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第27話 小鳥たちのためのぶよぶよとしたセレナーデ

 兄はピアノの天才だった。


 ……いや、本当のところはどうだったのかよく分からない。私が物心がついたときの記憶。白と黒の世界で、兄は踊るように鍵盤を叩く。彼はとても楽しそうで音楽の妖精さながらであった。そして、窓の外に名も知らぬ小鳥がいた。小鳥は兄を興味深そうに見ていた。その黒々とした瞳をよく覚えている。


 私も兄の姿に憧れて、ピアノを始めたが才能は皆無ですぐ辞めてしまった。どれだけ弾いても兄のようには出来ない。愚直に練習をし続ければ、その背中は見えたのかもしれないけど。


 アニメやらドラマやら映画やら、これは良いと思った曲を兄に聞かせると彼はすぐさま吸収して完璧に弾いてみせた。いわゆる、耳コピというやつだ。妹の無茶なお願いに応えてみせる兄の姿がカッコよく見えた。私はその時間がとても好きだった。


 両親は兄がコンクールのためではなく、私のために時間を費やしていることが許せないようだった。リビングの延長線上に置いた中古の電子ピアノしか用意出来ないくせに、彼らは兄に伝記に登場するような天才性を求めていた。



「ねぇ、お兄ちゃん。小鳥がいるよ」


「あぁ。いつもの小鳥だね。ぼくのピアノを聞きに来てくれているお客さまだ。ファンは大事にしないとね。もちろん、明日香も大事だよ」


「うん! 私はお兄ちゃんのファンだもの」



 純粋にそう思えていた。私に演奏の是非など分からない。ただ、兄が楽しそうにピアノを弾くのを見ているのが好きだったのだ。


 小学校の修学旅行で長崎へ行った。そのときに私は兄へのお土産として小夜啼鳥のオルゴールを買った。ガラスで造られた鳥が茶色い匣のの上に乗っているものだ。けして、高級な品ではない。それに収録されている曲もチャチな出来だった。それでも、兄はとても喜んでくれた。兄の部屋のベッドの側にはいつもそのオルゴールが置いてあった。


 数年が経ち、私は全寮制の高校に通うことになり、家を離れた。その前日の夜の出来事。



「明日香がいないなんて、寂しくなるな」


「大袈裟だよ。夏休みには帰って来るってば」



 と言いつつも、私は卒業するまで帰って来るつもりは無かった。そもそも、この家に自分は必要とされていない。そう思っていた。両親は私に興味は無く、全寮制の高校への進学は体のいい厄介払いだったはずだ。



「それでも、明日香に会えないのはつらい」


「…………」



 兄は両親によってピアノに縛り付けられている奴隷だった。高校にも進ませず、誰かと遊ぶことも許さず、テレビを見るのも禁止した。そのせいで、兄はいつだって孤独で、彼にとっての唯一の世界は妹である私だった。


 私はそれが嫌だった。兄のことは敬愛していたけれども、依存されるのは気持ちが悪いと思っていた。だからこそ、全寮制の高校に通うという名目は私の気持ちを楽にさせた。



「……小鳥がいるよ」



 窓の外の小鳥が見えた。作り物なんじゃないかと疑うくらい、静止している。けれど、兄がピアノの前の椅子に座っているとき以外、この小鳥は姿を現さないのだから、ちゃんと生きているのだろう。だからこそ、気持ち悪い。



「あぁ、そうだね。ぼくのファンだ」



 言外に伝えたつもりだった。私ではなく、小鳥だけがあなたのファンなのだと。私はもうあなたのことなんて見ていたくないと。なんて残酷な感情なのだろう。家の中にいる限り、ずっと聞こえてくるピアノの音がいつの間にか、耳障りになっていた。



「明日香とあの小鳥のために……ぼくは曲を作ろうと思うんだ。ファンに愛される曲を」


「そう」



 どうでもいい。そう思った。私という依存先を失った兄がこのあとどんな結末を辿るのか。それを理解していなかったとは言えない。冷たい気持ちだった。



「どんな曲になりそう?」



 あくまで社交的な文句として私は問う。



「タイトルは決めてあるよ。小鳥たちのためのぶよぶよとしたセレナーデ。ぼくが一番好きなエリック・サティをモチーフにする予定だ。……ねぇ。明日香。高校へ行くきみにいまのぼくが贈れるものは無いけれど、これだけは言わせて」


「なに?」


「心の贅肉を付けて」


「どういう意味?」


「20歳を超えたばかりのぼくが言うのもなんだけど、人生を楽しく生きるためには余裕が必要なんだ。一点だけに集中し過ぎると、それを外したときのダメージは大きくなる。次にぼくが明日香と出会ったとき、きみの心にはぶよぶよとした贅肉があったらいいな。それを願うよ」


「……っ。お兄ちゃん、それって」



 兄は悲しそうな顔をしていた。余すことなくすべて、私の気持ちは伝わっていたのだ。心の贅肉。両親の欲望に支配された兄には無かったもの。いや、そもそも付けられなかったもの。私は解放されるのだ。でも、兄はきっとこの地獄のような家から出ることは叶わない。



「明日は早いんだろう。もう寝なさい。ぼくはピアノの練習をしなければいけないから」



 病的なまでの白い肌、目の下に濃い隈。ピアノを弾く兄の指はひどく醜いものだった。楽しそうには見えず、ただただ何かから逃れるように、あるいは駆り立てられるように鍵盤を叩く彼の姿は幽鬼を思わせた。


 そして、その向こう。窓の外にいる小鳥が羽ばたいた。私はその光景を初めて見た。忌まわしい漆黒の目はもうどこにも無く、窓には反射した私が映し出されていた。苦しむ兄を助けようともしなかった冷たい目。それは忌まわしいあの小鳥を思わせる色であった。



「お兄ちゃん、ごめんね」



 私は空き家となった場所で無意味な言葉を吐いた。結局、彼の言う“次”は訪れなかった。私が高校へ進学してしばらくして兄は自殺した。その知らせを聞いたのは卒業する寸前だった。両親は兄の自殺を醜聞だと捉えており、その死を私にすら告げなかったのだ。


 ……でも、同じだ。あんなやりとりをしておいて、結局、私は一度も家に帰らなかった。



「私、テニスが好きになったよ。友達から勧められてアニメを見て、ミュージカルにもハマったの。自由に使えるお金を増やそうと思って夏休みにはバイトをして。好きな人も出来たんだ。……全部お兄ちゃんのおかげだよ」



 兄の訃報と共に私は両親の死を知った。葬儀を取り仕切った叔父に無理を言って、私はそれに出ることはなかった。どうも両親はすべての指が千切られて死んでいたらしく、警察が話を聞きに来たが、そんなことはどうでも良かった。彼らは私が兄の死すら知らない有り様を見て、ひどく哀れむような顔をしていた。


 私が嫌いな、あの小鳥の目だった。



 私はこの世に生まれなかった名曲を想像する。兄は籠に囚われた小鳥だった。死ぬことで彼はようやく自由になれたのだ。けれど、最後に彼が残した言葉は私を強く捉えて離さない。


 心の贅肉。いまの私には余裕があるのだろうか。楽しい人生を送ることができるのか。


 窓に私が映っている。その向こうには電子ピアノがある。こちら側から見るのは初めてだ。あぁ、なんて貧相なピアノなのだろう。こんなものに兄は縛られていたのか。ふと、視線を感じた。冷酷な双眸が私を貫いていた。だが、私はそれに応えることなく、その場を去った。


 もう戻ることはない。


 すべてが過ぎ去った小さな夜だった。


♦︎♦︎♦︎


 どうでしたか、ぼっちゃま。


 ひどい両親たちだったね。でも、とても残酷なことだけど、この兄妹は食べるものに困らない生活が出来ていただけ、マシだったのかな。お兄さんを人生を支配されていたけど、殴られたり蹴られたりしなかったぶんだけ、恵まれた境遇だったのかな。


 恐れながら、他者の人生を比較するのは傲慢な行いでございます。この世界に存在する人々の数だけ不幸があります。少なくとも、わたくしはこの兄妹が恵まれていたとは到底思えません。


 ……そうだよね。うん。ぼくの言葉は間違っていたよ。


 よろしい。間違いを素直に認められるのは素晴らしいことです。


 この小鳥は何だったのかな?


 これは“怨鳥”でございます。才能ある子供に取り憑き、その成功を邪魔し続ける怪異。けれど、矮小な怪異ですので、人を死に追いやる力はありません。たいていの場合、成功出来なければ、人間は他の分野へ興味が湧くものです。でも、このお兄さんは、それを両親が許さなかった。“怨鳥”と家庭環境。この2つの要素が合わさって、このようなことに。


 この兄妹の両親への怒りが込み上げて来るよ。でも、気になるな。お兄さんが最後にピアノを弾いたとき、“怨鳥”はなぜ飛び立ったの? もうお兄さんの才能は無かった?


 いいえ。“怨鳥”は取り憑いた子供が大人になったとき、去るのです。お兄さんは年齢的にはとっくに大人でしたが、精神的な成長は遅れていました。最愛の妹に拒絶されつつも、彼女のこれからを思って、投げかけた言葉は、妹を守るためだけのものでございました。


 ……そんな。もし、このあとお兄さんがピアノを弾けば、どうなってたの。


 日本のみならず世界でもトップクラスのピアニストになれたでしょう。『小鳥たちのためのぶよぶよとしたセレナーデ』は名曲として、後世語り継がれていたはずです。


 ……“怨鳥”のことも憎くなってきたよ。


 ええ。矮小ですが、邪悪です。


 この兄妹の両親は奇妙な死を遂げたようだけど、“怨鳥”とは関係無いんだよね?


 はい。お兄さんの亡霊か、あるいはピアノに込められた怨念が両親を祟り殺したのでしょう。よくあることでございます。彼らの場合、ぼっちゃまが心を痛める必要もありません。


 分かっているよ。ねぇ、ばあや。このお話をしてれたのって、ぼくを気遣ってだよね。


 …………。


 生まれたときから、ぼくは嵐堂家の長男だ。嵐堂グループを継ぐために毎日のように勉強をさせられている。友達と遊ぶことも出来ない。でもね、お父さんとお母さんはぼくを愛してくれている。ここは籠の中じゃないんだ。眠る前にばあやがしてくれるお話は間違いなく、心の贅肉になっていると思うよ。


 ええ。……立派に成長なさいましたね。ばあやは嬉しゅうございます。その運命に立ち向かう日が来るのはそう遠くない出来事のように思います。いずれ。やがて来たる破滅。もちろん、最初はばあやが盾となってご覧にいれます。


 話し疲れちゃった。さすがに眠いよ。おやすみ。ばあや。


 おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。

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