ミーシャはマーヴィンの腕にそっと抱かれ、馬の揺れに合わせて軽く上下するたび、二人の体が密着するのを感じていた。
ミーシャは目を逸らそうとするが、息をするたびにマーヴィンの微かな香りが鼻をくすぐり、心臓が自分の意思とは無関係に早鐘を打つ。
たぶん、聞こえてしまっているだろう。自分の胸が、彼の胸に触れるくらい近いのだから。けれど、離れようとする気持ちとは裏腹に、どこか安心感すら覚えている自分がいる。
「ミーシャ、平気か?」
「は……はい」
ミーシャは声を震わせないよう返事をするが、心の奥ではすでに彼の温もりに包まれ、自分の感情が抑えられなくなりそうだった。マーヴィンと向き合えば、お互いの息が頬に触れるほどの距離。ミーシャは自然と頬が熱を帯びるのを感じる。
「よ、熱いね、お二人さん!」
突然、横を駆け抜けるケンネスの声に、ミーシャは思わず顔を赤くしてうつむく。その後ろからリオネルが、
「マーヴィン様に向かってなんて口の利き方だ!」
と追いかけていく。二人がじゃれ合いながら駆けていく様子に、ふと微笑みがこぼれる。心のどこかで、今のこの時間が平和であることに不思議な気持ちすら覚えていた。今にも戦場へと向かうとは思えないほどに。
その時、ミーシャの耳元に、甘く低い声が響いた。まるで彼の息が耳に触れるような距離で――マーヴィンだ。
「怖いか?」
彼の声には心配がにじんでおり、そして優しい。彼には、ミーシャの心臓の音が恐怖のせいだと思えたのだろう。彼の勘違いに、ミーシャはかすかに笑みを浮かべる。唇を震わせながら、彼の言葉を遮り、小さな声で答えた。
「それは……あなたが、こんなに近いからです」
その瞬間、ミーシャの心臓がドクンと跳ね、彼の胸元に伝わっただろう。それと同時に、彼の心臓も不規則なリズムで打ち始めたのを感じた。ミーシャはその音に、少し安心した。
「……そんな風に言われると……」
マーヴィンは微かに息を呑む。彼の目は柔らかく揺れ、はちみつを溶かしたように優しい色が宿っている。彼がさらに何かを言おうと口を開く前に、彼らの世界が一瞬、静寂に包まれた。
「ミーシャ様に、せめて計画の説明は必要ではないでしょうか」
いつの間にか戻ってきていたリオネルが、ミーシャとマーヴィンの間の甘い空気を打ち破る。
「リオネル……」
マーヴィンがうんざりした、というような態度を声ににじませる。
ミーシャは不思議な感覚に包まれていた。せっかくの一瞬を邪魔されて残念な気持ちがある一方で、どこか安堵している自分もいた。
「まあ、確かに説明は必要か」
マーヴィンはリオネルの空気の読めなさに慣れているらしく、軽く肩をすくめると、冷静な表情で考えを切り替える。そして、再びミーシャに向き直った。
「次の休憩の時に、説明しよう」
彼の声が真剣な響きを帯びると、彼らの視線は再び同じ方向へと向けられた。エルビアータ王国とアゼリア王国の国境は、もうすぐそこだった。
小さな泉のほとりで、マーヴィンとミーシャは馬に水を飲ませながら一息ついていた。水面は静かに風に揺れ、草の間から射し込む日差しが、二人の影を長く映し出している。
ミーシャは深く息を吸い込み、緊張で乾いた唇を軽くなめると、マーヴィンの方に意識を集中させた。彼は穏やかな顔つきだが、その目には沈み込んだような暗い光が宿っていた。
マーヴィンは馬の鬣を指で梳きながら、低く落ち着いた声で語り始める。
「ここエルビアータ王国は、かつてアゼリア王国のものだったんだ。長い歴史の中で失われたが、俺たちにはまだその記憶が残っている。そして…俺たちにはそれを蘇らせるための力もある」
そう言いながら、彼はミーシャの薬指に嵌められた指輪に視線を落とす。指輪には、月明かりを封じ込めたような青白い光がかすかに宿っていた。それは静かな力を秘めているかのようで、ミーシャは思わず指輪を見つめた。
「それもそうだ。この『龍の涙』…アゼリア王国の古代遺跡で発掘された、唯一無二の遺物だったんだ」
「龍の涙…」
硬い指輪に過ぎないはずなのに、その名が持つ意味深さと重厚感に、ミーシャの胸の奥がざわつく。
マーヴィンは再び遠くを見つめ、重くも静かな声で続ける。
「アゼリア王国はこの地を取り戻し、俺の手であの国を……」
彼の言葉に、ミーシャの背筋が冷たいものに包まれたように震えた。
——俺の手であの国を。
その先は言うまでもない。
何が彼をそこまで駆り立てているのか、彼の瞳の奥底には、複雑で深い傷跡が刻まれているようだった。だがそれを探るように彼の目を見つめても、ミーシャには真意を掴むことができない。
と、その時、ケンネスの鋭い声が静かな空気を裂いた。
「王子は、エルビアータ王国の国民ごと、消し去るつもりなんですね~」
その冷ややかな言葉に、マーヴィンの手がわずかに震えるのが見えた。だが彼は何も答えず、ただ強張った表情で地面を見つめている。
「……ケンネス、少し黙れ」
リオネルがケンネスを睨み、鋭い口調で制する。
ミーシャは二人のやり取りを目にし、複雑な思いが胸を満たした。マーヴィンの心にある復讐の炎は、ただの怒りだけではない。彼の言葉の裏には、悲しみと葛藤が潜んでいるのを感じ取っていた。しかし、何かが彼を突き動かし、エルビアータ王国の完全な消滅という道に突き進ませている。
彼は本当に、これを望んでいるのだろうか――ミーシャの心にそんな疑問が浮かんだが、答えはマーヴィンの中にしかない。彼女は一瞬、彼に尋ねようとしたが、その強くも儚い表情を見て、言葉を飲み込んだ。
「それで、どうやってアゼリア王国の正当性を示すのですか?」
マーヴィンはやっとその暗い顔を上げ、ミーシャの手元を指さす。
「遺跡だ。俺たちにはその正当性を示す力がある。……それも、ミーシャが力を貸してくれるのならより確実に」
マーヴィンの鋭い視線が、ミーシャを捕まえて離さない。
「……頼む、アゼリア王国を救ってくれ」