石段を降る。広場に到着すると“
「久しぶり」
「どういうことだい? “
「そんなに驚くこと?」
ばあやの語りでは常に“神杭”は余裕のある態度であった。彼女の姿をコピーした“
「でも、そうだね。“神杭”はこの広場から出られない……というのならば、当然スマートフォンやテレビを見る機会は無い。この反応も当然か」
「どういうことだい」
「ぼくは生者ではない。
「……
「“痣城”と盟約を交わしたんだ」
「なるほど。先に声をかけたのはわたしだというのに。ふふ……この“神杭”をどうやって滅ぼすつもりなのか、楽しみだね。“痣城”は所詮は死者の記憶を読み取り、死者を癒すだけの神だ。お手並み拝見といこうか」
彼女は静かに笑っている。その自負は正しい。“神杭”は1000年もの間、殺されずに封じられて来た怪異。彼女を滅ぼすことは困難を極めるし、そもそも殺すべきではない。あの肉体が壊れると怪異としての力を解放出来るようになるというのは、未来での語りで知っていた。
“神杭”の孤独な背中を思い出す。怪異はけして悪たる存在ではない。ただそこにあるだけだ。悪しき怪異として語られ得るものと同じ数だけ、悪しき人間もその陰にいるはず。他者を利用し、冒涜し、己が欲望に走った結果であることの何と多いことか。
「“神杭”よ、“痣城”よ、千年の孤独を生きた神々もご照覧あれ。もはや名無しと成り果てたひとりの人間が出した答えを」
「……退屈な答えだったら喰い殺すよ」
「どうぞ」
石段を降りる。太陽が照り付ける
粉々に砕かれた地蔵のある朽ちた家、繁殖した屍喰い柿によって埋め尽くされた屋敷を抜けて、少しずつ人気が無くなっていく。よく手入れされた向日葵畑を整備する老人と傍らの女がこちらを見ていたので軽く会釈した。
そして、目的地に着く。神籠町と
暗い。
まだ夕方にもならない時間であるのに、鬱蒼とした森林に囲まれているような
下には静かな清流があり、魚が泳いでいるのが見えた。魚はまるで石ころのように表情が無い。きっと、向こうに見える田んぼから飛ばされてきたに違いない。
ここは“うそつき橋”。願いを呟きながら渡るとその願いが必ず嘘になる形で叶えられる場所。そして元の場所へ戻る際は無言を貫かなければ、これまでのことがすべて嘘になるという強力なシステムだ。
この“うそつき橋”を使えば、理論上ありとあらゆることが出来る。自分の存在や思考すら空虚にしてしまう最強の怪異だ。いや、神籠町にはもっと強固なシステムがあるのかもしれない。けれど、ばあやが語ってくれた話にはこれ以上は無かった。45夜という時間稼ぎを兼ねたぼくへの慰めの中に無いのであれば、考えなくても良いのだろう。
さぁ、渡ろうか。
太陽が落ちつつある頃、ぼくは
「どういうことだい? “うそつき橋”でわたしを殺すのではないのか。キミは何をした?」
その言葉に安堵させられる。やはり強大な力を持つ“神杭”ですらも、“うそつき橋”による干渉は避けられないのだ。
「ぼくはきみを殺すつもりは無いよ」
「へぇ? ずいぶんと甘いじゃないか。“痣城”に聞いているだろう。わたしはこれまで人々を苦しめて来た。特に子供たちに狙いを絞って、さんざん嗤わせてもらった。いまさら、仏心を見せるような小さき存在ではない。殺せよ」
「あいにく、その手には乗らない。“神杭”を最も効果的に抑えているのが現状だ。キミの肉体を破壊すれば、次の瞬間には日本が滅びている」
「……そうだね。なぜ知っている? もしかして“痣城”のやつは未来の死者まで拾えるのかな? ……それは予想外だな。わたしがあいつを喰ったときはそんな権能は無かったはず」
「そういうわけで、キミを殺すのはリスクが有る。だけど、いま自分で言ったようにキミをこのまま野放しにすれば、より多くの人々が苦しみ悲しみ、傷付くことになるだろう。だから、一番良い手は、より強力な封印をかけることだ」
ぼくは彼女へ歩みを進める。この時点で喰い殺される可能性はあった。でも、“神杭”は知りたがり屋だ。きっと、ぼくが何を願ったのかを理解してから殺したいはず。
一番スリルのある時間を超え、ぼくは彼女の手を握る。蛇のように冷たい肌だ。
「さぁ、行こう!」
「な、わたしはどこへも行けな……。っ!」
彼女の手を取って石段を駆け上がる。“神杭”を妨げる障壁は無い。ぼくが“うそつき橋”を使って彼女の移動範囲を拡張したからだ。しかし、事前に気付かれて逃げられては困るため、制限は存在する。だとしても意味はある。
異塚神社の
「この桜を見るのは……初めてだよ。“痣城”を喰ったときはお互い敵同士だったからね。彼女に受け入れてもらえなかった。……綺麗だね」
子供のように手を広げ、少女は息を吸っては吐く。そして桜の近くまで行き、恐る恐る花弁に触れた。彼女の影は蠢くことは無く、その神性と獣性は完全に抑えられていた。
「しかし、ずいぶんと博打をしたものだね。今ならわたしはこの桜ごと“痣城”を喰えるよ」
「そんなことをしたら、キミは安らかに眠ることは出来なくなる。本当は疲れているんじゃないのかな。そうやって生き続けることに」
「馬鹿な。本当に糺久くんは甘いな。わたしは神を喰らい、怪異を喰らい、人々を喰らい続けて来た欲望の化身だよ。この程度で根を上げるとでも? わたしを満足させるために必要なのは」
そこまで言って、彼女は気付いたようだ。その隙を逃したくはなかった。ぼくは観察眼の鍛錬は人よりも多くこなしている。
「“痣城”はきみの夢を、欲を叶えてくれる。ぼくには分かるよ。“神杭”が最も欲しているのは知識。つまり、他者の人生を知り尽くすことだ」
「…………」
「ここはありとあらゆる死者たちの人生の集積地だ。悲嘆、苦痛、憎悪、激情、快楽、歓喜。そのすべてが揃っている。子供たちに狙いを絞って嗤わせてもらっただって……? ここで1000年もの間、封じられていたきみが何を知っているって言うんだ!? きみが出来たのはせいぜい顛末を予想することくらいだろう」
「だが、わたしは“痣城”を喰えるんだぞ。そうしたら、その力を使えば、わたしもこの世の極楽を味わえる……。あぁ、だが」
「喰えはするでしょ。だけど、その力を十全に発揮出来ると言い切れるかな。だって、それなら前に喰ったときに出来てないとおかしい。過去の“痣城”の方が強力な神秘の力を持っていたはずなんだから。もし、使えなかったら、取り返しがつかないよ? その知識欲を満たせる瞬間は訪れない。だって、きみは」
「ふ、ふふ、ふふふ……。大した観察眼だ」
彼女が座り込む。丁寧にスカートを畳んでからだ。自分のことなのだから、分かっていただろう。“神杭”の本質とは喰う怪異。本来の彼女はこうやって人と悠長に言葉を交わすことは無いし、そもそも出来ないのだろう。行き合う神や怪異や人を無差別に喰い散らかし、瞬く間に世界を滅ぼす。
こうやって封じられてしまったからこそ、いまの知識欲は生まれ育まれた。好きなものを食べて好きな動画を見て好きなときに寝られる……そういう放埒な生き方をしてきた者が何の娯楽も無い僻地に閉じ込められて、正気を保てるだろうか? 変わり映えのしない退屈に殺されそうになりながら、しかし、彼女は不死だった。
「毎日……死にたいと思っていたよ」
“神杭”が弱々しげに語る。
「最初は良かった。わたしがここに封じられていることなんて、みんな知らないからね。屑肉でも、学者の肉は食い応えがあった。葛城家やら尋咲家の連中が、他所から捕まえて来た怪異や神を連れて来たこともあった。だけど、それ以降は地獄だよ。何も喰えない、誰もわたしと喋ってくれない。そもそも、わたしが見えていないんだ。神秘の力は薄れ、怪異や神は文明に駆逐された。……安らかに笑えた日など無い」
彼女の黒髪にひらひらと桜の花弁が落ちる。
「キミは……悪神に安らぎを与えようとしている。正気の沙汰じゃないよ。後悔しないかい」
「もちろん。そもそもこのプラン、ぼくには負担が無い。“痣城”の力に頼り切りの他人任せ。だけどね、これからぼくはようやく生きられる気がするんだ。嵐堂糺久としての雁字搦めの人生じゃない。好きに生きて好きに死ぬ人生だ」
“神杭”が愉快そうに笑う。
「それはいい。素晴らしい旅立ちに立ち会えたみたいだ。善き若者よ、わたしの門出も祝ってくれ。たとえ永遠に夢を見続けられる世界であっても、すべての死者を知り尽くすのはどれだけ先のことになるだろうか。少なくとも、キミとは今生の別れだ。ありがとう」
「こちらこそ。きみがぼくを認めてくれたから、ぼくはここに在れるんだ。“痣城”にも伝えて。あなたの忠誠に比類なき感謝を、と」
「わたしが伝えなくても、キミが死んだときに自分で言えばいいさ。じゃあね、嵐堂糺久……もとい名無しの男よ。キミの放埓なる自由を祈ろう」
“神杭”はぼくを
ぼくは石段を降り、静まり返った夜の神籠町を歩く。これからどうするか、一応そのプランはあった。嵐堂糺久としての人生はもう無い。でも、道筋はあった。ばあやが語ってくれた、ぼくの可能性。
「行ってくるよ、ばあや」
行ってらっしゃいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。あなたの人生はここからでございます。
そんな言葉が聞こえたような気がした。あぁ、そうさ。ようやく始まるんだ、すべては。一度きりの人生なんだ。自由であれ。放埒であれ。ぼくは疲労に目をこすりながら、夜を歩いた。