「……ミーシャ?」
アルは、胸の中に漠然とした不安が渦巻くのを感じて、はっと目を覚ました。
何かが起きている——そんな確信が脈打つようにアルを突き動かしていた。心臓は異常な速さで鼓動し、喉元まで跳ね上がるような感覚に襲われる。
暗闇に包まれた部屋は妙に静かでかえって不気味だ。まるで、何かが壊れる前の、嵐の前の静けさのように。
小声で呪文を唱え、ろうそくに火を灯す。炎がパチパチと音を立て、影が揺れる。アルは耳をすませ、聞き慣れた微かな足音や、ミーシャの寝息を期待していたが——何も聞こえない。ギシギシと階段のきしむ音が、ただ妙に大きく耳に残る。
不安が喉を締め付ける。ミーシャの部屋へ向かう足は自然と早まっていた。
「ミーシャ」
ノックの音がやけに響く。だが、部屋からは何の反応も返ってこない。心の中に、冷たい鉛のような恐怖が沈んでいく。
アルは冷静さを保とうとするが、指先が震えているのに気付いた。扉のノブを掴むと、慎重に、だが素早く扉を押し開けた。
——ベッドは乱れているが、そこにミーシャの姿はない。
「ミーシャ!!」
その瞬間、アルの中で何かが切れた。彼の叫びは家中に響き渡った。すぐさま、マーヴィンの部屋へと向かい、扉を蹴破るようにして開ける。だが、そこにもマーヴィンの姿はない。月明かりがベッドの上に揺れているだけ。
無言の中で、アルは窓へと目を向けた。開いたままの窓。冷たい風が入り込み、カーテンが幽霊のように揺れている。その下、地面には足跡がかすかに残っていた。
アルは喉が詰まる思いだった。恐怖と怒りがない交ぜになり、彼の体を支配していた。
「待ってろ、ミーシャ!」
その言葉は、誓いのように彼の口から飛び出した。二階の窓からためらいもなく飛び降り、荒々しい息を吐きながら、足跡を追って闇の中へと駆け出す。
「離して! 離してよ!」
ミーシャの叫びが夜の森に響く。必死に暴れるが、マーヴィンの腕は硬く、ミーシャの体をしっかりと抱え込んでおり無意味だった。冷たい風が頬を切るように吹きつけ、ミーシャはただ無力感打ちひしがれていた。
「アル兄さん……助けて……」
そう呟き、ミーシャは抵抗を諦め、涙をこぼす。
その涙はマーヴィンの腕に流れ落ちる。
しかし、マーヴィンはちらりとミーシャを見ただけで、一切足を止めない。その息は荒く、マーヴィンの全身から焦燥感が伝わってくる。
「どうしてなの、マーヴィン……」
ミーシャは怒りのにじんだ声で問いかける。信じていたはずのマーヴィンが、今はまるで別人のように見える。彼女の心は引き裂かれるような思いでいっぱいだった。
「黙れ、舌を噛むぞ」
冷たい声。マーヴィンの顔は険しく、瞳の奥に何か固い決意が浮かんでいた。
その瞬間、マーヴィンが目の前の倒れた大木を見事に飛び越える。ミーシャの体が宙に浮く。重力が一瞬消えたかのように感じ、胸が縮み上がるような衝撃が襲った。
「きゃあっ!」
ミーシャは思わず悲鳴を上げ、マーヴィンの体にしがみつく。すると、マーヴィンはミーシャの体を抱きなおす。
「大丈夫か?」
「う、うん……」
優しい声にますますミーシャはマーヴィンのことが分からなくなる。
この人は自分を何のために連れていくのだろう。こんな乱暴なことにも、理由があるのかもしれない。
「ど、どうして私を連れ行くんですか……?」
ミーシャは震えながら、マーヴィンに問いかける。
「君はエルフなんだろ。頼む、俺に力を貸してくれ」
その突然の言葉に、ミーシャは息を飲んだ。
「……えっ?」
つまりこれは——彼女が自ら正体を明かしてしまったせいだ。
「エルフ」という言葉が、頭の中でこだまする。愚かだった。アルの忠告を無視してしまった自分が、ここにいる。この状況は、自分で招いたのだと、ミーシャは思わず震えた。喉の奥に詰まった後悔が、彼女の胸を重く圧迫する。
「エルフだからって、何をしてほしいって言うんですか? 私は何もできません……」
「エルフは魔法が得意なはずだ」
するとマーヴィンはミーシャを地面に下ろす。
そしてミーシャの手を取り、口づけを落とす。
「頼む、我がアゼリア王国を救ってくれ」