見知らぬ場所に囲われ、見知らぬものに出会わされた。
「ネツァ、ク……?」
目の前で微笑み立つ女性が告げた名を。
訝しげな顔をしながら、瀧は訊き返すように復唱する。
「えぇ、そうです」
名を言われた女性は、相変わらず瀧を見つめて笑うだけ。
それ以外のことをする気配は、全く感じさせなかった。
「何なんだ、お前は……」
そんな女性の態度に。
「ここは一体どこなんだっ!」
瀧は強い不信感を抱くと。
女性の顔を睨みつけ、唸るような声で叫ぶ。
「落ち着いてください」
それでも、目の前の女性は慌てるような様子はなく。
諭すような声で、優しく、瀧へ向けて囁いた。
そして。
「改めて。ワタシの名はネツァク」
次の瞬間。
「あなた方の概念でいう」
「…………」
唐突に。
「神のような存在と認識していただいて構いません」
「…………は?」
瀧にとっては驚くようなことを口にする。
「驚かれるのも無理はありません」
いきなり、己は神ですと言われたことに、呆け、その場に固まってしまった瀧だが、そんな瀧に対し、女性は無理に理解をさせようとはせず。
「こうして知らない場所へ移動され、こうして見えざる存在と相まみえるわけですから」
ただただ、自然なふるまいで、瀧の心情に寄り添うよう、ゆっくりと頷く。
「じゃあ、なんだ……」
暫しの沈黙の後。
ようやく口を開いた瀧は。
「俺は、あの化け物に殺されて……死んであの世にでも来たのか?」
動揺し、震える声で、己が疑念をぶつける。
「そうではありません」
そんな瀧の問いに、淡々と答えていくネツァク。
「ここはいわゆる、精神世界の中といったところ。あなたとワタシしか存在しない、二者だけの空間です」
彼の中で絡まる糸を。
一つずつ、解いていこうとする。
「なんで俺はここにいる」
「それはワタシと強く繋がったから」
「本当に他の奴はいないのか」
「はい、いません」
「これが全て幻覚だってことは」
「そんなことはありません」
「じゃあどうして俺はここに来れた」
「それは」
一問一答を繰り返す二者。
「それは。ある条件を、満たしたから」
二人以外に誰もいない空間に、二人のやり取りだけが、木霊し、奥へ奥へと吹き抜けていく。
「条件……?」
すると。
「心当たりはありませんか?」
今度はネツァクが、瀧に向け問いを投げかける。
「心当たり、だと?」
ネツァクの言葉に眉を顰める瀧。
言われてすぐ、記憶と胸の中を顧みては、その答えを探ろうとする。
「ここに来る前、あなたの身には何が起きましたか?」
そんな瀧に、ネツァクが丁寧に誘導する。
「それは……」
この場所へ来る前に起きたこと。
目の前でメルクーリオが倒れ、ツァーカムが使役する人形に、みな襲われそうになった。
「実が、突然……」
加えて突然、瀧とメルクーリオの手の中に一つの実が現れると、その実は宙へ浮き、瀧の唇へと触れた。
「その通りです」
瀧の返答に、再び頷くネツァク。
「それは、生命の樹に存在する水のマナを司るマナの実。あなたがそれを触れたことにより、こうしてこの場所へと移動し、ワタシと出会うことができました」
彼が来た経緯を説明しては、その瞬間に合わせ、一歩。瀧の下へと近づこうとする。
「意味が、分からない」
だが、それを見る瀧は。
「じゃあ、なんだ。その神とやらが俺になんの用がある」
すかさず一歩後ろへと下がり、ネツァクとの距離を保とうとする。
「そもそも、なぜ俺の名前を知っている」
続けざま、圧を強めてはネツァクに対して再び警戒心を顕わにする。
「それは」
そんな瀧に、少し残念そうな表情を浮かべたネツァク。
それでも、すぐに表情を戻すと。
「あなたがこの世に生を持った時から、ワタシはあなたと共にしていますから」
「……なんだと?」
またしても、意味深なことを瀧へ話し始める。
「厳密に言えば」
ネツァクの言葉に、瀧の中の謎は深まるばかり。
さらには。
「あなたと。あなたの姉、右京漣」
「――っ!」
ここまでネツァクとの会話を重ねるうち、初めこの場所に来た時よりも、幾ばくかの恐怖と緊張は解れてきていた瀧だったが。
またしても、その感情はすぐに。
「二人の姉弟と、共にありました」
「姉、さんも……?」
驚きへと、上書きされる。
「どういう、ことだ……」
思わず声が裏返ってしまう瀧。
「なんで俺と、姉さんがお前と関係があるんだっ!」
点と点がつながらない。
目の前にいる神とやらが。
そもそもどういう因果で繋がっているのか。
どうして、自身の前に現れたのかと。
「それは、
「なんだと……?」
しかし、ネツァクは何か含むような言い方で、瀧の求める答えには応じず。
そのまま口を閉ざせば、両者の間には長い沈黙が漂い始める。
暫くして。
「ですが、これだけはお答えできます」
再び、口を開いたのはネツァク。
「その前に。あなたは……。あなたの姉、右京漣のことを嫌っていますね?」
「……それが、どうした」
すると、姉の名を聞くやその瞬間。
瀧の表情はここに来て一番、嫌悪に満ちたものへと変わる。
「やはり」
そんな瀧に。
「あなたは、知らないのですね」
ネツァクはどこか哀し気な表情を浮かべては、ふと俯き、瀧の胸の辺りを見る。
「何が言いたい」
そんなネツァクの回りくどい物言いに、真意が分からず苛立つ瀧は、急かすよう問い詰める。
「ワタシはこれまで、あなた方姉弟の人生を見守っていました」
顔を上げ、瀧の目を見つめるネツァク。
「それぞれの歩み。何があって、何が起きていたか。その全てを」
そして。
「右京瀧さん」
ネツァクが次に放った一言。
「あなたは」
その一言に。
「あなたの姉、右京漣に最後まで愛されていました」
「…………は?」
瀧のはらわたが。
「ふざけたことをいうな」
一気に煮えかえる。
「姉さんが、俺を愛していただと?」
ネツァクに向かい、口角泡を飛ばし捲し立てる瀧。
「ずっと、俺を騙し続けていた、姉が」
心の底で沸々と。
「俺を最後まで愛していたわけなんかないだろっ!!」
冷めることの無かった激昂が、憎悪が。
ネツァクの言葉によって、呼び覚まされる。
「そうですか」
反対に。
「では、お伝えしましょう」
瀧の吐き捨てた言葉を聴いたネツァクの発する言葉が纏う空気は。
温もりが一切感じられないほどに、冷たく硬いものだった。
すると。
「なんだ、それは」
ネツァクは持っていた水壺を床に置くと、今度は懐からある物を取り出した。
「これは、あなたの姉、右京漣が書いた。あなた宛の手紙です」
ネツァクが取り出したは、一つの水色の封筒。
「手紙、だと……?」
ネツァクが持つその封筒を見た瀧は、目を丸くし狼狽する。
「そんなの聞いたこと」
「そうでしょう。なぜならこれは、あなたの御実家に置かれたものですから」
先程のように、瀧へ近づくことなどせず、ネツァクは自身の指先でゆっくりと、封を開く。
「あの日以来。あなたは一度も家に帰られていないのですから、知らないのも当然です」
さらに、封筒の中身を開いては。
「これは、あなたの姉の真意、全てが記載されています」
ボロボロの、四つ折りになった一枚の紙を、瀧の前に小さく掲げる。
「そんなの……嘘に決まって」
姉が自分宛に手紙を書いていた。
そんなことは一度も、誰からも聞かされていなかったこと。
何かに怯えるような表情で、ネツァクが掲げる手紙を見つめる瀧だったが。
「そうか……分かったぞ」
もう聞きたくもない。
姉のことについて触れたくもない。
あの哀しみと、絶望の味を。
「お前も、みんなと同じで……俺を揶揄っているだけなんだろっ!?」
もう二度と、知りたくはなかったと。
「やっぱりそうだ……全部夢なんだ……。あの化け物たちも、あの忌々しい劇場も、この空間も、お前も全てっ!!」
心の底から、ネツァクが持つ物と、これまで目にしてきたもの全てを否定する。
だが、次には。
「”綺麗な湖に囲われた街の、碧のガラスで造られたピアノで、あなたの演奏が聴きたい”」
ネツァクが発した言葉に。
「――っ!!」
これまでにない衝撃が、電流のように瀧の身体中へと走り抜ける。
「な、なんで……それを」
ネツァクが瀧へ告げたもの。
それは。
「これは、あなたのお姉さんの夢ですね?」
かつて、右京漣が、自分の弟へ向けて語った夢だった。
「どう、して……」
唇は震えて言葉はまともに出ず。
「それは……俺と、姉さんだけが知っている……」
何故、出会ったこともない人物が。
「なんでお前が……それを」
この世で二人だけしか知らないはずの。
果てなく追いかけ、そして、虚しく散っていった夢のことを知っているのだと。
「少しは、信じてもらえたでしょうか」
「――っ!」
ネツァクの射るような視線が、声が。
まるで瀧の心を握るように、その気持ちと意思を確かめる。
「ワタシが持つ能力が、困難にあぐねるあなたへ手を差し伸べる前に」
ネツァクは一歩も動いていない。
「あなたの心にあるその枷を」
けれども、その芯の通った声だけは。
「どうか、外しては頂けませんか?」
瀧の耳元へと。
段々と近く、大きく迫っていく。
「では、読みましょう」
何も言い返さない瀧は。
ただじっと、ネツァクが持つ手紙を見つめるだけ。
「あなたの姉が何を想っていたのか」
そして、ネツァクは四つ折りの手紙を広げると。
「その事実、その真意を」
彼が聞き逃さないよう。
はっきりと、透き通る声で。
「瀧へ」
その中身を、読み始めた。