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第42話 忌池の果て

 先日、祖母を殺した。


 どんな理由があろうとも人を殺してはならない。そんなことは当然知っているし、俺はわざわざ説教をしてほしくて、こんな話をするのではない。理由もまたどうでもいい。祖母の年金に頼り切りの生活でいつまでも働かずにいれば、誰であってもこういう結末になるはずだ。


 話を戻そう。俺は祖母を殺した。しかし、刑務所には入りたくない。強制労働をさせられ、毎朝規則正しく起きなくてはならないし、受刑者同士のトラブルにでも巻き込まれたら、引きこもり歴15年の俺が太刀打ち出来るはずもない。


 だから、俺は祖母の死体を忌池に遺棄した。神籠町の西にある小さな社は周囲を浅い池で囲んでいる。この近くは再開発が進んでいないので監視カメラがあるとか、そういう心配しなくていい便利な場所だ。


 それにしても人体というものの重さには驚いた。俺が普段持つ一番重いモノと言ったら、せいぜいペットポトルが詰まった箱だろう。痩せこけた老婆の死体だというのに、その数倍は重く感じた。死体を運搬するのには切断するといいとも聞くが、俺はスプラッターは苦手だ。だいいち、家にはノコギリの類いは無い。


 多少折りたたんでスーツケースの中に入れて運搬することにした。車だって持ってないんだからな。鼻を突くような如何ともしがたい悪臭には辟易としたが仕方ない。それほど暑くはなかったが、忌池に到着する頃には祖母の死体の腐敗はかなり進んでいた。死体を池に沈め、ようやくひと息つけた。社が何を祀っているのかは知らない。だが、現象として、この池に沈めたものをカミサマが喰ってくれるらしい。


 令和にも差し掛かろうとしている昨今、オカルトブームは完全に下火になっている。だが、それは神籠町以外の話だ。この町は神秘の力が充満している。……そう言えば忌池の存在は祖母から聞いたんだったな。


 ぶくっ。ぶくっ。ぶくぶくぶくぶくぶく。


 池からそんな不気味な音が聞こえてきた。おそらく死体に空気が入ったのだろう。大して気にも留めず、帰宅した。


 だが。俺の家は更地になっていた。もう何十年も手入れされてない草だらけの地面だ。どうなっているのか分からない。祖母の金で契約していた携帯電話で父や母に連絡したが、父には「誰だおまえは」と言われ、母とは繋がらなかった。携帯電話と小銭入れとスーツケースしか持っていない。コンビニへ行こうともおやつ程度しか買えまい。日頃の運動不足のせいで比較的涼しいはずの秋の残暑で疲れ果てていた。


 だが、なんとか心を奮い立たせる。明らかな異変の原因となりうるべき存在はひとつしかない。


 忌池だ。俺はスーツケースをその場に捨てようとして、スーツケースがどこにもないことに気付いた。携帯電話も小銭入れも無くなっていた。訳がわからない。全力で忌池へ向かった。


 電灯も無く、月の光だけが社を照らしていた。真っ黒い池の中に何かがいた。いや、それは池そのものだと感じた。漆黒の鱗と純白の鱗が並ぶ巨大な蛇。確かに神籠町には幽霊や怨霊がいるってのは地元民からすれば常識だ。だが、いくらなんでも埒外ではないか。


 逃げようとして、転ぶ。何かに躓いたのかと思って足を見ると、足は消えかけていた。痛みも熱さも冷たさも何も無い。ただただ足が薄くなっていく。蛇がこちらを睨み、愉快そうに口を開いた。そこに牙は無く、人間と同じ白くて四角い歯が生え揃っていた。



「やあやあ。おぬしがわしに贄をくれたのだな。感謝する。だが……忌池までは知っていても中に何が祀られているのかは知らなかったと見える」



 蛇は朗々と声を上げた。成熟した男の声だ。



「この忌池に投げ込まれた死体をわしは喰う。そして喰われたモノはこの世に初めから存在していなかったことになるのだ。おぬしはこの贄の血縁者だな? この贄の存在そのものが消失すれば子孫たるおぬしも同様、消え去るのみ」


「そんな……知らなかったんだ。何とかしてくれよ! おまえはカミサマだろ!?」


「それは出来ぬ相談じゃなあ。わしは神杭のような権能があるわけではない。贄は既にいただいた。腹の中におるものを返せと言われてもな」



 そんなことを言っているうちに右手の存在が希薄になりつつあった。最悪だ。最悪だ。でも、見方を変えれば俺は痛みも無く苦しみも無く死ぬことが出来るということだ。どうせ、この先、俺には何も無いのだ。どこで死のうと同じこと。視線。粘っこい視線が俺を刺す。


 蛇はこちらを見ながら、その巨躯を少しずつ動かしている。否、接近している。俺を喰うつもりなのか? 逃げようとして、しかし、両足が既に無い。匍匐前進で何とか逃げようとする。


 一瞬の暗闇。そして体中を噛み潰される激痛に襲われた。人間の歯に似たそれは俺を丹念にすり潰し、噛み砕く。大量の出血とあちこちからはみ出した臓物や骨と一緒くたにされた。


 既に死んでいるはずだ。でも、痛い。苦しい。熱い。冷たい。気持ち悪い。死してなお、この苦しみから、俺は逃れられないのだと悟った。ふと。何かと目が合った。俺の口が無事であったならば、それを見た途端、悲鳴を上げたに違いない。


 それは祖母だったものだ。腐敗した様子はよく知っている。鼻を突くような悪臭も知っている。ただ、その目が俺を強く憎悪していたことを除けば。祖母は死んだ。この蛇に喰われる以前に。なのに、ここの祖母は生きている。彼女は噛み砕かれて原型を留めていない口を使って声を出す。



「許サナイ。許サナイ。許サナイ……」



 この蛇に消化されない限り、この言葉は囁かれ続けるだろう。とても正視出来ない醜悪な肉塊。激痛が走り続ける肉体。蛇の腹の中は真っ暗であってもいいはずなのに、俺の目は祖母を捉えている。目を離すことは出来ない。


 これは地獄だ。


 あぁ。こんなことになるんだったら、逮捕されれば良かった。俺はもう……。



 この男が社の説明をしっかりと確認していれば、こうはならなかったのだろうか? だが、この池が忌池となった真の理由を察せよというのはあまりにと困難だ。忌池として畏怖されていた理由をせめて調べていれば。


 この池は人を喰らう。特に悪人を喰らい、その系譜を消滅させる。悪人を懲らしめるため、周囲に暮らす人々の口から忌池の話を出させるのだ。男は既に術中にハマっていた。蛇が体内の消化を終えるのにかかる時間は100年。


 地獄の中で彼は責苦を受け続ける。何の罪も犯していない彼の祖母と共に。


♦︎♦︎♦︎


 どうでしたか、ぼっちゃま。


 因果応報。でも、この人のおばあちゃんは何も悪いことはしていないのにね。


 そうですね。この世はとかく善人に厳しい世界です。大いなる怪異にとっては人間の善悪など無意味な事柄。彼らは自身のテリトリーに入った餌を機械的に食すのみ。


 でも、この怪異の体内はどうなってるの? 人を蘇らせるほどの力を持っているとは思えないよ。語り手の苦しみを増幅させるために幻聴を聴かせているようにも見えるけど。


 忌池の主に限らず、怪異の体内は異界と繋がっている場合が多いのです。神籠町における異界とは何なのか、ぼっちゃまは覚えておいででしょうか?


 “痣城”のこと? でも、前にばあやは“痣城”という場所のことは分からないって言ってなかったっけ。


 ええ。そうです。わたしには語り得ぬこと。“痣城”の中がどのようになっているのかは判断がつきませんが、この中に迷い込んだ者はけして外に出ることは敵わない。人はもちろん怪異でさえも。神をも封じる絶対の檻なのです。もし脱出が出来るとすれば、それは“痣城”と盟約を交わした者でしかないでしょう。


 ……ふぅん。なるほどね。


 お分かりになられましたか。


 少しは。でも、眠くなってきちゃった。おやすみなさい、ばあや。


 おやすみなさいませ、今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。

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