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001 日常を壊すもの

 エルビアータ王国の片隅。穏やかな湖は、まるで空をそのまま映しこんだように透き通り、風が吹くたびに小さな波紋が広がっては消えていく。


 その静かな湖畔に一軒の小さな石造りの家が建っている。苔むした屋根と、所々ひびの入った石壁が年月の重みを物語っているが、それでも家全体は清潔で、手入れが行き届いていることが一目でわかる。


 家の周りには野草が風に揺れ、小さな庭にはハーブが植えられていた。香り立つローズマリーやタイムの香りが、風に乗って家の中にまで届く。

 その家で、ミーシャとアルが二人きりで静かに暮らしていた。湖の静寂と、鳥たちのさえずりの中に、彼らの日常はあった。


 ミーシャは、いつものようにキッチンで昼ごはんの準備をしていた。吊り戸棚に手を伸ばし、その先に置かれた乾燥したハーブの小瓶を取ろうと踏ん張る。

 しかし、小柄な彼女にとって、戸棚は少し高すぎた。どうにかとることができないかと角度を変えては飛び跳ね、悪戦苦闘していた。


「うーん、あとちょっと……」


 しかし、指先は瓶にかすることすらできない。何度も飛び跳ねる姿は、空を飛ぼうとする鳥のようで滑稽でありながらもどこか可愛らしい。


「そんな無理しなくても」


 ミーシャの後ろから、アルの穏やかな声が響く。

 アルはキッチンの入り口に立ち、軽く肩をすくめながらミーシャを見守っていた。彼の短い銀髪が、窓から差し込む光を浴びてきらめき、まるで一枚の絵画のようだ。

 アルは目を細めて笑うと、指をくるりと回し、魔法の力で瓶をふわりと宙に浮かせ、ミーシャの手の中に収めた。


「ついでに開けてあげようか?」

「それくらいできるってば!」


 ミーシャは顔を赤くして瓶を握りしめた。

 その小さな手にで、瓶の蓋を回そうとぎゅっと力を込める。しかし、なかなか開かない。アルは再び指を動かそうとしたが、ミーシャはその気配に振り返り、髪を振り乱しながら叫んだ。


「アル兄さんは黙って見てて!これくらい一人でできるんだから!」


 アルはその勢いに少したじろぎ、慌てて指を引っ込めた。

 その後、ミーシャは、10分間もの格闘の末、ついに瓶の蓋を開けることができた。


「ほら、できたでしょ!」


 ミーシャは勝ち誇ったように笑みを浮かべ、胸を張ってみせた。アルはそれを見て、微笑を浮かべながらミーシャの頭をクシャリと撫でる。


「もう、子ども扱いはやめてよ」


 ミーシャはその手を振り払うと、キッチンの隅に置かれた木製のバケツに手を伸ばす。


「水を汲みに行くの?」

「そうですけど、何か?」

「俺が汲んできてあげるよ」

「だーかーら、そういうのいらないってば」


 ミーシャはそう言うと乱暴にバケツを抱え、家の外へと向かった。湖まで歩いていき、なんとかバケツいっぱいに水を汲みあげた。


「ふん!」


 その掛け声とともに、ミーシャは力を貯めて腰を落とし、立ち上がる。そしてふらふらしながらもなんとか家に向かって歩き始めた。

 しかし、その途中の庭のタイルの隙間に足が引っかかり、ミーシャの体勢は大きく崩れる。


「ぎゃあっ!」


 思わず叫び声をあげるが、一向に転んだ衝撃も、水をかぶる冷たさも感じられない。

 そっと目を開けると、アルが魔法でミーシャとバケツを支えていた。


「ほら、最初から頼ればいいのに」

「そういうの、嫌なの」

「……でも、ハーフエルフは魔力がないから」

「だから自力でなんとかしたいの!」


 ミーシャは空中でバランスを保ちながら、バケツに手を伸ばし、無理やりにそれを持ち直す。アルが諦めて魔法を解くと、ミーシャはまた重そうにバケツを持ち歩き始める。


「一人で……できるんだからぁぁあああ」


 ミーシャはそう叫びながら、なんとかキッチンへと戻っていく。


「我が家のお姫様は頑固だなぁ」


 アルはそう呟きながら苦笑いを浮かべる。


「ぎゃぁあああ」


 そしてまたキッチンから聞こえる叫び声のもとへアルは駆け出すのだった。



 その夜、森の奥では、黒いローブの人影が暗い木々の間に集まっていた。

 彼らは低い声で囁き合い、時折不安げに周囲を見渡している。


「マーヴィン様はまだ戻っていないのか?」

「何かトラブルがあったのかもしれない」

「もし戻らなかったら……」


 その時、一人が他の者たちに向かって言った。


「マーヴィン様は必ず戻る」


 先ほどまで気弱だった一団は、その一声で本来の目的を思い出したように息を吹き返す。


「そうだ。……今はとにかく国に帰らなければ」


 彼らはそうつぶやくと、前方の暗い森の奥へと向かう準備を始めた。その視線には決意と緊張が混じっていた。


「全ては祖国、アゼリア王国のために」


 そうして、黒いローブの一団は、夜の闇に消えていく。



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