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18.もう、疲れたんだ


「…………」




 そこは、薄暗い部屋の中。


 灯りは一つも点けられず。外からの光も、分厚いカーテンによって遮られ。




 インクは滲み、破けては、無惨に散らばる大量の楽譜たちが。


 床一面にと、広がりゆく。




 静かな部屋に鳴り響くは、時計の秒針と。


 不規則に鳴る、携帯の着信音のみ。




 落ちた携帯の画面から出る光に。


 わずかに照らされた、弟の顔。




 光はなく、焦点の合っていない目。


 だらんと力無く開けたままの口。


 血の気はなく、蒼白になった頬。




 その場から動く様子は一切なく。ただただ、地面に這っては目の前に映る床面を見つめるだけ。




「なんで……」




 唐突に告げられた、姉の死。




「どうして……何も、言わずに……」




 それは、彼にとって、ショックなどという言葉では表すことができないほどの出来事で。




「なんで……なんでだよ……」




 到底、受け入れきれるわけがなく。






 念願の夢が叶うはずだった。


 成し遂げ、ようやく姉の夢を叶えることが出来たはずだと。




 希望に溢れていたはずの、描いた未来。




 けれども。




 今の彼の胸中に広がるは。




 ただ一つ。最愛の姉を失ったという、絶望。




「ねぇ、姉さん……。姉さん…………」




 何度も、何度も。




「なぁ……姉さんってば」




 もうこの世にはいないにも関わらず。




 絶えず、姉を呼び続ける。




「なんで……勝手にいなくなったんだよ……」




 涙は一滴も出てこない。


 心は全て、枯れ果てて。




 立ち上がることすら、願えないほど苦しくて。




 どん底の淵に、突き落とされる。




 そんな中。




「…………」




 彼の視線を動かすのは、再び鳴り響く携帯の着信音。




 その画面に映るのは。




「(…………あぁ)」




 母の番号と。




「(何も……見たくない)」




 先生からのメッセージ。




 何十、何百と重なる受信の履歴。


 けれど、彼はその中身を一切見ようとはせず。




 携帯に触れることもなく、無気力に、時間だけをやり過ごす。




「(……どう、して…………)」




 そして。




 そのまま目を閉じ、深い眠りへと、就く。




* * *




「……ここは」




 目を開ければそこは。




 ヴェネツィア・マルコポーロ空港のメインゲート前。




「なんで、こんなところに……」




 意識はハッキリとせず、ただ、目の前の風景をぼんやりと眺める弟。




 すると。




「……あれって」




 彼が見つめた先。




「どうして……」




 そこには、空港の中から外へと向かって歩いてくる、一つの人影が。




「あぁ、そうだった」




 それは。




「招待したんだよ」




 そう、彼の姉でした。




「姉さんっ! こっち!」




 その姿を見た弟は。




「こっちこっちっ!」




 意気揚々と手を振っては、近づく姉に向かって大声で呼びかけます。




 そして。




「久しぶりっ! 姉さんっ!」




 ようやく面会できた、この瞬間。




「体調はどう? 元気だったっ?」




 姉の手を握り、笑顔で話しかけますが。




「…………」




 目の前の姉は、返事もせず、黙ってはその場に立ち尽くします。




「姉さん?」




 様子が変だと思った弟は、どこか体調でも悪いのかと心配し、再び姉に声を掛けた。




 その時でした。




「あなたのお姉さんは」




「っ!」




 姉の口から発せられたのは。




「お亡くなりになりました」




 知らない、男性の声でした。




* * *




「がはぁっ!!」




 大声を上げ、飛び起きる弟。




「はぁ……はぁ…………」




 身体中は汗をかき、動悸が激しく打たれる中、胸をおさえながら辺りを見渡すと。




「夢……か…………」




 そこには先ほどまで見ていたはずの空港はなく、あるのは大量の楽譜が変わらず散乱したままの部屋でした。




「いった……」




 虫が喰うような、じわじわとした痛みが頭の中で広がると、手で額をおさえては項垂れて。




「…………起きなきゃ」




 暫くした後、また、ゆっくりと起き上がる。




「いま、何時だ……?」




 どれくらいの時を過ごしていたか。


 それも分からないほど、泥のように眠りについていた。




 ふと、見上げた先に映った、時計の針が示していたのは。




「もうこんな時間……」




 既に夕刻を過ぎ、カーテンによって遮られた窓の外から差し込んでいたはずの光もほとんどなく、部屋の中はより闇へと染まりつつありました。




「なにか……食べるもの」




 飲まず食わずに何十時間もの間と寝ていた弟は、空腹を満たす為にと部屋の中にある冷蔵庫へ向かって歩き出した。




 その時。




「…………だれ?」




 突然と鳴り響く、呼び鈴の音。




 予期せぬ来訪者に、訝しげな表情を浮かべる彼は、玄関のほうへと足を向けます。




 そして、覗き窓からドアの外を見ると、そこにいたのは。




「母……さん?」




 彼の、母親でした。




「母さん、なんで……」




 日本からはるばる、異国の地であるイタリアにまで来た母親。ドアの外で待つ彼女の顔からは、とても重く、思い煩うような表情が見え、更には何かを祈るように、両手を胸の前で組んでは、じっと息子が出てくるのを待っていたのです。




「母さん、どうしてこんなところまで……」




 驚いた弟はすぐにドアを開けようとしましたが、チェーンを掛けていたことを忘れ、ドアは半開きの状態で止まってしまいます。




「あぁ、瀧っ!」




 ですが、彼の母はドアが開いた瞬間、すぐに彼の顔を見ようと空いた隙間から慌てて覗き込みます。




「あぁ、よかった……」




 息子が無事であることを確認した母。




 思わずその場で胸をなでおろすと、深く息を吐きます。




「ずっと連絡がつかなかったから、お母さん心配で……ここまで来たのよ」




 彼が姉の死を聞いてから、実に三日が過ぎ。


 大会会場を去った後も、すぐに弟の携帯には母親からの連絡が来ていたのだが、ショックのあまり弟は応じることをせず。


 息子の身に何かあったのかと心配になった母親が、こうして宿泊先のホテルにまで来ていたのでした。




「ねぇ、瀧。その……」




 連絡がつかなくなったことへの心当たり。




「お姉ちゃんのこと……」




「っ!」




 それはやはり、最愛の姉を失ったことだということを、母は知っており。




「そう、よね……?」




 目に涙を浮かべながら、宥めるよう扉の向こうにいる息子へ話し掛けますが。




「やめろ……」




 その話を耳にした途端。




「やめてくれっ!!」




 彼は頭を抱え、大声で叫びます。




「嘘だろ……嘘なんだろっ!?」




 その話は聞きたくないと。




「どうせ、みんなで揶揄っているつもりなんだろっ!?」




 目の前にいる母親に向かい。




「なんでそんなひどい嘘なんかつくんだよっ!!」




 喚き、騒ぎ、逃避する。




「違うの、瀧。嘘なんかじゃ」




「じゃあなんでみんな黙っていたんだよっ!!」




「そうじゃないの……これは、蓮が」




「本番の前日にだって!!」




「……ごめんなさい」




「あんなに元気に話せていたのにっ!!」




「本当に。ごめんなさい……」




「なんで急に死んじゃったりしたんだよっ!」




「…………」




 堰を切ったように、溢れ出る感情が、言葉とともに外へと出る。




「なんで……なんだよ…………」




 一度出てしまえば、もう誰にも止めることなど出来ず。




「頼むからさ……嘘だって、言ってくれよ……」




 それでも、言葉を受け止めてくれる者はどこにもなく。




 ただただ、沈黙だけが、流れゆく。








「……大会の優勝なんて、もういらない」






 そして。








「プロ契約なんて、そんなもの」




 一度切れてしまった想いは。




「もう、俺にはなんの、価値もない」




 繋がることなど二度となく。




「ピアノも全て、辞めてやる」




 希望も目標も、全て失った彼は。




「もう…………」




 これまで培ってきたものを。




「疲れたんだ」




 捨ててしまうのでした。




* * *




 それからというもの。




 彼は、イタリアから日本へと帰国しましたが、そこから実家へと帰ることはせず、東京で借りていた部屋で過ごしていました。




 ピアノを辞め、その後も何かをすることはなく。


 これまで勝ち積み上げてきた大会での賞金のみで食い扶持を繋ぎ、惰性で時間だけを過ごし。




 働くこともなく、無気力な生活をずっと。




 何年も、送り続けていました。




 そんな、ある日。




「…………誰だ」




 突然鳴り響く、呼び鈴の音。


 ベッドの上で寝ていた彼は、起き上がることすら面倒だと、表へ出ようともせずそのままやり過ごそうとしましたが。




「…………しつこいぞ」




 鳴り響く呼び鈴の音は、一度や二度などでは留まらず。




「……誰なんだっ!」




 けたたましく鳴り響く呼び鈴の音に、とうとう嫌気が差した彼は、来訪者の顔を見る為渋々玄関へと足を運びます。




 そして。




「……誰だ、お前達」




 玄関を開けた先。




「初めまして。右京瀧様」




 そこで、彼を待っていたのは。




「我々、政府より委託を受けた使いになります」




 黒服を着た、複数の役人たち。




「政府……?」




 全く身に覚えがない彼は、その怪しさに目の前の者達を睨みつけますが。




「まずはぜひ、こちらを……」




 そんな彼のことなどお構いなしにと、黒服の役人たちはある資料を渡します。




「……なんだ、これは」




 そこに書いてあったもの。




「”エレマ部隊入隊勧誘書”……?」




 それは、日本政府が計画を進めていた、エネルギー対策の施策内容でした。




「えぇ。この度、我々エレマ部隊は全国から有能な人材を求める為にと、こうして貴方をスカウトしに参りました」




 渡された資料に軽く目を通す彼を見ては、終始にこやかに話す役人たち。




「スカウト、だと?」




 ですが、あまりにもいきなりな話に、彼は強い警戒心を抱きます。




 すると。




「ご安心ください」




 そんな彼の反応に、役人たちはもう一つ、別の資料を渡します。




「特待、枠……」




「エレマ部隊。政府が打ち出した”エネルギー再生計画:エレマ”によって発足された、公認組織となります。今度、その本部基地でエレマ部隊員適性検査が行われるのですが、もしそこで合格された暁には、貴方様を特待枠としてご招待いたします」




「俺を……?」




「えぇ」




 さらに。




「もし、特待枠としての入隊が決まれば、その時は、貴方様が望むもの、環境全てを我々が整えて差し上げます」




 未だ懐疑的な彼に対して、役人たちは次から次へと言い寄ります。




「望む、もの?」




「はい。働かなくとも報酬は手に入ります。欲しい服や、物。名誉や地位など。全て」




「…………」




 こんな都合の良い話など、傍から見ればもっと怪しく思うはず。




 けれども。




「…………しい」




「なんです?」




「ゆっくり、休める場所が、ほしい」




 生きる目的も、目標も。




「何もせず、ただずっと」




 夢も希望も持っていない。




「静かに、過ごせる場所が、ほしい」




 そんな今の彼には。




「(もう、何も考えたくもない……)」




 そこまで考えるだけの気力も、ありませんでした。




「えぇ、もちろんです」




 彼の言葉を役人たちが、手を伸ばす。




 そして。




「(誰かの為に頑張るなんて……)」




 ゆっくりと、その手を掴もうと歩み寄る。




「(無駄なことを……)」




 そんな彼の心は。




「(もう、全てが……)」




 出口の見えない、薄暗い水底へと。




「(面倒だ……)」




 静かに、沈んでいくのでした。

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