見られている。
月光でのみ照らされている山の中。ぼくは視線を感じた。ここにはぼくと先輩以外に誰もいない。いるはずがない。見られていたら、終わりだ。手が震える。今更なのに。
「おい、力抜いてんじゃねぇぞ」
「スミマセン、先輩」
「てめぇの頼みでオレはここにいるんだ。それを忘れんなよ?
「も、もちろんです」
先輩は禿げ上がった頭と一体化しているような厳つい顔でぼくを脅す。元は大きな寺の住職だったはずだが、いつの間にかアウトローな人間となっていた。本来なら関わるべきではない。……いや、ぼくは既にそちら側なのだ。
ぼくは恋人を殺した。浮気をしたと疑われ、口論になった。彼女はもともと精神が不安定な人で家から持ってきたナイフを出し、揉み合いになり、その脇腹に突き刺してしまったのだ。彼女とは結婚を考えていた。それなのに。
それで自首するのであれば、良かったかもしれない。でも、ぼくは彼女の死体を見ていたくなかった。逃げたかった。彼女の死体をぼくが車のトランクに入れようとしているところを先輩に見つかってしまった。もう終わりだと思った。その時点での彼はぼくの中では大学の先輩で実家のお寺を継いだ立派な人だったのだ。
けれど、彼は警察に通報することなく、一緒に彼女の死体を山の中に捨てるという手伝いをしてくれている。先輩に言われるままに車を走らせ、ここまで来た。
「こ、ここですか?」
「おう。この沼に捨てときゃ誰にも見つかりやしねぇよ。あ、踏み込み過ぎんな。粘度が高いから、引っ張り上げんのはどんだけ力があっても難しい。てめぇが落ちたら、置いてくぞ」
「やめてくださいよ」
ぼくの車で来たのだから、冗談に決まっている、はずだ。だけど、その凶悪な顔で言われると、この人ならしかねないと思えた。いざとなれば車なんか無くても半日ほど歩いて下に降りればいいだけだ。ワンダーフォーゲル部で鍛え、僧となるにあたって修行に励んだという屈強な肉体があれば、難しくない。ぼくにはとうてい無理だけど。
ふたりで息を合わせて死体を沼に投げた。
とぷん。
どろどろの液体にモノを落としたような音がする。粘度が高いというのは本当みたいだ。
ぶくぶく。ぶくぶく。
水面が揺れている。死体に空気が入っていたのだろう。とても不気味だ。ほんの2時間ほど前まではぼくは彼女を愛していたはずなのに。どうしようもなく気味が悪く思えた。ダラリと脱力した腕と足。服に付いた血の感触。死体の肌の生温さ。妙な柔らかさを覚えていた。
「よし。帰るぞ」
「は、はい。あの、ぼくは先輩に何をすればいいんでしょう。やっぱり、お金ですか」
「てめぇが払える程度の金なんて貰っても嬉しくねぇ。オレの言うことを聞く駒でいてくれた方が嬉しいね。安心しろ、んな無茶は頼まん」
「……っ」
「てめぇはカンダタだ。オレが垂らした蜘蛛の糸を掴んでヒィヒィ言ってりゃいい。糸を切るも伸ばしたままにするも、オレ次第だ」
「勘弁してくださいよ」
先輩はときどき変わった表現をする。こういうところは大学時代から変わっていない。
……視線を感じる。車を置いてきたところへ先導する先輩のものではない。後ろから。彼女の死体を捨ててきた沼から。
ぶくぶく。
幻聴だ。さすがにそんな音が聞こえてくるはずがないところまで歩いている。恋人の死体を捨てたという罪悪感がいまになって、ぼくの心を脅かしているのかもしれなかった。
ぽつり。
雨だ。そう言えば、深夜から雨が降り出すと天気予報にあったな。冷たい雫は先ほどまで感じていた生温い血とは違う。こちらの方が安心出来る。そう思っていたのは最初のうちだけだった。
「早くしろ!」
先輩が声を張り上げる。ざあざあと雨が降っている。もはや小石が全身を打ち据えているようだった。ポケットの中から鍵を取り出し、ロックを外し、急いで車内に入る。ぐっしょりと濡れた服の感触が気持ち悪い。寒くなってきた。早く家に帰りたい。このあと、先輩にどう使われるのだとしても。どうでも良かった。
「あれ」
エンジンが掛からない。
「マジかよ」
何回やっても同じだ。先輩の呆れた声はぼくを心底から焦らせる。こんなときにエンジントラブル? 最悪だ。死体を捨ててきたのだから、助けを呼ぶわけにはいかない。
「……車を出るぞ」
「え。で、でも」
「言ったろ。ここの道に地元のやつが近付かないのはガス溜まりがあるからだ。山の天気はすぐ変わる。ここで寝て、ガス中毒で死ぬのも雨が上がってエンジンに引火して死ぬのも困る」
「スミマセン!」
いったい何を言われるか分かったもんじゃない。この状況で怒り出さない人がいるとは思えなかった。しかし、先輩は静かなものだった。車の中に置いてあった荷物からタオルを取って冷静に頭を拭いている。
「てめぇにキレて事態が解決するんなら、そうしてやる。だが、そうじゃねぇだろ。落ち着け。三毒を断つのは僧侶の基本だぜ」
「三毒?」
「貪欲、
先輩は荷物から古そうな地図を取り出した。ぼくも慌ててスマートフォンを確認しようとするが、圏外だ。さすがに先輩は準備が良い。彼が太い指で地図の一箇所を指し示す。
「ここを見ろ」
「
「廃村だ。オレもここには行ったことはねぇんだが。状況も状況だ。ここを目指す」
「この雨の中、悪路を行くんですか?」
「動かない車を棺にして死ぬってんなら止めねぇが。女、殺して逃げたんだ。捕まりたくねぇんなら、てめぇはそのまま死んでもいいとは思ってねぇんだろ?」
「……分かりました。ぼくって最低な人間ですね。恋人を殺しても、どこかでこんなはずじゃなかった、自分のせいじゃないって逃げてる自分がいる。なんか目が覚めた気がする」
「何言ってやがる。目ぇ覚めたんなら、普通は自首すんだ。今更、逃げられても困るがな」
その通りだった。
車から出たぼくたちは雨に打たれながら廃村を目指した。幾度も石につまずきつつ、月も隠れた夜道を歩いた。ぼくはスマートフォンの灯りを頼りにしていたが、先輩はこんな真っ暗な道を迷わずに進んでいる。山の中での修行をしていると大学時代に聞いたことがあるが、その経験のおかげだろうか。
20分ほど経って、ぼくたちは廃村にやってきた。荒れ果てた庭、割れた窓ガラス、砕けた壁。けれど、雨風を凌げる立派な避難場所だ。いくつかの家を通り過ぎて坂の上にある家の中に入る。咽せるような埃の匂いが充満している。1階のリビングの窓が割れていた。
2階の部屋に行く。子供部屋だろうか。2段ベッドがある。ここを今日の寝床にすると先輩は決定した。下のベッドの辺りは綺麗だ。
「廃村ってやっぱり不気味ですね」
「そりゃ誰もいねぇからな」
「ですよね。それなのに……ぼく」
「何か感じたのか?」
「誰かに見られていた気がするんです。気のせいだって、分かっているつもりなんですが」
「闇は人間を敏感にさせるもんだ。ましてや、てめぇは殺人までしてるからな。さっき沼に捨てた女が激しい
「……化けて出る」
そんなこと思いもしなかった。幽霊なんて非科学的だ。けれど、この状況に置かれれば誰だって、そこにいない何かを見る。脳裏に血まみれの恋人の顔を想像し、身をすくめる。
どこかに雷が落ちた音がした。一瞬の恐怖が塗り変えられる。窓の向こうを見ている先輩が何かを言った。ぼくはそれを聞き返す。
「何ですって?」
「てめぇはスワンプマンって知ってるか?」
「スミマセン。よく分からないです」
「思考実験さ。沼の近くで雷に打たれて死んだ男がいる。この沼に再び、雷が落ちてその男と同じ存在が生まれてしまう。外見も記憶も完全に同じ。ただ、こいつは自分が死んだとも思ってもねぇし、ここでいま出来たての人間だという意識もねぇ。果たして、こいつはさっき死んだ男と本当に同じ存在だと言えるのか?という話だ。……どう思う?」
「難しい話ですね。ぼくは同じだと思います。記憶が無いんなら、ともかく」
「じゃあ、記憶喪失になったら、死か?」
確かに。どうなのだろう。自分とは何か。スワンプマンというのは、そういうことを考えるための題材なのだろう。けれど。いくらなんでも状況が特殊過ぎる。起こり得ないことだらけだ。……沼に捨てた恋人を思い出す。もし彼女が目の前に現れたら。それは化けて出ると同義だ。たとえ、自分が死んだという記憶が無かったのだとしても。ぼくにとっては死人だ。
「……寝るか。オレは下の段で」
ざあざあ。ざあざあ。
どん。
雨が降りつける音、雷が落ちる音が聞こえる。とても眠れやしない。ぼくはこんなに過敏な人間じゃなかったはずだ。いや。敏感にならない方が異常なんじゃないか。人を殺して、死体を沼に捨てたんだ。下では先輩がイビキをかいている。……慣れてるんだな。彼はあの沼のことを知っているが、アウトローの中では当然の知識ということなのかな。それとも何回も死体を捨てているのだろうか。
とぷん。ぶくぶく。ぶくぶく。
幻聴だ。あのときの生々しい音が頭から離れない。子供用の小さい布団で顔を覆う。スマートフォンを確認する。圏外だ。眠れない日はこれを見て過ごせばいいのだが、この状況ではそうはいかない。ダメだ。妙に明るい画面で目が冴えてしまった。
ぎぃ。
え。気のせいか?
ぎぃ。ぎぃ。ぎぃ。ぎぃ。ぎぃ。
廊下が軋む音がする。動物だ。野生動物が入ってきたんだ。そう思おうとした。さっき家の中は確認した。割れた窓から侵入したのかもしれない。いや、でも。
ずぅ。ずぅ。ずぅ。
それは人間の足音に似ていた。重みのあるモノが廊下を歩いている。少なくともイタチやタヌキではない。ゆっくりゆっくりと一歩ずつこちらに近付いている。逃げなければ。……でも、どこに? 切れかけのスマートフォンの灯りを頼りにして雨の中をぼくは走って逃げられるのか? 先輩を起こそう。彼は頼り甲斐がある。そう思って体を跳ね上げる。
ごつん!
勢いよく天井に頭をぶつけてしまった。痛みに涙が出そうになる。というか、まずい。不用意に音を立ててしまった。
ぎぃぃぃ。
部屋の扉が開いた。再び身を隠す。心臓が張り裂けそうだった。
ずぅ。ずぅ。ずぅっっっ。
ぼたぼた。ぼたぼた。ぼたぼた。
そいつは雨に濡れているのだろう。雫が落ちる音がする。けれど、ぼくのなかでは彼女の脇腹からこぼれる鮮やかな血の雫が関連付けられていた。そんなわけがない。そんなわけがない。幽霊なんているはずがない。
これは確認だ。逃避したい現実から目を逸らすため、ぼくは半分だけ身を起こし、そして。確かに見た。闇のように黒い長髪。ぼくがプレゼントしたブルーのシャツ。下半分は見えなかったが、殺したはずの彼女に他ならなかった。叫び声を上げそうになって。すんでのところで堪えた。死にたくない。ぼくは好きな人を殺して死体を捨てたのに、そんなことを思っている。
化けて出る。彼女は怒っているはずだ。自分を殺した男を殺すためにあの沼から這い上がってきたのだ。怖い。怖い。怖い! でも、その恐怖は自分が死んでしまう、殺されてしまうと思っているからだろう。あぁ、なんて自分勝手なんだ、ぼくは。
ごめんなさい。
ぎぃ。ぎぃ。
え?
彼女が遠ざかっていく。何故だ? 気付かれなかったのか? 息を殺し、5分ほど待つが、廊下からは軋む音が聞こえなくなった。そう言えば、彼女はぼくと目が合うことはなかった。下を向いていたのだ。何かを見ていた。ぼくじゃない。……先輩を?
ざあざあ。ざあざあ。ざあざあ。
ゆっくりと降りた。音を立てないように静かに。雨の音しか聞こえない。先輩のイビキが聞こえてこない。
「ひぃっ」
先輩の首に見覚えのあるナイフが刺さっていた。鮮やかな血が流れている。彼は死んでいた。自殺なわけが無かった。だいたい、このナイフはまだ沼の中に沈んでいるはずなのだ。
……見られている。
はっきりとしたその感覚に顔をあげる。
「あぁ……」
微妙に開いた扉の向こうに彼女がいた。彼女は見たこともない土気色の顔でにんまりと笑った。口を突いて出た絶叫を押し留めることなど出来なかった。雨音なんて気にしているひまも無く、ぼくはただ。声を上げ続けた。悲鳴など上げる権利すら無いと知りながら。
♦︎♦︎♦︎
どうでしたか、ぼっちゃま。
怖いよ。眠れなくなりそうだよ。
申し訳ありません。けれど、怪談というからにはこういう話も必要でしょう。
今回は自分が殺されたことに怒りを感じた女の人が化けて出てふたりを殺したってことでいいんだよね?
違います。
え?
あれは“沼の目”という怪異なのです。沼に捨てられたモノの体をコピーして子を生み出す。スワンプマンの話が出ていたでしょう。“沼の目”はそれと似ている。ふたりを殺したのは習性のようなものでして、死体を沼に捨てて自分の子にするためです。いや。というかですね。
もしかしてなんだけどさ。
はい。
この先輩って“沼の目”だったの? 語り手とその恋人の体を手に入れるために、この廃村まで招き入れる役割だったんじゃないかな。
なぜ、そう思われたのですか?
死体に関する描写。死後2時間も経った死体は硬くなり始めるし、運ぶときに生暖かいってのは変だと思う。沼に落としたときにぶくぶく言ってたのはその時点では恋人は生きていたから。脇腹を刺したけど、致命傷ではなかったのかも。でも、それは先輩なら見抜けていたはず。
……続けてください。
準備が良すぎるのも変だよ。廃村ではいくつも家を通り過ぎているのはどうして? 埃でいっぱいだったはずなのに、何で2段ベッドが綺麗なの? さっきまでイビキをかいてた人間が首にナイフを刺されたら音がするでしょう。語り手がその気配を感じていないのはなぜ?
ぼっちゃまのお察しの通りでございます。あれはあの沼に捨てられた人間をコピーして社会に生き続けるモノ。沼に捨てるのは死体であっても良いのですが、新鮮さを好むのですね。彼らは見た目は人間と変わらず、“沼の目”としての行動をしているときの記憶はありません。感情を発し、それらしい言葉を吐く。何食わぬ顔で“沼の目”は人間として生きるのです。
沼に来た時点で語り手を突き落とさなかったのはどうしてだろう。
確実性を取ったのですね。その辺りは子にした人間の性格に寄ります。先輩は慎重な性格で語り手が寝静まったあとに殺すつもりだったのでしょう。恋人は根に持つタイプ。語り手に恐怖を味合わせてから、殺したかったのでしょう。
化けて出てるの同義だね。先輩は“沼の目”だけど、人間だったら首にナイフを刺されたら死ぬ。でも、語り手の死体を沼に持っていくのは恋人だけでは難しいか。
ええ。きっとふたりで死体を運んだと思います。来たときと役割が入れ替わっています。
語り手は先輩をアウトローだと表していたけど、習性を考えるなら先輩は今でもお寺の住職をしているよね?
そうですね。アウトローだと語り手が思ったのは死体を捨てる場所に心当たりがあると言ったからでしょう。
……スワンプマン。ひどいよ。そんな人間の偽物が生き続けてるなんて。“沼の目”を見分ける方法は無いの? 警察なら分かる?
外見では全く区別がつきません。沼には本物の死体が沈んでいますが、発見が遅ければ腐敗しているでしょう。“沼の目”としての行動を観察していれば不審な点が目につくでしょうが、それには怪異がこの世に存在するという知識前提のものでございます。殺してみたら分かるでしょうが。
……そうかあ。ばあやなら?
ふふふ。わたしならば、ぼっちゃまの前で“沼の目”を討伐出来るでしょうね。
良かった。でもさ、“沼の目”にとっては人間の体をコピーするのが唯一の繁殖方法なんでしょう。でも、人間は子供を作れるよね。
あれは沼の一部で出来ておりますので、その子供は分裂したもの。単為生殖で増えるミジンコのようなものでございます。他の人間と比べても遜色なく育ちますが、“沼の目”にとってそれは増えた気がしないのでしょうね。
嫌だなあ。ああ……嫌だ。なんか気持ち悪いよ。もしかしたらさ、ぼくがこうやってばあやに怪談を聞いているけどさ、ぼくは自分を人間だと思い込んでるだけで“沼の目”かもしれない。そう思うと怖いよ。
安心してください。ぼっちゃまは“沼の目”ではございません。
……そう。もう寝るよ。怖いけれど。おやすみ、ばあや。
おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。