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26.真意に触れて



 ――――――――――――静寂。








「以上が。あなたの姉、右京漣が遺した手紙の内容となります」




 手紙を読み終えたネツァク。




 真っ白な床面に座り、項垂れる瀧の下へ近づくと。




「どうぞ、御自身の目でも確かめてください」




 そっと。


 瀧の前に、持っていた手紙を置く。




 その差し出されるネツァクの手を叩くわけでも、手紙を突っぱねるわけでもなく。




「………………」




 瀧は、何の反応も示すことなく、暫し、目の前に置かれた手紙を見つめるだけ。




 手紙の内容を聴いてから。




 もだえるような怒りが湧くことも。


 酷く締め付けるような、深い哀しみが湧くこともなく。




 ただ、瀧の心の中には。


 ポッカリと、大きな穴が虚しく空いていた。




 そして。




「(…………不治の、病)」




 開かれた手紙の、ある一文へと目を向ける瀧。




「(それじゃあ……)」




 ――もう、残りの余命が僅か一年しかもたないって




「(本当は……あの時には、もう)」




 思い返すは、かつて、瀧がイタリアでのプロ契約が懸かった大会に挑んだ時のこと。




「あなたの姉は、病と闘う中でも、あなただけには希望を与え続けたいと。決して下を向かず、前へ進もうとしていました」




 瀧が生まれた時からずっと。


 共にあると告げていたネツァクが。




「でもなんで隠す必要なんか」




「それは、あなたの未来を想っての行動だったのです」




 これまで、その目で見守ってきたこと、その全てを伝えていく。




「手紙にも書いてあるでしょう」




 ――あなたの力、その奏でる音色は。もっと広く羽ばたくべきもの。




「右京瀧さん。あなたには、とても大きな力がありました」




 ――どうか、あなただけは




「それは、ワタシが持つ力。”大いなる癒し”と相乗し、特別なものとして発揮され、その力が、結果としてあなたの姉の命を繋ぎ止めていたのです」




 ――その努力、歩み、全てが報われて欲しい




「とても素敵だと。心から賞賛し、誇りに思っていたあなたの姉は、あなたを待っている未来が明るく、広く繋がっていくよう。願っていたのです」




 ――だって、あなたは。多くの人から、祝福されるべき存在だもの




「(……だからといって)」




 ネツァクが話す姉の真意を静かに聞き続ける瀧。




 だが、それでも。


 瀧の中では未だ納得などいくわけはなく。




「(なにも言わず、去っていったら……俺の気持ちはどうなるんだよ)」




 姉の夢を叶えるためにと、懸命に。努力し、歩み続けていたと。


 心の一番の支えだった姉の、その笑顔を見るために。夢を見せてあげる為、これまで頑張り続けてきたと。




「(失ってしまえば……何も残らなくなるだろ…………)」




 その支えが無くなってしまえば。


 未来があっても。先へ進む原動力が無くなれば。




 意味なんてないのだと。




「だからこうして。最期に手紙を遺し、来るべき時に、あなたへ真意が伝わるよう。書かれたのです」




 そんな瀧へ、床に置かれた手紙を拾うネツァクは。


 受け取ってもらうよう、瀧の空いた手に、ゆっくりと近づける。




 すると。




「瀧さん、あなたの姉が最期。どこで亡くなったか、知っていますか?」




 唐突に、ネツァクは瀧へ、姉の死に場所について尋ねる。




「それは……入院先の病室で」




 その問いに、すぐ答える瀧だったが。




「いいえ、違います」




 それを聞いたネツァクは、目を閉じては首を横に振る。




「あなたの姉が亡くなった場所。それは」




 そして、次には。




「あなたが住んでいた国。日本の空港の中だったのです」




「――っ!?」




 瀧にとって衝撃的なことを、告白する。




「く……空港?」




 あまりの予想外の返答に、瀧が思わずネツァクへと訊き返す。




 さらには。




「そして、その時。あなたのお姉さんが手に持っていたのは」




 ネツァクは立て続けに。







 隠されていた事実を、次々と話していく。




「そ、それって……」




 日本の空港の中で、イタリア行きの航空券を持って亡くなっていた。




「そうです」




 ネツァクの言葉が、瀧の心へと入っていく。




「あなたの姉は、あなたの演奏を聴きに行くと。あなたが挑んでいた大会へと向かう為に。一人、病室から抜け、あなたへ会いにいこうとされたのです」




 発せられる言葉の、一つ一つが。重く厚みのあるものへと変化していく。




 ――もっと、聴きたかったなぁ




「死期を悟っていたあなたの姉は、無理とは分かっていても。それでも、奇跡を信じて。愛していたあなたの姿を見ようと。最期にもう一度、その演奏を聴こうと」




 ――もっと、大きくなった貴方の姿を




「命の灯が消える、その寸前でも。懸命に、頑張っていたのです」




 ――見ていたかったなぁ




「それでもあなたは……。それを無駄なことだと言い切ってしまうのですか?」




「……………………」








 ネツァクの言葉を、静かに聞き続ける瀧。






 ふと。




 彼は、遺された手紙へと目を向ける。




「(……なんだよ)」




 そして、改めて見返せば。


 手紙に書かれた文は。




「(こんなにも……)」




 どれも細々とし。


 所々では、少し表面をこすれば消えてしまいそうなほどに。




「(ボロボロじゃないか……)」




 とても薄く、筆跡の弱い字もあった。






 ”どうしてそんな馬鹿みたいに無駄なことを続ける”






 かつて、瀧が。己の心に枷として思い、他者にも吐いてしまった言葉。




 ――毎日病室で聴いていた、あなたが奏でたピアノの音




「(こんなものを、遺されて……)」




 ――それは、私の生きる力になった




「(そんなボロボロの身体で……空港にまで行って……。イタリアへ飛ぼうとしてまで……)」




 ――お姉ちゃんは、幸せだった




「(無駄なことなんて……馬鹿みたいだなんて……)」




 ――ありがとう、瀧




「言えるわけ…………ないじゃ、ないか……」






 瀧の心にあった、一つの穴。






 ――ごめんなさい、瀧




「(ごめんなさいなんて……。言わないでくれよ…………)」




 あの日から。




「(ずっと、ずっと……)」




 最愛の姉を失った、あの日から。


 虚しく、大きくポッカリと空いた、その穴の。




「(俺が……姉さんに謝りたかった)」




 内側から、乾いた大地を潤す水が。




「(傍に居てやれなくて……ごめん、って…………)」




 ゆったりと、流れ出す。




「(嫌いになるわけ、ないじゃないか…………)」




 かつて、大好きだったその姉へ。




「(今でも思っているよ……)」




 枷に縛られた、その想いは。




「(場所なんて、関係なかった……)」




 一つひとつ。




「(大好きだった姉さんの傍で……姉さんが好きだったピアノの音を…………)」




 丁寧に。




「(ずっと、奏でていたかったんだ……)」




 解き放たれていく。










「それで、どうされますか」






 手紙を胸に抱きしめて。


 じっと。姉へ己の想いを祷る瀧へ。




「このまま、何もせずあの化け物にやられて死ぬか」




 改めて、問うネツァク。




「この手を取り。抗い、生き延びるか」




 立ちはだかっている困難へ。瀧を現実へと引き戻し、その意志を確かめる。




「……お前は、どうして欲しいんだ」




「それを決めるのは、あなた次第です。ワタシはあくまで、あなたの行動に従うまで」




「………………」




「今なら、まだあの女性を助けられます」




「――っ!」




 ネツァクが掛けた言葉に、瀧の顔が勢いよく上がる。




「そ、それって……」




「ですが。それを可能にするか否かは、あなたの意志とその行動次第」




 ネツァクが言うは。自身を庇って死んでしまったはずのメルクーリオについて。




「あなたが望むのであれば。その最良の結果へ導くほどの力を。ワタシは持っています」




 そんな彼女を助けられると。


 あの化け物に勝つ道筋はあると。




 一度折られてしまった瀧の心に。




 希望の灯が点く。




「では、どうされますか」




 目の前に差し出される手を。




 じっと見つめる瀧。




 ここから抜け出せば、またあの場所へと戻ってしまう。




 目の前では、瀕死で倒れる者がいれば。


 背後からは、命を狙おうとする者がいる。




 このままでは助かるわけもない。


 基地に帰る手段も無ければ、あの化け物から逃げる方法も無い。




 そんな中。




 自身の目の前に現れた、神のような存在に。


 己を姉の真意へと触れさせてくれた存在へ。




 もう一度、あの時のように。




 全てをその両手に乗せ、舞台へと向かった時のように。






 ーー大好きだよ、瀧






 賭けさせてくれと。




 最愛の姉が。


 生涯をかけて己に託した、未来への道を閉ざさないために。




 いま、一度。




「……頼む」




 そして。




「手を、貸してくれ」




 向けられた手の上に、己が手を乗せる瀧。




「えぇ、承りました」




 それを見たネツァクは、瀧へ優しく微笑むと。




 身体中から碧の光を発し、空間全体を包み込むのだった。

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