「頼む、我がアゼリア王国を救ってくれ」
マーヴィンは跪き、ミーシャの手の甲に口づけを落とす。その行動は、あまりに突然だった。
「え、えええええええ!?」
ミーシャは反射的に悲鳴を上げた。
驚きと戸惑いが爆発し、脳の処理が追いつかない。
アル以外の男性とこんなに近くで触れ合うなんて、一度もなかった。
しかも、少しいいなと思っていた相手に手の甲とはいえキスをされるなんて——そんな状況に、どう反応していいかなんて全く分からない。
「な、なんで急にキスなんて……!」
ミーシャは震える声で言うと、マーヴィンの手を反射的に振り払った。顔が熱くなり、真っ赤になるのを感じる。
マーヴィンはそんなミーシャの反応に戸惑い、両手を挙げて後ずさった。
「誓いのキスが必要だと思って……」
「ち、誓いのキス……!」
ミーシャの頭の中で、教会の鐘がリーンゴーンと鳴り響き始める。そして、目の前でマーヴィンと自分が結婚する場面が浮かんでは消える。
「いつ、私たちが結婚を……!?」
「いや、違う! どういう誤解をしてるんだ!?」
マーヴィンは、額に汗を浮かべながらミーシャに向かって手を振った。
「エルフに頼るときの儀式だと聞いていたんだが、違うのか?」
マーヴィンの瞳は不安げに揺れている。
本物のエルフならば、その儀式はすぐに理解できたのだろう。しかし、ミーシャは流浪の民として育ったエルフとは違う。
「儀式……」
ミーシャはどこかほっとしたような、残念なような気持ちでいっぱいだ。
「エルフのことは正直、よくわかってない。無礼があったなら、いや、無礼ばかりだろう。それでも、アゼリア王国に力を貸してほしいんだ」
「……そう言われても」
「エルフの強大な魔法は、必ずカギになる。だから」
ミーシャはマーヴィンの言葉を手で遮った。彼の期待が痛いほど伝わる中で、ずっと言えずにいた言葉をようやく口にする。
「私、魔法が使えないの」
「え?」
その瞬間、マーヴィンの表情が凍りついた。
アルはマーヴィンの足跡を追って森の中を駆け回った。
しかし、足跡はすぐに消え、方向を見失ってしまう。辺りに目を凝らしても、風に吹かれた葉や土の乱れがあるだけで、マーヴィンの行方を示す手がかりは何もない。
「くそ……!」
頭の中に浮かぶのは、ミーシャの満面の笑みやあのやわらかい金色の髪の毛ばかりだ。
なんとしてでも、ミーシャを助けなくてはならない。
アルは追跡魔法を試そうと足跡に手をかざすが、どうしても魔力がうまく集まらない。魔法陣を描く前に、魔力が宙で霧散してしまう。焦る気持ちが、魔力の集中を妨げているのだろうか。
「なんで……、なんでだよ!」
心の中で何度も自問しながら、魔法の発動に苦戦するアル。目の前で消えかける光の糸を掴もうと必死に試みるが、すり抜けていくばかりだ。焦りが募り、手は震え、汗が額を伝う。
「頼む……頼むから、動けよ……!」
だが、魔法は発動しない。
「くそ……!」
アルは指先を食い破り、自身の血で地面に魔法陣を描く。しかし、それでも魔法はせず、沈黙を守っていた。
「どうしたって言うんだよ」
そんなアルを天すらも見放したのか、雨がしとしとと降り始めた。
アルは濡れた地面に立ち尽くす。降り始めた雨がアルの頬を冷たく打った。指先から滲む血も、雨に流されて淡く広がっていく。
雨音が一層強くなり、アルの周りの風景が徐々に溶けていくように見えた。もう全てが終わりなのかという絶望が胸に広がる。しかし、心のどこかで諦めたくないという声がかすかに響いていた。