「悪魔……魔王……」
無意識に綾瀬は呟いた。長い耳を触る。こんなものが生えても、通常の何倍もある狼に襲われても、自分は自覚していなかったのかもしれない。ここが、魔王なるものが居てもおかしくない異世界だと。
「そりゃ、ここが誰かを殺しても罪にならない世界なのは分かってるよ。皆、当たり前に気に食わないやつを殺してる。でも、バニーはそういうの……血とか、死とか苦手なんだよね」
アナの昏い目の中に寂寥感が混じる。その直後、彼女は笑顔で顔を上げた。
「何か、話が脱線しちゃったね。関係無いよね。包丁やナイフなら持って来られたんだから。言い訳にならないよね。ごめんね」
「もういいわよ。それで、もう一つ訊きたいんだけど……ここのモンスターって、喋るの? 名前もあるの?」
「ん? そりゃ喋るし名前もあるよ。モンスターっていうのがウェアウルフみたいな種族のことならね」
当然という笑顔でアナは答えた。綾瀬はその表情に違和感を覚える。血とか死ぬとか苦手だと言っていたのに、ウェアウルフを殺したことには何も感じなかったのだろうか。あまりにも、あっけらかんとしている。
「喋れない種族の方が珍しいし、だとしても、何かの方法で意思疎通はしてると思うよ」
「そういう……自我がありそうな生き物を殺すことについては何も思わないの?」
「え?」
アナはきょとんとした顔をした。綾瀬の真剣な面持ちを前にしても様子は変わらない。
「だって、自我の無い種族なんてないじゃん」
「そう……なの……?」
「そうだよ。そんなこと気にしてたら、襲われた時に相手を殺せないじゃん。さっきだって殺されてたよ」
「…………」
血や死が苦手と言っていたが、やはり人間とは価値観が違うらしい。否――人間もこんなものだっただろうか。
そう厭世気味に思った時、遠くの方から狼の遠吠えが聞こえた。心臓と肩がびくっと跳ねる。アナも顔を僅かに強張らせている。
二人が動けなくなっている間にも、狼の声は近付いてくる。複数だ。
最初のうぉおおーん……という遠吠えに近い声には、確かに悲哀と慟哭があった。今聞こえている短い吠え声には怒りがある。
(そこは喋らないんだ……)
場違いな感想が脳裏を過ると、「兎の匂いがするぞ!!」という言葉が響く。喋った。
「アナ……!」
「逃げよう!」
恐怖と共に縋るような小声で振り返ると、アナは枝の上に立ち上がっていた。
「あっち!」
彼女が指差す先に、綾瀬が座っているのと同じ、ハート型の葉をつけた木があった。ここからかなり距離がある。
「飛び移れそうな距離ぎりぎりだけど!」
アナは出来るだけ膝を曲げ、次の木の枝にジャンプした。しかし、枝に足はつかず、落ち――る瞬間、ぎりぎりで枝を掴んでぶら下がる。
「綾瀬! 早く!」
「…………!」
揺れる枝に、折れるのではないかと躊躇していると、アナは先程と同じ要領で枝に乗って、次の木を探すように片手を庇にして周囲を見回している。
「近いぜ!」
「この辺だ!」
話し声と獣の吠え声がすぐ近くまで迫っている。自分は並外れたジャンプ力を持っているらしい。枝に乗るのは容易いだろう。ただ――
足を踏み切り、一気に身を躍らせる。
「いたぞ!」
「兎だ!」
怒気に塗れた複数の声が耳に刺さり、恐怖が脳を貫いた。何とか目的の枝に着地した時、足の下でばきっという音がした。支えを失った体が一瞬だけ宙に浮き、落下していく。
ただ――折れるような気がしたのだ。
悲鳴を上げて落ちるアナを隣に、綾瀬は何故かやっぱり、以外考えられなくなっていた。
「綾瀬、回って!」
アナは空中で一回転し、勢いを殺して着地する。
(は!?)
突然言われて対応できるわけがない。綾瀬は体操選手ではないし、今更言われても回転を始める頃に頭を強打して転生終了だろう。
(死ぬ……!)
強く目を閉じて衝撃に備える。きっと自分は潰れる。スタジオで刺された時とは比較にならない痛みだろう。
「…………! あっ……!!」
だが、そうはならなかった。巨大な手が綾瀬を掴む。追跡してきた彼等は二本足で立っていた。自重の支えに両腕は必要としないらしい。
(く、くるし……)
体の真ん中から握りつぶされていく感覚に、悶えるしかない。だが、腰の骨が折れると確信した時に銃声がした。直後、頭上から悲鳴がして圧迫から解放される。土の上に落ち、見上げると、ウェアウルフは左胸を押さえて苦悶していた。やがて仰向けに倒れ、周囲に土埃を舞わせる。
綾瀬と、残った四体の狼達が沈黙して死体を見下ろす。呆然としたまま十秒程が経った頃、綾瀬はやっとアナに目を遣った。片膝立ちで、こちらに銃を向けている。
「そいつだ!!」
雄々しい声が轟いた。これまでにない大音声に、空気が震える。綾瀬は身を強ばらせた。
一際大きい体躯のウェアウルフが、アナに指を突き付けている。全員の視線が、死体から彼女へと移った。狼達はもう意識を綾瀬に向けていない。
「そいつが息子達を殺した!」
再び狼が吠える。
(今なら……)
銃を持つアナが注目されている今なら、綾瀬は逃げられる。全速力で走ってプログラスの門まで戻り、中に入れてもらえればきっと助かる。
落ちた時の体勢のままでいた綾瀬は、少しずつ体を動かしていった。誰も喋らない沈黙の中、草が擦れる音がする。だが、振り向かれることはなかった。
「やれ!」
立ち上がろうと足に力を込めた時、号令と共に四体のウェアウルフが一斉に地を蹴った。飛びかかってくる大量の爪と牙が迫ってきても、アナは逃げようとしなかった。銃を構えたまま、動かない。
「何で……!?」
表情が焦りで歪み、両腕が何度も曲げ伸ばしされる。弾が無いのだ、と綾瀬は気付いた。
「何で……何で!?」
恐慌を来したアナに、鋭い爪が振り下ろされる。
「危ない!」
守らなきゃと思って片手を伸ばした時、『金属同士がぶつかり合うような音』がして狼達の爪が弾かれる。
「……!」
今度は何が起きたのかはっきりと見えた。透明のガラスドームのようなものがアナを囲んでいる。それが、粒子となって消えていく。
「何だ……!?」
ウェアウルフ達の一体が驚愕の声を漏らす。
「綾瀬、ありがとう!」
心から安堵した表情でアナが叫ぶ。純粋にお礼を言っただけなのだろうが、それは明らかな失敗だった。
「あいつがバリアーを……?」
眉間に皺を寄せた二足歩行の巨大狼達が振り返る。アナと彼等の態度で、ガラスドームは自分が造ったのだと悟ることができた。同時に、子狼の攻撃もあれで防いだのだと理解する。
バリア―という呼び方がダサいと考える暇も無かった。息子達を殺されたウェアウルフが大音声で指示を出す。
「あの女を先に殺せ、面倒だ!」
狼達が雄叫びを上げ、高速で綾瀬に詰め寄ってきた。鋭い爪を持つ手が振り上げられる。
「イヤ!」
綾瀬は透明で硬質なそれ――壁を出した。どうすれば良いのかは分からなかったが、とにかく念じた。
複数の爪が阻まれ、跳ね返る。直後に壁は砕けて消えていく。
(! もう一度……!)
壁を出し直そうと意識した時、背中に熱い痛みを感じた。正面から来る狼達に気を取られ、背後に注意を向けていなかった。
「……っ!」
背から血を噴き出して倒れながら、綾瀬は自分を見下ろす狼を見た。憎しみに満ちた眼をしている。アナの方を見ると、怯え切った様子で震えていた。それが何かに気付いたような顔になり、踵を返して走り出す。
「……………………」
彼女の行動の意味を察したが、綾瀬は何も思わなかった。心が無になったように、何も思えない。
ただ、この感覚は記憶にあるな、と、それだけ感じた。二度目の経験だ。アシスタントディレクターの彼に刺された時と同じ――
そう思った瞬間、全身が刺され裂かれる激痛を覚えた。