それからというもの。
姉との約束を叶えるため、より一層、弟はピアノの稽古に打ち込むようになりました。
練習を積んでは大会に出場し、大会に出てはまた練習を積み。
娯楽や遊びにも一切目を向けず、来る日も来る日も、一人ピアノと向かい続け。
ご飯を食べることすら忘れてしまうほど、ひたむきに、練習を重ねていきました。
そんな、ある日のことでした。
「……姉さん」
「ん? どうしたの?」
「実は俺……東京に住むことになったんだ」
「それは……ピアノで?」
「…………うん」
弟は今よりももっと上達するため、東京でも有名な先生へ師事を受けることになりました。
「そう……」
「でも、俺」
姉の夢を叶えるため。
「すごいことじゃない」
「でも俺、姉さんが」
そう心に決めていた弟でしたが。
それでも、姉を一人にさせることを、とても心配していました。
「それって……今よりもっと、瀧のピアノが多くの人達の下に届くってことでしょ?」
ですが。
「素敵なことじゃない。お姉ちゃん、瀧のピアノは沢山の人にも知ってほしいから」
そんな弟を、姉は応援し、笑顔で受け入れてくれます。
「瀧と離れるのはお姉ちゃんも少しだけ寂しいけど、行ってらっしゃい」
「姉さん……」
「大丈夫だから。ねっ、頑張って」
そして。
「……あぁ」
姉に励まされる弟は、掛けられる言葉に背中を押され。
「姉さん、俺。頑張るよ」
家を離れることを決意します。
* * *
「右京瀧です。これから、宜しくお願いします」
東京で出会った先生は、とても厳しい人でした。
ですが、指導の実力は確かで、師事を受け始めた弟の実力はすぐに目を見張るほど伸び、持って生まれた才は更に開花されていきました。
暫くして。
「え? 海外、ですか?」
東京での師事を受けてから何年か経った頃、弟は突然、海外での大会に出場しないかと先生から話を持ち掛けられます。
この頃には既に、彼は国内でのほとんどの大会で入賞を果たし、その名も広く知られ、多くの人に注目されるようになっていました。
「その、詳しく聴いても……」
先生が彼に話したこと。
海外では、夢を目指す若き音楽家たちへ向けて拓かれた大会が各地で催されていました。
そこでは、どれか一つでも。一度でも有終の美を飾ることが出来た者は、音楽家としての将来、名声を確約され、一流の世界へと踏み出すことができたのです。
「これって……」
彼が先生から渡された資料には、各国での開催される大会の内容、日程、予選から決勝までの課題曲などの詳細が載っていました。
先生も、彼の才能を買った上での進言でしたが、そこは、才能だけでは到底敵うことなどない世界。
過去にも、才能と努力を兼ね備えた有望な若き音楽家たちが挑んできたものの、夢叶わず、道半ばにして散っていった者は数知れず。
そのうえ、何回も再挑戦できるほどの機会もなく、想像もつかないほどの狭き門をくぐり続けなければならないほどに、それはとても過酷なものでした。
果たして自分に勝つ力なんてあるのだろうか、と。
そう、見えない大きな壁の連続を前に、先生からの提案を躊躇する弟でしたが。
「……っ!」
その時でした。
「(ここって……)」
弟が、ある写真を目にします。
「(確か、姉さんが言ってた……)」
その写真には、かつて姉が、弟へ語っていた夢の場所と同じ景色が映っていました。
「(まさかっ……)」
弟は目の色を変え、その写真が載っているページの大会を見ます。
「(ヴェネチア国際ピアノコンペティション……)」
そこに特集されていたのは、四年に一度しか開催されない、イタリアでの国際大会でした。
「先生っ、これ……!」
弟はすぐ、先生にこの大会について相談しました。
弟が目を付けたその大会では、毎優勝者に対し現地でのプロ契約が用意され、更には、親族を無償で招いたリサイタルの開催権などが与えられたのです。
「(ここで優勝できたら……姉さんの夢が……)」
出場に年齢制限が設けられてもいた大会。
機会はたったの一度キリでしたが、弟に迷いはありませんでした。
「先生、俺。この大会に出ます」
弟は、奮起しました。
初めて大会の資料を見たときは、何かの運命か、あるいは奇跡かとさえ思いました。
自分の姉が、目を輝かせて話してくれた夢の場所。
それが、優勝という先に、現実として手にすることが出来る可能性があるということに、大変興奮していました。
弟は、必死に大会へ向けての準備を始めます。
全ての課題曲を一通り調べ、研究し、どれが自分に合うのかを考え、選び、勝ち筋を立てていきました。
曲を決めてからは、とにかく練習、練習の毎日。
これまで以上に勝ちに拘り、与えられた課題を、要求を、質高く返していく。
毎日が、調子のいい日なんてことはありません。
指が上手く回らない。指先に張り巡らせる神経と、鍵盤に触れる感覚との僅かなズレが起こることもある。
苦しい想いをし、そのたびに焦り、自信が無くなりそうなこともありました。
何度、指先の皮がめくれたか分からない。
何度、白鍵を赤く染めたかも、分からない。
何度、台の上に置かれた楽譜がボロボロになったのかも、分からない。
倒れそうになりそうなくらい暑い日でも。
凍え、指先の感覚が分からなくなりそうなほど寒い日でも。
体調を崩し、高熱を出した日でさえも。
弟は、一日たりとも決して練習を止めることなく、何かに取り憑かれたかのように。
ただ、ひたすらに。鍵盤の上に、指を動かし続けました。
まもなくして、大会の予選が始まりました。
いくつもの予選のうち、初めの二回は国内会場での開催によるものでしたが、それでも、会場には多くの出場者たちが集っていました。
ここから多くの者が振るいにかけられる。
ここに至るまでに費やしてきた何百時間という努力が、いざ舞台の上になれば、ものの数十分で終わってしまう。
一つのミスが、全てを台無しにすることだって十分にあり得ること。
これまでにない緊張と重圧が、弟に襲い掛かってきます。
それでも弟は、夢を叶える為に。
全てを賭け、その両手に乗せ、舞台へと上がりました。