かんかん。かんかん。
警報器の音が鳴り響き、遮断機が降りて行く。俺はタバコを吸おうとしてためらう。
かんかん、かんかん、かんかん。
音が鳴り続ける。遮断機と遮断機に挟まれた線路は血の海となっていた。
ざぷざぷと腰まで血に浸らせながら首無し死体が歩いている。恨めしそうな顔をして腕が千切れた女がこちらを見ている。そうかと思えば血の水面を静かに歩く笑顔の子供たちもいる。しかし、子供たちは何やら喚いている男を引き摺っており、べちゃべちゃと不快な音を奏でた。
しばらくして、遮断機が上がり、異様な光景は消え去った。電車は通過していない。当たり前だ。ここは廃線なのだから。電気さえ通っていないのに、何故か警報器の音と共に遮断機が動き、その中は異界と通じている。この事態の解決が、俺たち
『どうでしたか』
『ひでぇモンだよ。あの事故が起きてからもう30年くらい経ってるだろ。こんな状況になるまで、他のやつらは放っておいたわけか』
『本来は慰霊碑を建てて楔とするのが基本。けれど、その事故を理由にして廃線としただけですからね。遺族たちの気持ちも蔑ろにしています』
『救えねぇな』
およそ30年前。この踏切で電車同士の衝突事故が起きた。信号機を読み違えた運転手のミスと線路内にふざけて石を置いたガキの悪戯、ふたつの要因でそれは起きた。第二次世界大戦以降、神籠町で起きた最大の死亡事故だ。
『で、そっちはどうだ? 何か原因は掴めたか』
『あいにく、分かりませんでした。やはり、理由を掴むにはひとつしか手は残されていません』
『だよなぁ……。気は乗らねぇが』
この怪奇現象は遮断機の内側で起きている。刳木の話では遮断機が結界の役割を果たしているようで、今のところそれが外に漏れるような事態にはなっていない。とは言え、時間の問題だ。何の手入れもされていない遮断機が短時間で何度も何度も降りたり上がったりで、朽ちかけている。
外から見る分には気持ち悪ぃだけだが、もし内側に入ろうものならどうなるのか分からない。というか、普通に死ぬ可能性が高い。だが、結界の外側から観察しているだけで原因が判明するのならば、既に俺たち以外が解決しているだろう。
さらに問題なのは、この現象は2つの踏切で起きているということだ。怪異に対しての知識が少ない俺と、最近ようやく30分のマラソンが出来るようになってきた刳木が別れて行動しなくちゃいけなかった。
これまでの依頼は刳木の抜群の知識と思考、俺の力押しのフィジカルでどうにかしてきた。それを分割するなんざ、有り得ねぇ手だ。だが、同時にひどく現実的。せめて、もうひとり仲間がいれば、良かったのだが。
『無いモノねだりをしても仕方ねぇな。俺は今から踏切の中に入る。刳木のいる地点まで向かうぜ。分かるな? おまえは絶対に中に入るなよ? いざというとき、逃げられねぇからな』
『はい。事前に決めていたことですからね。いまさら文句は言いません。私たちがどのように失敗したのか、それも後に続く者への手助けになる。けれど、通話は繋ぎっぱなしでお願いします』
実を言うとかなり揉めた。2人で別れるという手もだ。結果的に刳木が折れる形となったが、彼女の苦しそうな顔を見て胸が痛んだ。絶対に死にたくねぇ、そう俺に決意させるには充分なものだった。
『分かってる。おまえの知識が頼りだ』
『了解です』
線路の中に足を踏み入れると痛いほどの視線を感じた。
ちゃぷん。ちゃぷ。ちゃぷ。
雨なんて降っていないのに水たまりに足を置いたような音がした。俺は覚悟を決めて歩き出す。粘り気のある泥のような感触が靴底を突き抜けて感じる。
くすくす。くすくす。
後ろから微かな笑い声が聞こえる。
『振り返ってはいけませんよ』
『分かってる。というか、電話越しでも聞こえるのか』
『ええ。承知していたことですが、この道はずいぶんと神秘の力の強度が高い』
『だな。俺でも感じるよ。昼間だってのに、この線路の中は暗くて閉塞感がある。まるでトンネルの中みたいだぜ。お、と。……おでましか』
かんかん……かんかん……かんかん。
踏切の中に侵入して5分ほど歩いたときにその音は聞こえた。それなりの距離はあるはずだが、音は近い。……ん。遠く、何かが光っている気がした。点滅している。これは、信号か?
ざあああああぁぁぁぁぁ…………。
赤黒い液体が瞬く間に流れ込んで来た。物理法則を無視して俺は血の海に囚われた。手足が途端に重くなる。男が並んで歩いている。鉄道会社の制服を着ている。彼はこちらを気にすることなく、ざぶざぶと海の中を進む。まっすぐ前を向く彼の背中には大穴が空いており、向こうの景色が見えた。……いや、少し上を見ている?
『……暁月先輩のGPS反応が途切れました』
『電話が繋がってるなら、それでいい。気になったことがある。運転手みたいなやつが何かを、斜め上を見ているんだが、何か心当たりがあるか? 俺は電車には詳しくないもんでな』
『あ。たぶん信号機です。この事故は運転手が信号機を読み違えたことで起こった。それなら、この現象の媒介となっているかもしれません』
『原因ならもうひとつあるよな』
『石、ですね。しかし、それが置かれた場所へ行くのなら先輩は後ろへ戻る必要があります』
『道理で笑ってるやつがいると思ったよ。まぁ、それくらい気を回しておけば良かったか。つっても本来の石は除去されてるよな?』
『代わりとなっているモノがあるはずです』
『代わりか』
『今日はこれで撤退でも良いでしょう。私と合流して、問題の信号機と石の場所をチェックして明日に突入という流れでお願いします』
『了解。タバコを吸って離脱する……ん?』
かんかん。かんかん。かんかん。かんかん。かんかん。かんかん。かんかん。かんかん。きぃぃぃっっ……。ごおぉぉ……。
遠くに光が見えた。
『前から電車が来た』
『……っ。その異界から出るには踏切を経由しなければなりません。せめて線路から外れてフェンスの所で回避出来ませんか?』
『無理だな。血の海で拘束されてる。前か後ろにしか体が動かねぇ。タバコじゃ防げんだろ』
『……申し訳ありません、暁月先輩』
刳木の無念そうな声が聞こえる。俺はこいつを死なせたくはない。だが、俺が死ねば、刳木はどうなる? 少なくとも探偵事務所は続けられず、依頼主である国に背くことにもなる。であるならば、死ぬわけにはいかない。
『俺の破れかぶれの作戦に付き合う覚悟はあるか? これが成功したら誰も死なねぇ』
『あります』
『そうか。つってもシンプルな作戦だ。刳木も踏切に入れ。おまえが信号機を破壊する。俺が振り返って走り、線路の石を取り除く』
『作戦の変更を具申します。その作戦では冥界における最大のタブー、“振り返るなの禁”を破ることになる。成就の前に先輩は死にます』
『じゃあ、どうするんだ?』
『簡単です。暁月先輩が信号機を破壊し、私が石を取り除く。これなら、誰も振り返る必要は無い。それにですよ、武器も持っていないのに私の細腕では信号機を破壊するのは無理です』
『そりゃそうか。だけどよ、前から来る電車はどうする? 俺のタックルは強力かもしれんが、さすがに電車は弾き飛ばせないぜ』
『いいえ。さっきから電車が走る音は聞こえていますが、実際の速度を考慮すると本来ならば既に先輩は轢かれているはずです。つまり』
『後ろを振り返ったら電車に轢かれて死んでたってことか。まぁ、この踏切内部の幽霊どもは俺を殺すほどの力は持ってないみたいだしな』
『では、のちほど』
『またな』
後日談。
省略したのはここから先の出来事は何も特筆すべきことが無いほど、簡単に進んだからだ。信号機を目指すと決めた瞬間、一気に距離が詰まった。怪異にはよくある、認識されることで存在感を増すもの。
朽ちかけた信号機は悲しげで、不思議と人格が宿っているかのように思えた。刳木の方は石が置かれていた場所に鉢植えの花のような小さな信号機があり、その根元に丸いガラス片が種子のように転がっていたという。
「付喪神の一種でしょうね。しかも、善性の類です。遮断機という結界が壊れそうなことを察知した信号機が他者をここに呼び込んだ。もし、私たちが上手く対処出来ていなければ、あの血の海と亡者たちは
「あれで善性なのかよ? 俺が振り返っていたら死んでたんだろ」
「神というモノは人がいくら死のうが構わないのですよ。ただ、この神籠町という場所を穢すわけにはいかなかったというだけです」
帰りの車の中でそんな会話をした。
「神、ね。あの信号機、なんか人間みたいだったぜ。どことなく顔みたいなもんがあってよ」
「私もそう感じました。あちらは女の人みたいで……。宮沢賢治の『シグナルとシグナレス』を思い出しますね。アニミズム的思考に過ぎないと言われればそれまでですけど。本来、怪異というものには性別も人格も感情も無い。なのに、まるで引き裂かれた恋人たちの逢瀬を手助けしたかのような感慨が湧きました」
珍しく感傷的な意見を彼女は言った。近くの雑木林に真っ二つに破壊した信号機の破片とガラス片を埋めたばかりの俺は何も言えない。
「にしても、人手が足りねぇよな」
「そうですね。せめて暁月先輩が怪異の知識を覚えてくれれば、事前の問題点を発見出来ました」
「は。言うねぇ。それなら、俺も言わせてもらおうか。刳木にもっと体力があったら、事態は早く決着したぜ? 最後にはあの血の海が首の下まで水位が上がってきてたからな。成功目前で溺死するところだった」
「努力していますよ、私は。マラソンには慣れてきましたが、あんなに長距離を泳ぐのは完全な予想外でした。……まだ体から鉄の匂いがします。今回の報酬を使って誰か雇いましょう」
「賛成だ。体力のあるやつがいい」
「いいえ、勉強が出来る人です」
そう言うと俺たちは車の中で議論を戦わせた。相変わらずかわいくない女だが、こんな風に喋れるのも互いに命を拾い合ったおかげだ。神籠町に夕暮れが差し、夜になろうとしていた。
結論として、新たに雇う新人は勉強出来るやつということになった。……負けたぜ。
♦︎♦︎♦︎
どうでしたか、ぼっちゃま。
……そうか。なるほどね。
なんですか?
いいや。今は話さなくてもいいかな。でも、ばあやの意図は伝わったと思う。
ふふ、成長なされましたね。
うん。……成長か。ねぇ、ばあやはさ。
なんでしょうか。
ばあやはばあやの“偽物”だ。ぼくはぼくの“偽物”だ。それでも成し遂げられると思う?
もちろんでございます。わたくしは嵐堂グループの御曹司であるぼっちゃまと盟約を交わしたつもりはありません。ここにいる、ちっぽけで甘えたがり屋の……名無しのあなたに可能性を感じたのです。例え“偽物”であったとしても、わたくしにとっては“本物”です。
……うん。実際のばあやはぼくが中学生のときに亡くなったはずだよ。でもね、例えあなたが“偽物”だとしても、こんなぼくを信じてくれた人を裏切るようでは成長したとは言えない。
次で最後の話でございます。ぼっちゃまの記憶が失われた要因……神籠町に巣食う“
分かっているよ。既に策は考えた。
さすがでございます。では、また。
うん。おやすみ。
おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。