「……もしもし? 姉さん、聴こえる?」
「-ええ、聴こえるわ。おめでとう、瀧-」
無事、弟は予選を突破することができました。
「ありがとう、姉さん。とは言っても、優勝まではまだ何回も勝たなきゃいけないけどね……」
今後はすぐ日本を飛び出し、控える大陸間予選に向けて準備を進めていかなければならなかった弟は、まだ大会は始まったばかりと気を緩めることはありませんでしたが、それでも、姉からの祝福に、電話口へと寄せる声は自然と弾ませていました。
「-それでも日本の代表に瀧が選ばれたんでしょ? すごいなぁ。今度は日本だけじゃなく、海外の人達にまで瀧のピアノが届くのね-」
弟の活躍に、姉も心から喜んでは、とても誇らしげになります。
「-ねぇ、瀧。次の本番はいつになるの?-」
「次? 次はまた一か月後に。今度は中国での開催に出る予定だよ」
「-そう。瀧、体調には気をつけてね-」
「ありがとう、姉さん。姉さんも、身体のほう、大事にね」
「-えぇ。ありがとう-」
弟が家を離れたあと、暫くは実家に帰れる機会があれば、その都度姉へ顔を見せてはいましたが、大会が始まってからは、多忙でほとんど帰省することはなく、二人が顔を合わせる機会も無くなっていました。
ですが、こうして連絡だけは定期的に取り合い、お互いの近況を話すことは出来ていました。
「じゃあ、姉さん。また今度連絡するね」
「-えぇ。また、いろんな話を聞かせてちょうだいね-」
「もちろん。じゃあ、ばいばい」
弟は再び、次の本番に向けて練習の日々を送ります。
予選を勝ち上がる度、曲の難易度は上がります。
要求されるレベルも、当然ながら予選とは段違いです。
国内のみの戦いから、世界との戦いへ。
何時間ものレッスンに、何時間もの練習。
寝ている暇さえなく。
弟は、身体を休めることもなく、勝つために。ただひたすらに練習を続けていきました。
そして。
「もしもしっ、姉さん? やったよ! 遂に本選まで通過したよっ!」
とうとう、弟は大陸間予選も通過し、遂に本場イタリアでの決勝の舞台にまで駒を進めました。
「-ほんとっ? すごいわぁ。これでもっともっと、瀧のピアノが世界中へと届くのね。お姉ちゃん、本当に嬉しい-」
もちろん、この時も弟はすぐに姉へ連絡をし、勝利の報告を伝え、姉も心を躍らせては、弟からの報告を大いに喜びました。
「-……ねぇ、瀧。次の本番は、またいつになるの?-」
そして再び、姉は弟へ本番の日程を尋ねます。
「次は二週間後にイタリアのヴェネチアでだよっ! ほらっ! そこに姉さんが話していた場所が!」
「-…………そう-」
ですが。
「……姉さん?」
ふと、その時。弟は電話越しの姉の声に違和感を覚えました。
「-ううんっ! なんでもないわ。そう、思っていたよりすぐなのね-」
しかし、すぐに姉は陽気な声で返事をすると、また話題を戻します。
「そうなんだ。だから、姉さん。本番まではまた暫く忙しくなるから、こうして連絡することは出来ないかもしれない……」
「-しょうがないわ。それだけ瀧が一生懸命に頑張っている証拠だもの。お姉ちゃん、遠くからでも応援してるね-」
「ありがとう。姉さん」
寂しそうに、申し訳なさそうに話す弟へ、優しく言葉を掛ける姉。
「それじゃ、また」
弟はそれに感謝をすると、次にまた連絡が取れる日まで、暫しの別れを告げました。
二週間後。
「ここが、イタリア……」
決戦を控えた弟は、遂にイタリアへと足を踏み入れます。
「ここで勝てば、姉さんの夢が……」
優勝すれば、ここに姉を招待することができる。
そして、かつて姉が話していた夢の場所へと連れ、その願いを叶えることができる。
もうあと少しで手が届くところまで来たことに湧き上がる実感。弟は溢れる希望を胸に、興奮で頬を紅潮し、目を輝かせました。
決勝前日。
明日に本番を控え、体調第一にとその日は練習をせず部屋で疲れを癒していた弟でしたが、久々にまとまった時間が取れた為、日本にいる姉に電話をすることが出来ました。
「姉さん、いよいよ明日だよ」
「-そうね。具合は大丈夫? 無理とか、緊張とかしてない?―」
「大丈夫だよ姉さん、心配しないで。いつも通り、姉さんにまで届くよう祈りながら演奏するから」
「-それならよかった。…………ねぇ、瀧。あのね-」
「優勝して、イタリアでの契約を決めて。そしたらっ! 姉さんをこっちへ招待して!」
「-……うん、そうね。お姉ちゃん、とっても楽しみ-」
「ここまで長い時間が掛かったけど、これで姉さんの夢が!」
「-…………ありがとう、瀧-」
「……姉さん?」
「-ううんっ、なんでもないの。瀧、明日は頑張ってね。お姉ちゃん、楽しみに待ってるね-」
「あぁ! ありがとう、姉さん。それじゃ、そろそろ寝る時間だから。また、明日」
「-…………えぇ。また、明日-」
大一番を前に緊張し、大きな不安を感じていた弟でしたが、これまで彼を支えてくれたのは、姉との定期的なやりとりのお陰でした。
いつでも快く迎えてくれた姉。
不安な時も、励ましの言葉を送り、優しく、暖かな応援を送り続けてくれた姉。
そんな姉のお陰で、ここまで。このイタリアの地まで辿り着けることができたと。
そう、胸の中で強く想いを噛み締める弟は。
勝って、歓喜の報告をと。強く胸に抱いて明日を待ちました。
迎えた決勝当日。
静まり返る会場の中、弟は控室で自分の番が来るのをじっと待ち続けていました。
そして。
「タキ・ウキョウ。出番です」
部屋を訪れる係員に、名を呼ばれます。
出番を告げられた弟は、意を決して控室を出ていきます。
舞台下手袖で、その時を待つ弟。
舞台上、その彼を待ち受けるのは、プロのオーケストラ。
ここまでの努力。自信。
そして、姉の願い。
その全てを、両手に乗せて。
* * *
「…………頼む」
本番を終えた後、弟は一人、会場のロビーに用意された椅子に座り、祈り続けていました。
積み重ねてきたもの全てを出し切ったと。
演奏はとっくに終わってもなお、緊張と興奮で震える両手を握り締め、何度も本番のことを振り返り、最良の結果が来ることを信じます。
姉の夢を叶える為、幼い頃から目指し、歩み続けてきた道。
その過程。何度も苦悩し、上手くいかず、時に挫折しそうになることも多く、その歩みを止めようとしたこともありました。
ですが、彼の心を支え続けてきたのは、姉の存在と、その願いがあったから。
「-ご来場の皆様へ―」
「っ!」
「-間もなく、結果発表を行います-」
運命の時が。
「-どうぞ、劇場内へお入りください-」
やってきました。
* * *
「はぁ……はぁ……!」
会場から外へと駆け出す弟。
「姉さん!?」
手には携帯を握りしめ、急いで姉へ連絡します。
「もしもしっ!? 姉さんっ!」
遂に、弟は成し遂げました。
「姉さんっ!! 俺、やったよっ!」
これで、夢が叶えられると。
幼い時から志し、ようやく果たすことができた約束。
「優勝したよっ! 優勝したんだっ!!」
プロになり、姉を現地へ招待することができると。
「遂に姉さんの夢がっ! 叶えられるよっ!」
大好きな姉の夢を。
叶えてあげることができると。
「-……もしもし。右京、瀧さん、ですか?ー」
その、はずでした。
電話越しから聴こえてきた声。
「…………え?」
それは、姉の声などではなく。
「わたくし、升田国立病院の、米倉と申します」
全く聞き覚えの無い、男性の声でした。
「突然のことで、困惑されているかと思われます」
突然、姉の番号から繋がったのは、知らない人物。
「貴方のお姉さん、右京蓮さんですが」
そして、その人物から弟へと告げられたのは。
「持病の悪化により、本日未明」
彼が大好きだった姉が。
「お亡くなりになりました」
この世を去ったという、知らせでした。