づく者や、騒ぎ出す者。何か声をかける者などは、誰一人としていなかった。
日も暮れ始めた頃。
「…………」
長い時間をかけて、彼が辿り着いたのは、築何十年もする一軒の古いアパート。
そこは、彼が施設から出る際に、施設の職員が手配していた新しい住居で。
渡された紙に標されていた行き方を頼りに、彼は目の前のアパートまで向かっていたのだが。
中へと入れば、そこには施設にいた頃とあまり変わらない部屋があり。
最低限の生活スペースと、調理が出来る小さなキッチン。
トイレは汚れたままの、至る所には埃やカビが蔓延していたほど。
ただ、彼はその様子に文句を言うことはなく。
そのまま部屋へと上がれば、隅に持っていた荷物を置き、古くなった畳の上へと寝転がり、あの時と同じよう、身体を丸め、眠りへと落ちていった。
施設の職員が住居を手配していたとはいえ、家賃を払わなければならないのは彼自身。生きる為、そこで暮らす為。彼は次の日から働きに出ることとなる。
「……君? 岩上護って」
彼が向かったのは、小さな工場。
「あー……紹介は受けているから、とりあえずあっちいって着替えてこい」
彼を待っていたのは、ガラの悪い小太りの中年男で。
すぐに男は、事務所に来た彼を見ては、雑に顎で指図をして、別室へと案内する。
「……おーい。お前ら、いったん手ぇ止めろ」
別室に用意されていた作業着を着た彼を、次に中年男が案内したのは、工業の作業場。そこにはすでに、十数名の作業員たちが、各々の持ち場で作業に当たっていたわけだが。
「今日から新入りだ」
中年男の声に一瞬、一同が手を止める。
「ここでのルールだったり、作業のやり方とか……とりあえず、よろしく」
「「「…………」」」
中年男の話に耳を傾ける作業員たち。しかし、誰もその話に返事をするわけではなく、新入りだと紹介され傍に立つ護を一瞥しては、すぐに持ち場へと戻り、手を進めようとする。
「……まぁ、いいか。おい、新入り。仕事のやり方とかは、あちこちに資料が落ちているから、それ拾ったりして見とけ」
そんな作業員たちに、何か物言いすることもなく、中年男は護に向かって一言告げると、そのまま彼を残し、どこかへと去っていくのだった。
「…………おい」
中年男が作業場を離れてから暫くして。
「…………おいって」
疎らに落ちる資料を拾い上げ、それを見ながら持ち場へと当たろうとする護に、一人の作業員が不意に絡む。
「お前、どんなことしたんだ?」
彼が訪れた小さな工場。
そこで働く者達はみな、彼が出た施設で同じように過ごしてきた者達で。
「なぁ、なんか言えよ」
そんな作業員は、新入りが手を染めた内容を、茶化すように聞こうとしたのだが。
「…………黙れ」
「……あ?」
護は、絡む作業員の顔を見ることもなく。
「…………どけ」
ただ一言、作業員に向かって声低く轟かせると、その場から離れようとする。
「おいてめぇなんだその態度は」
「おーいっ! あんちゃんちょっとこっち来てくれっ!」
「――っ! ……っち。なんなんだよ」
それからも。
「おい新入り」
「…………」
「おっとっ! 悪い、わざとぶつかっちまった」
「………………」
「なぁ、新入り。ちょっと金貸してくんねぇ?」
「……………………」
作業を進める護に、何人かが同じように絡みに行こうとしたのだが。
「…………うるせぇぞ、てめぇら」
その度に、彼は悪態をつき、決して作業員らを相手にしようとはしなかった。
彼は人を信用しない。
またいつ、自分が誰かの手によって堕とされるか、分からないから。
彼は他人に自分の心を。本心を見せることはしない。
誰とも話さず、ただじっと。
行動するときも、ずっと一人で居続けて。
けれど、そんな彼の態度を、周りの人間は歓迎するわけがなく。
「なんだ、あの新入り」
「調子こいてんじゃねぇぞ」
「あの野郎……いっぺんシメるか?」
彼に向けられる眼差しは、まさに敵意のそれとなっていった。
それでも彼は、生きるしかなかった。
たとえ、それがどんなに劣悪な環境であっても。
生き続ける為、お金を稼ぐ為に、働いていった。
朝起きたらば、工場へと向かい。工場への作業が終われば。また、あのオンボロのアパートへと帰り、眠りへとつく。
この生活が、この人生が。
もうずっと続いていくのだろうかと。
彼に、未来への選択肢など、未来べの希望などあるはずもなく。
ずっと一人で。生きる為だけに。
――――――――ある時
「おい、お前」
いつも通り、彼が持ち場で作業に当たっていた時のこと。
「ちょっと、つらかせ」
突然、用があるからと、別の作業員から声をかけられると。
「…………なんだ?」
彼が呼び出されたのは、工場の裏側で。
そこには、十数人の作業員たちが、物々しい様子で彼のことを待ち伏せていたのだった。
「おい、てめぇ」
すると。
「来たばっかのくせに、なんだその態度」
一人の作業員が悪態をつきながら、いきなり彼の胸ぐらへと掴みかかろうとする。
「あんまり調子乗ってるからよぉ、そんな奴ぁ、ちょっと教育してやらねぇとなぁ」
作業員らの目的は、彼への調教。
工場に来て以来、彼が示す態度が気に入らなかった作業員たちは、我慢がならないばかりに、この機に彼を集団で痛めつけようとしていたのだった。
「へへっ。おい、こいつの腕掴んどけ」
胸ぐらを掴む作業員が、後ろに待機していた別の作業員に向かって指示を出す。
「さぁ、大人しく……」
そして、別の作業員が、彼の背後へと周り、彼の両腕を捕えろうとした。
その時だった。
「……っが!?」
「――っ! てめぇっ!!」
胸ぐらを掴んでいた作業員の腹に、重い蹴りが一撃入る。
「こいつっ!? やっちまえっ!!」
作業員に向かって蹴りを入れた護に、一同が一斉に襲い掛かり。
「ぐぁっ!?」
「おい抑えろっ!!」
「ぎゃぁぁぁっ!!」
そのまま、大げんかが始まってしまった。