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第15話 毛利綾瀬の体験記:3

「悪魔……魔王……」

 無意識に綾瀬は呟いた。長い耳を触る。こんなものが生えても、通常の何倍もある狼に襲われても、自分は自覚していなかったのかもしれない。ここが、魔王なるものが居てもおかしくない異世界だと。

「そりゃ、ここが誰かを殺しても罪にならない世界なのは分かってるよ。皆、当たり前に気に食わないやつを殺してる。でも、バニーはそういうの……血とか、死とか苦手なんだよね」

 アナの昏い目の中に寂寥感が混じる。その直後、彼女は笑顔で顔を上げた。

「何か、話が脱線しちゃったね。関係無いよね。包丁やナイフなら持って来られたんだから。言い訳にならないよね。ごめんね」

「もういいわよ。それで、もう一つ訊きたいんだけど……ここのモンスターって、喋るの? 名前もあるの?」

「ん? そりゃ喋るし名前もあるよ。モンスターっていうのがウェアウルフみたいな種族のことならね」

 当然という笑顔でアナは答えた。綾瀬はその表情に違和感を覚える。血とか死ぬとか苦手だと言っていたのに、ウェアウルフを殺したことには何も感じなかったのだろうか。あまりにも、あっけらかんとしている。

「喋れない種族の方が珍しいし、だとしても、何かの方法で意思疎通はしてると思うよ」

「そういう……自我がありそうな生き物を殺すことについては何も思わないの?」

「え?」

 アナはきょとんとした顔をした。綾瀬の真剣な面持ちを前にしても様子は変わらない。

「だって、自我の無い種族なんてないじゃん」

「そう……なの……?」

「そうだよ。そんなこと気にしてたら、襲われた時に相手を殺せないじゃん。さっきだって殺されてたよ」

「…………」

 血や死が苦手と言っていたが、やはり人間とは価値観が違うらしい。否――人間もこんなものだっただろうか。

 そう厭世気味に思った時、遠くの方から狼の遠吠えが聞こえた。心臓と肩がびくっと跳ねる。アナも顔を僅かに強張らせている。

 二人が動けなくなっている間にも、狼の声は近付いてくる。複数だ。

 最初のうぉおおーん……という遠吠えに近い声には、確かに悲哀と慟哭があった。今聞こえている短い吠え声には怒りがある。

(そこは喋らないんだ……)

 場違いな感想が脳裏を過ると、「兎の匂いがするぞ!!」という言葉が響く。喋った。

「アナ……!」

「逃げよう!」

 恐怖と共に縋るような小声で振り返ると、アナは枝の上に立ち上がっていた。

「あっち!」

 彼女が指差す先に、綾瀬が座っているのと同じ、ハート型の葉をつけた木があった。ここからかなり距離がある。

「飛び移れそうな距離ぎりぎりだけど!」

 アナは出来るだけ膝を曲げ、次の木の枝にジャンプした。しかし、枝に足はつかず、落ち――る瞬間、ぎりぎりで枝を掴んでぶら下がる。

「綾瀬! 早く!」

「…………!」

 揺れる枝に、折れるのではないかと躊躇していると、アナは先程と同じ要領で枝に乗って、次の木を探すように片手を庇にして周囲を見回している。

「近いぜ!」

「この辺だ!」

 話し声と獣の吠え声がすぐ近くまで迫っている。自分は並外れたジャンプ力を持っているらしい。枝に乗るのは容易いだろう。ただ――

 足を踏み切り、一気に身を躍らせる。

「いたぞ!」

「兎だ!」

 怒気に塗れた複数の声が耳に刺さり、恐怖が脳を貫いた。何とか目的の枝に着地した時、足の下でばきっという音がした。支えを失った体が一瞬だけ宙に浮き、落下していく。

 ただ――折れるような気がしたのだ。

 悲鳴を上げて落ちるアナを隣に、綾瀬は何故かやっぱり、以外考えられなくなっていた。

「綾瀬、回って!」

 アナは空中で一回転し、勢いを殺して着地する。

(は!?)

 突然言われて対応できるわけがない。綾瀬は体操選手ではないし、今更言われても回転を始める頃に頭を強打して転生終了だろう。

(死ぬ……!)

 強く目を閉じて衝撃に備える。きっと自分は潰れる。スタジオで刺された時とは比較にならない痛みだろう。

「…………! あっ……!!」

 だが、そうはならなかった。巨大な手が綾瀬を掴む。追跡してきた彼等は二本足で立っていた。自重の支えに両腕は必要としないらしい。

(く、くるし……)

 体の真ん中から握りつぶされていく感覚に、悶えるしかない。だが、腰の骨が折れると確信した時に銃声がした。直後、頭上から悲鳴がして圧迫から解放される。土の上に落ち、見上げると、ウェアウルフは左胸を押さえて苦悶していた。やがて仰向けに倒れ、周囲に土埃を舞わせる。

 綾瀬と、残った四体の狼達が沈黙して死体を見下ろす。呆然としたまま十秒程が経った頃、綾瀬はやっとアナに目を遣った。片膝立ちで、こちらに銃を向けている。

「そいつだ!!」

 雄々しい声が轟いた。これまでにない大音声に、空気が震える。綾瀬は身を強ばらせた。

 一際大きい体躯のウェアウルフが、アナに指を突き付けている。全員の視線が、死体から彼女へと移った。狼達はもう意識を綾瀬に向けていない。

「そいつが息子達を殺した!」

 再び狼が吠える。

(今なら……)

 銃を持つアナが注目されている今なら、綾瀬は逃げられる。全速力で走ってプログラスの門まで戻り、中に入れてもらえればきっと助かる。

 落ちた時の体勢のままでいた綾瀬は、少しずつ体を動かしていった。誰も喋らない沈黙の中、草が擦れる音がする。だが、振り向かれることはなかった。

「やれ!」

 立ち上がろうと足に力を込めた時、号令と共に四体のウェアウルフが一斉に地を蹴った。飛びかかってくる大量の爪と牙が迫ってきても、アナは逃げようとしなかった。銃を構えたまま、動かない。

「何で……!?」

 表情が焦りで歪み、両腕が何度も曲げ伸ばしされる。弾が無いのだ、と綾瀬は気付いた。

「何で……何で!?」

 恐慌を来したアナに、鋭い爪が振り下ろされる。

「危ない!」

 守らなきゃと思って片手を伸ばした時、『金属同士がぶつかり合うような音』がして狼達の爪が弾かれる。

「……!」

 今度は何が起きたのかはっきりと見えた。透明のガラスドームのようなものがアナを囲んでいる。それが、粒子となって消えていく。

「何だ……!?」

 ウェアウルフ達の一体が驚愕の声を漏らす。

「綾瀬、ありがとう!」

 心から安堵した表情でアナが叫ぶ。純粋にお礼を言っただけなのだろうが、それは明らかな失敗だった。

「あいつがバリアーを……?」

 眉間に皺を寄せた二足歩行の巨大狼達が振り返る。アナと彼等の態度で、ガラスドームは自分が造ったのだと悟ることができた。同時に、子狼の攻撃もあれで防いだのだと理解する。

 バリア―という呼び方がダサいと考える暇も無かった。息子達を殺されたウェアウルフが大音声で指示を出す。

「あの女を先に殺せ、面倒だ!」

 狼達が雄叫びを上げ、高速で綾瀬に詰め寄ってきた。鋭い爪を持つ手が振り上げられる。

「イヤ!」

 綾瀬は透明で硬質なそれ――壁を出した。どうすれば良いのかは分からなかったが、とにかく念じた。

 複数の爪が阻まれ、跳ね返る。直後に壁は砕けて消えていく。

(! もう一度……!)

 壁を出し直そうと意識した時、背中に熱い痛みを感じた。正面から来る狼達に気を取られ、背後に注意を向けていなかった。

「……っ!」

 背から血を噴き出して倒れながら、綾瀬は自分を見下ろす狼を見た。憎しみに満ちた眼をしている。アナの方を見ると、怯え切った様子で震えていた。それが何かに気付いたような顔になり、踵を返して走り出す。

「……………………」

 彼女の行動の意味を察したが、綾瀬は何も思わなかった。心が無になったように、何も思えない。

 ただ、この感覚は記憶にあるな、と、それだけ感じた。二度目の経験だ。アシスタントディレクターの彼に刺された時と同じ――

 そう思った瞬間、全身が刺され裂かれる激痛を覚えた。

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