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006 日常の壊れる音

「わあ、なんかドキドキしたぁ」


 ミーシャは、心の中で小さな高揚感を隠しきれなかった。

 恋に恋する年頃の彼女だが、ここは人里離れた湖のほとり。おまけに自分はハーフエルフ。出会いなど期待できるはずもなく、日々は静かに過ぎていた。


 そんな時に現れたのが、マーヴィンだった。

 濡羽色の黒髪に、整った顔立ち、切れ長の赤い瞳、そして甘く低く響く声。

 アル以外の男性を知らないミーシャにとって、マーヴィンの存在は強烈だった。


 マーヴィンと会うたびに、胸の奥が不思議な感覚でざわつく。それが何なのか、ミーシャ自身もまだわからない。ただ、その感情に少し戸惑いながらも、どこか期待している自分がいることに気づいていた。


「ミーシャ」


アルの声が、冷や水を浴びせるように響く。彼女は驚いて振り返る。


「それは無邪気じゃない。迂闊って言うんだよ」

「何? 急に?」


 アルがミーシャに詰め寄る。その強引さに思わず一歩後ずさるが、背中はすぐに壁にぶつかる。これ以上逃げ場はない。


「知らない男に、そんな風に心を開くことがだよ」

「そんな…きっとマーヴィンは悪い人じゃないよ」

「じゃあ、俺と比べてみたら?」

「え?」


 アルは壁に片手をつき、彼女を逃がさない。アルの顔が急に近づき、低い声が耳元で囁かれる。今まで聞いたことのない、抑えた声。


「俺と比べて、マーヴィンは悪い人? それともいい人?」


 ミーシャの全身に、ぞわりとした感覚が走る。だが、それは嫌悪とは少し違う。

 目を逸らそうとする彼女の頬を、アルが優しく抑え込む。


「答えて」


 その言葉は鋭く、逃れられない。ミーシャの声が震える。


「悪い人……」


 そう答えると、アルは満足したように、いつものように彼女の頭をワシャワシャと撫でた。


「なあ、ミーシャ。俺はお前が心配なんだ。わかってくれるよな?」


 ミーシャは不思議な胸の高鳴りを抑えようとするが、どうしても抑えられない。脳みそは甘くしびれたようで、まともな思考をしてくれない。


 だから、ミーシャは間違えた。きっとそう。


 ミーシャはアルの目を盗み、深夜にマーヴィンの部屋の前に立つ。


「マーヴィン、マーヴィン」


 囁くような声で呼びかけると、ミーシャはマーヴィンの部屋のドアを開ける。

 その瞬間、マーヴィンはミーシャの口を塞ぐ。


「なんだ小賢しいネズミめ」


 ロウソクのない部屋で、ミーシャは後ろ手に拘束される。抗議の言葉を述べようにも、あいにく口は塞がれ声が出ない。


「ここの兄妹にもこれ以上、迷惑をかけられないんだ」


 そうしてマーヴィンは身をよじるミーシャをベッドへと抑え込む。

 その瞬間、月明かりがミーシャの柔らかい髪を金色に光らせた。


「あっ……ミーシャ!?」


 その瞬間、マーヴィンは慌てたようにミーシャから手を離す。

 ミーシャは体が自由になるや否や、マーヴィンにつかみかかる。


「これってどういうこと?」


 マーヴィンは一瞬たじろぐが、すぐに何かを決意したようだった。


「迷惑をかけられた分、お前には手伝ってもらう」


 にやりと笑うマーヴィンの瞳にはどこか暗い光が宿っていた。


「手伝うって?」


 ミーシャは意味が分からず、ぽかんと口を開けて問いかける。


「エルフは色んな使い道があるからな!」


 そう言うと、マーヴィンは片手でいとも簡単にミーシャのことを掴み上げる。


「アル兄さん……!」


 ミーシャはとっさにアルに助けを求める悲鳴を上げる。しかしその悲鳴はマーヴィンの手に遮られる。


「黙ってついてくれば、悪いようにはしない」


 その言葉にはどこか優しさがにじんでいるような気がして、ミーシャは一瞬気を許しそうになるが、マーヴィンがミーシャを窓から引きずり下ろそうとしたことでハッと我に返る。

 ミーシャは窓枠を必死につかむが、マーヴィンの力には敵わない。ミーシャはズリズリと窓枠から引きはがされる。

 ミーシャは最後の抵抗にマーヴィンの手に嚙みついた。


「いてっ!」


 マーヴィンはミーシャのことを一瞬悲し気に見つめたが、すぐにもう一度口をふさぎなおした。


「俺だって本当はこんなこと、したくないんだ」


 そんなマーヴィンのつぶやきは風にとけて、誰にも届くことはなかった。


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