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第45話 神杭と痣城

 逃げなければ。


 ぼくは懸命に夜の街を走った。後ろを振り向く余裕は無い。もし、ほんの少しでも隙を見せれば、ぼくを追っている男たちに捕まるだろう。捕まれば、殺される。あるいはもっと酷い目に遭う。その確信があった。


 彼らが何者なのかは分からないが、普通の強盗ではない。本宅に移動するために走っていた車を多数の銃火器で襲撃された。護衛についていた者は目の前で殺され、もし運転手の抵抗が無ければ、既にぼくもあいつらに捕まっていたはずだった。


 無意味だと思っていた日々の修練が功を奏した。こうやって見知らぬ街を走り続けられる体力は一朝一夕に身につくものではない。そして、あいつらはどうやらぼくをこの場で殺す意図は無いようだった。そうでなければ、ここで銃を撃たない理由は無い。


 逃げなければ。


 ……何のために?


 胸の内から込み上げる疑念に殺されないよう、ぼくは必死に足を動かした。



 気付くと後ろの足音が止んでいた。ここはどこだろう。本宅へ向かうまでのルートの地理は押さえているので、この一帯が神籠町という場所だということは知っている。警察署にでも駆け込めば安全は確保出来るだろうが、さすがにその位置までは把握していない。


 でも、あいつらは神籠町で襲ってきたのだから、追っ手たちは詳しい地理に精通しているはずだ。現状のぼくでは逃げ切ることは難しい。スマートフォンはとっくに無くしていた。コンビニや民家に訪れ、警察署への道を聞くことも考えたが、ぼくの事情に巻き込むことは憚られた。何せ敵は銃火器で武装した男たちだ。


 ぼくの視線は上へ行く。襲撃された場所からも見えていた大きな鳥居。異塚ことつか神社。町境の山とも近い、高台にある神社でそこからなら、街を見下ろすことが可能だ。けれど、高台へ行くとなれば、同時に袋の鼠となる。なのに、ぼくの足は自然とそちらへ向かい始める。


 1パーセントでも勝機があるなら、そこを攻めるしかない。藁に縋ってでも、ぼくは生きなくちゃいけないんだ。後世にこの尊い血を残さねばならない。……あぁ、なんて虚しい理由なのだろう。この追っ手を差し向けたのは誰か、なんて考えなくても分かるのにな。



「いたぞ!」



 まずい。とにかく走らなければ。あれこれ考えるのは窮地を脱してからでいい。



 息が切れる。なんとか撒いたように思うが、そう時間をかけてはいられない。石段を登ると大きな広場に出た。広場の先にさらに石段があり、その上に大きな赤い鳥居があるのが見えた。もう少しだ。筋肉が悲鳴をあげ、ふらつく足を押さえながら歩く。息を整えてようとして、一瞬地面を見る。


 すると、正面に影が差した。さして光も無いのに、闇を煮詰めたような真っ黒い人の影。追っ手に回り込まれたのかと焦るが、そこにいたのはどこかの学校の制服を着た美少女だった。



「ずいぶんと疲れている。休憩したらどうだい」



 そろそろ深夜に差し掛かろうという頃だ。ましてや、この辺りに民家は無い。この少女は怪しい。あるいは虐待などに耐えかねて家出をしてきたのかと考えもしたが、そうではないと感じた。彼女は妖しい魅力を携えていた。見る者をたちまち惚れさせてしまいそうな笑顔なのに、ぼくには獰猛な獣の威嚇に感じられた。



「何者だ?」


「へぇ。……どうやら良い血を持っているみたいだね。いずれ来たるアンドロイドマニアよりも神秘の力に対する耐性が強い」


「血……」


「うん。わたしの姿は子供か、あるいは名家に連なる者にしか見えないんだ。しかしね、ずいぶんと無礼ではないかい。人のことを尋ねるときはまず、自分から名乗るべきだよ」


「……ぼくは嵐堂らんどう糺久ただひさだ。嵐堂グループ総帥の長子たる者。非礼は詫びよう。でも、きみはぼくの名乗りに対し、本当のことを言ってくれるのかな? ……きみは、人間なのか?」


「ふふ。なかなかの胆力だね。これまで相手してきた中でも五本の指に入るかもしれない」



 雲の切れ目から覗く月の光と石段に併設してある灯籠の灯りしかないこの広場で、すべてが闇色に霞むこの場で、彼女だけがハッキリと見える。けして光を放っているわけではない。彼女にだけピントが合っている……そんな状況だ。



「いたぞ! あそこだ!」



 追いつかれた!? 動揺してる間もなく、石段を駆け上がってきた男たちが広場に到着する。彼らは時代劇でしか見ないような提灯を掲げており、辺りを明るく照らす。



「無粋だね。そんな気分では無いが……」



 ばくん。


 少女が手を挙げると地面から黒い煙のように靄のかかった大蛇が咲いた。



「うわああ!!」



 大蛇は男たちを食い散らしていく。慌てて広場から離れようとした者は途端に泥濘となった地面に足を取られて、十字架に似た杭に刺し貫かれて果てた。提灯があちこちに転がり、彼らが流した赤黒い血液と臓腑が照らされている。


 そんな光景を作った少女は気分を害したかのように顔を顰めている。



「やはり、人は不味いね。大した血も持っていない屑肉だ。さて、邪魔者は消えた。これを見れば分かるだろう。わたしは人間ではない」



 ぼくに向けて少女は美しい魔の笑みを浮かべた。



「わたしは“神杭かみぐい”と呼ばれる、怪異だ」



 ずるずる、ずるずる、ずるずる、と闇の如き大蛇が這いずり回っている。



「あぁ、すまないね。あれは3年前に喰った忌池の主だ。それ以来、自分の手のようにして遊んでいるんだ。……それにしても良い気味だね。贄を追い求める彼らの蛮行をいずれ裁定しなければならないと思ってはいたんだが、キミが連れて来てくれなかったら、いつになったか」


「……きみは彼らを知っているのか?」


「そうだね。あいつらはクルス教……神籠町における隠れキリシタンの一派を元にした宗教団体だよ。いまは確か“カミ師炎”と名乗っているんだったかな。肉体の代償を引き換えに土から命を創造する……くだらない組織だ」


「ぼくは何故その組織に狙われたんだろう」


「そりゃあ、決まっているさ。糺久くんはかなり優秀な人間みたいだからね。キミと同じ能力を持っていて、それでいて御しやすい人形でも作ろうと思ったんじゃないかな。雇い主はおおかた嵐堂グループの中枢の人間だろうね」



 そこまで聞いて、ぼくはお父さんの顔を思い出していた。



「だと思ったよ」



 ぼくは嵐堂グループの長子として厳しい教育を受けてきた。総帥に相応しい人間であるようにと家族たちには言われていたし、ぼくも努力していた。しかし、最近になってようやく気付いたのだ。嵐堂グループに更なる発展をもたらすべく、ぼくが意見をすると彼らはたちまち嫌な顔をする。……彼らが求めていたのは、私心など持たない傀儡であったのだ。


 力なく座り込む。


 ぼくは何のために生きてきたのだろう。いや、そもそもぼくは“生きていた”と言えるのだろうか。自分の意志で立ち、自分の心で悩み。それらはすべて仮初であった。嵐堂グループの後ろ盾を失えば、ぼくには何も無い。ぼくを育ててきた愛は偽物に過ぎなかった。なんて虚しい結末なのだろう。



「落胆しているね。けれど、わたしの力を見ただろう。わたしと盟約を交わしてみないか? この世界のすべてに復讐しようよ。糺久くんが望めば、この蛇体が日本全土を覆う。やがては海を越えることも可能だ。嵐堂グループどころじゃない。キミは世界を手に出来るぞ」


「いらない」


「欲が無いね」


「欲だけじゃないさ。ぼくには何も無いんだ」


「本当に? キミはすべてに絶望しんでいる。けれど、最初に希望を持たなければ、人間というものは深い絶望も抱けはしない」


「そうかもね。ぼくは……子供の頃はお母さんにもお父さんにも愛されていたと思っていたよ。特にぼくの教育係をしてくれたばあやは優しい人だったな。あの頃に戻れればいいのに。あの頃の夢にずっと浸っていられればいいのに」


「その願いもわたしなら叶えてあげられるよ?」


「口車には乗らない。おまえがぼくの約束を守るとは思えない。世界を手にするのはおまえだ」


「やれやれ。嫌われたものだ。だけど、その部分は安心していい。怪異は一度決めた盟約を違えることはない。人間と違ってね。その証拠にわたしは、この1000年、神籠町の異塚神社の前の広場に縛り続けられている」


「それなら出られないじゃないか」


「次の盟約次第さ。キミが復讐を願えば、前に交わした盟約を更新出来る。わたしが世に生まれて3000年もの間、さまざまな怪異や神を喰らって手に入れたこの力、試してみないかい?」



 そうやって“神杭”が喋っている間、少女の体に収まりきらぬ暴風が荒れ狂っているのを感じた。きっと、こいつは嘘はついていない。だが。



「いらない。ぼくには何も無い。正義感も義侠心も無い。……だけど、おまえに力を振るわせるわけにはいかない。それは人間としての責務だ」



 そう感じた心だけは本物のはずだ。



「……ふぅん。仕方ないね。でも、糺久くんはこれからどうするのかな? 家族も無く、金も無く、力も無く、どうやって生きていく?」


「生きていく必要は無いさ。ぼくは死ぬ」


「強情だね。ならば、この石段を登っていくといい。“痣城あざしろ”への門はわたしが開けておこう」


「この期に及んでまだ、ぼくをたぶらかす気か」


「神籠町には二柱の神がいる。“千手大蜈蚣せんじゅおおむかで”と“痣城”だ。前者は人の願いを叶える力を持ち、後者は人の思いを慰める力を持つ。どちらも200年ほど前にわたしが喰らったんだが、完全に死してはいない。わたしはここを出られないから、殺し切れなくてね。……“痣城”は異塚神社の桜の木を根城にしている。アイツは良い神だよ。キミを慰めてくれるはずさ」


「……ありがとう」



 ぼくの言葉に“神杭”は目を丸くする。



「何を驚いているんだ?」


「久しぶりに聞いた言葉だったからね」


「おまえが怪異であっても、ぼくのことを思ってくれたのは間違いない。その思慮に対して敬意を払っただけのことさ」


「…………そうかい。達者でね」



 石段を上がり、鳥居をくぐる前に振り返ると“神杭”の小さな背中が見えた。あいつは1000年もひとりでいるのだろうか。だとしたら、彼女は果てしない孤独を味わっている。


 もし、その孤独を分け合う者がいるとするのならば、同じくらい孤独であるものだけだろう。



 異塚神社はしんと静まり返っている。世界が終わったあとみたいだ。境内けいだいの中に桜が見える。秋の夜に似つかわしくない艶やかさだ。ぼくはふらふらと歩き、その幹を撫でた。


 花弁が散り、ぼくは真っ白な何かに包まれた。それは懐かしさ、愛しさ、哀しさ。虚ろな身を満たしていくような優しい毒であった。



♦︎♦︎♦︎


 どうでしたか、ぼっちゃま。


 うん。全部思い出したよ。ぼくは嵐堂糺久で、ばあやは“痣城”なんだね。


 ええ。正確には“痣城”の残滓でございます。人間の精神を永遠の夢に浸す怪異であり、神。全知にも届かぬ小さき悪神。かつては神籠町の死者すべてを虜にしておりましたが、もはやその力は無く。ぼっちゃまの……いいえ、糺久さまのような尊き血を持つ方をお待ちしておりました。


 ぼくと盟約を交わし、“神杭”と“痣城”を滅ぼすためだね。


 はい。これまでの嘘をお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。しかし、“神杭”はいずれ解放される。およそ100年後、神籠町はそのときには廃されておりますが、あのものの力は世界を崩壊させる。それだけは避けねばなりません。


 ねぇ、ぼくはさ、嬉しいんだ。


 …………。


 お父さんに裏切られて、嵐堂グループの跡取りとしての未来はもう望めない。けれど、“痣城”と盟約を交わし、悪神を討伐する役割はぼくの、この嵐堂家の血が無意味ではなかったことを証明してくれているんだから。


 それだけではありませんよ。


 え。


 あなたは他ならぬ“神杭”と“痣城”が認めた人間なのです。糺久さまの魂の精髄はこれまでの努力を映しておられる。孤独な鍛錬にはすべて意味がありました。……わたくしはかつて神籠町の巫女をしていた、糺久さまのばあや殿の記憶をエミュレートしておりましたが、彼女はあなたを高く評価していました。愛していました。それだけは確かでございます。


 ……うん。ぼくは、ひとりじゃなかったんだね。


 ええ。それにいまは、わたくしもおります。たとえこの身が滅びようとも、あなたへの忠誠心は永遠でございます。


 気が早いんじゃない。ぼくとはまだ盟約を交わしてはいないでしょう?


 怪異にとって、時間とは可逆的な存在ですので。


 ふふ。じゃあ、ぼくは今、誓おう。盟約を交わそう。ぼくは神籠町の悪神を討伐する。策はある。あなたがこれまで語ってくれた“妖し怪し語り”にヒントがあった。世界を終焉に導く神であっても逆らえない怪異が神籠町にはある。絶対の因果律操作能力。怪異とはシステマチックな存在だ。まるで機械仕掛けのように。


 さすがでございます。では、わたくしも宣誓いたします。目的を遂行するため、この“痣城”は全霊を以てお仕えいたします。


 ……待って。


 なんでしょうか。


 つまり、“痣城”はぼくのいうことはなんでも聞くってことだよね?


 そうですが。


 じゃあ、誓いの内容を少し変えるよ。ぼくは“神杭”も“痣城”も滅ぼしはしない。


 どういうことですか?


 ぼくはあなたたちに報いたいんだ。


 ……不要でございます。我らは悪神。


 怪異に正義も悪もない。ただあるがままにあるだけ、そう教えてくれたでしょう。だから、ぼくはあなたたちを裁くことはない。殺しもしない。これは嵐堂糺久としての意志だ。


 承知いたしました。あなたの考えに委ねましょう。


 認めてくれるの?


 もう誓ってしまいましたからね。けれど、これだけは聞いておかねばなりません。糺久さまはこれからも生きていてくださるでしょうか。


 うん。自分の命を投げ捨てる真似はしない。“カミ師炎”からぼくを逃してくれた運転手さんがいたでしょう。たとえ、お父さんはぼくを愛していないのだとしても、これまでぼくに関わって来た世界のすべてが敵であるわけじゃない。


 安心いたしました。


 ……眠くなってきたよ。これはいつもの眠気と違う。そういうことなんだね?


 ええ。出立のときでございます。あれから、45夜が経過しました。“カミ師炎”の追っ手はもうおらず、嵐堂グループはあなたの死体を“カミ師炎”が勝手に処分したと考えております。


 追われる心配は無いってことか。じゃあ、行ってくる。……あなたが“痣城”であっても、そのエミュレートはぼくにとっては本物だったよ。


 ……行ってらっしゃいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはこれまでにございます。

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