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002 未知なる出会い


 マーヴィンは息を切らしながら、暗い石畳の路地裏を全力で駆け抜けていた。

 後ろからは王宮警備隊の足音と、怒号が響いてくる。背後に感じる追跡者たちの存在が、マーヴィンの鼓動をドクドクとさらに早めた。


「アゼリア王国のためにも、捕まるわけにはいかない…!」


 必死にそう心の中で繰り返しながら、マーヴィンは路地に置かれた木箱やバケツを蹴り倒し、追手の進路をふさぐ。それらが転がり、追手たちは一瞬足を止めたが、それもすぐに乗り越えて迫ってくる。


 マーヴィンは右脇腹に痛みを感じ始めた。追い詰められる焦りと使命感が痛みを無視させていたが、先ほど受けた傷の出血が少しずつ酷くなっている。しかし止まるわけにはいかない。右手で傷口を押さえながらも、彼は足を止めることなく進み続ける。


「あと少しなのに……」


 後ろにはまだ王宮警備隊の気配があった。このまま仲間と合流するわけにはいかない。

 マーヴィンは森に向かうのを諦め、山道へと駆け始める。何度もつまずきそうになりながらも、瞬時に体勢を立て直す。しかし、マーヴィンの視界は次第にぼやけていく。

 傷からの出血が止まらず、命が少しずつ流れ出ていく感覚が彼の意識を遠ざけようとしていたのだ。

 ふと、目の前に開けた湖の畔が現れる。静かな水面は朝焼けに染まり、まるで別世界のような平穏を醸し出している。マーヴィンは、ここで追手の目を逃れられるかもしれないと考え、ふらつく足取りで湖の縁に向かって進んだ。


「くっ…!」


 倒れこむようにして野イチゴの茂みに身を沈める。周囲に広がる甘い香りが、彼の意識をさらにぼんやりとさせる。まぶたが重くなり、意識が沈んでいく中、ふと昔の記憶がよみがえってきた。


 ガラス張りの温室で、母とともに摘んだ野イチゴのみずみずしい酸味。ティータイムに笑いながら食べたバターの香りのするスコーン。その温かさが、遠い夢のように心の中で繰り返される。


「母さん…」


 マーヴィンの唇からかすれた声が漏れ、まぶたが完全に閉じられる。

 そして湖の畔には、再び静寂が戻ってきた。




「うーん、今日もいい朝!」


 ミーシャがレースのカーテンを勢いよく開けると、朝の光が部屋にあふれた。

 新鮮な空気が鼻先をくすぐり、ミーシャは伸びをして心地よくその香りを吸い込む。

 昨夜はこの穏やかな空気とは裏腹に、野狐が足音を立てて駆け回っていたのを思い出す。きっと、野イチゴを食べに来ていたのだろう。


「そっか、もうすぐ野イチゴの季節も終わりか……」


 ミーシャは髪を指に巻き付けながらつぶやく。この甘酸っぱい季節が終わってしまうと思うと、なんだか少し名残惜しい。

 そうだ。次の甘いものを作ろう。この季節なら、そろそろお芋を植える頃合いだ。


「うん、今日はお芋を植えよう!」


 ミーシャは急いでネグリジェを脱ぎ、着慣れた作業服に着替える。

 軽やかな手つきで、細い金髪を三つ編みに束ねると、麦わら帽子を頭にのせた。

 そして玄関先に置かれた鍬に手を伸ばす。

 すると、背後からアルの声が聞こえてくる。


「ミーシャ、今日も畑かい?手伝うよ」


 ミーシャはうんざりとした顔で振り返ってみせる。


「いらないってば、アル兄さんはいつも過保護なんだから!」


 ミーシャは頬をぷくっと膨らませ、腕を組む。


「分かった分かった」


 アルは苦笑しながら椅子に座り直す。


「もう!」


 ミーシャは三つ編みを振り乱しながら、元気よく扉を開けた。

 外に出ると、空気がほんのりと甘く、野イチゴの香りが漂っていた。


「そうだ、畑の前にちょっと摘んでこようかな」


 ミーシャは茂みへと足を運び始める。しかし、いつもの甘い香りに混じって、金属のような不穏なにおいが漂っていることに気づいた。


「なにこれ…?」


 ミーシャは眉をひそめ、胸の鼓動が不自然に早くなるのを感じる。昨日の野狐が原因だろうか? それとも何かもっと大きな動物、オオカミやクマが近づいているのかもしれない。不安が彼女の体を駆け抜けた。


「いるなら来なさい! 私一人でも、やっつけてやるんだから!」


 声を震わせながらも、ミーシャはぎゅっと鍬を握りなおした。すると茂みの中から何かが動く気配がした。




 ミーシャの声に、マーヴィンはハッと目を開けた。誰かが、すぐそこに迫っている。

 どうしても捕まるわけにはいかないんだ……。マーヴィンは最後の力を振り絞って、その誰かを殴りつけようと立ち上がる。

 しかし、目の前にいたのは王宮警備隊ではない。恐怖に震える一人の可憐な少女の姿だった。




 その瞬間、ミーシャの前に大きな影が立ちふさがった。ミーシャはそれが何かを認識するよりも早く、悲鳴をあげる。


「きゃあああああ!」 


 そして持っていた鍬を反射的に振りかざした。

 マーヴィンは、避けようとしたものの体が言うことを聞かない。すると、鍬はマーヴィンの左肩に当たり、彼の体は再び地面に沈み込んでいった。


「え、嘘……に、人間?」


 ミーシャは思わず、鍬を手から落とす。そして、震えた手を口元にあてた。



「どうしたんだ、ミーシャ!」


 ミーシャの悲鳴を聞きつけたアルが、家の扉を乱暴に開けて飛び出してくる。


「アル兄さん……私、人を殺しちゃったかも……」



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