『闇色の老父』。
彼はカタカナがずらずらと並ぶ難しい名前の病気で死んだ。けれど、むしろ死という人生の一大事件を彼は楽しんでいたように思う。天也の家族は歳の離れた姉がひとり。でも、疎遠だった。彼女は葬式にすら来なかった。そもそも天也が中学生だったときから、ぼくは彼の友であったが、姉の話など聞いたことが無い。だから、むしろ葬式で出会わなくてよかった。
それから数十年が経ち、ぼくは画廊の主人になっていた。天也の弟子という立場がもたらしたモノで、何の才能も無かったぼくはその恩恵に未だに依存している。彼と出会わなければ、ぼくにはどんな人生があったのだろうと、そんな恩知らずなことを思ったりもする。
天也は現代の日本画家の中では最高に位置付けられている。死んでもなお、だ。彼の絵は高く売れる。もし、彼が最初に描いた絵などというモノがあれば、どんな値段が付くか。大きな美術館がまるまる手に入るかもしれなかった。
新人画家の絵の営業を終えて、家に帰ってきた。そう大きくなくても都内の一軒家だ。ぼくにとっては立派な城である。書斎には地下室もある。日光も湿気も無縁な密閉された空間である。そこに『闇色の老父』はあった。額縁もなく、人によっては素っ気ないと思うだろう。
ぼくに審美眼というモノがあるのかは未だによく分からない。だが、この『闇色の老父』は間違いなく傑作であった。
人を暗黒に誘う死神の笑み。鋭い銀の鎌は鏡の如く輝いて、その前に立つ少年のミステリアスな表情を映している。空に瞬く満月は髑髏のような怖気を漂わせている。漆黒の衣を纏う死神はどこにでもいる老人のようにも見えるし、傾城の美を放つ青年にも見える。
あらゆる画家が人生のすべてを
天也はぼくをどう思っていたのだろう。彼の才能に
地下室に座り込んだ。スーツに皺が寄るのをもう気にする必要は無い。彼が好きだったジンジャーエールを片手に『闇色の老父』をじっと見る。酔っ払ってもいないのに、こうすると彼の声が聞こえる。鳴動する心臓と共に、生きていたときの彼の姿が見える。幻ではないとぼくは信じている。ここに緑川天也という男がいるという確かな実感がある。
そうしていると心臓にジクリと痛みが走る。全身に鼓動と一緒に痛みが生じる。ぼくという存在が希釈されていくように思う。薄く薄く引き延ばされ潰されている感触。……ぼくはもう長くない。でも、虚栄だらけの画廊で死ぬのはごめんだった。天也の魂を感じて死にたかった。
炭酸と共に命が弾ける音がした。
そして。
「なぁ、ソージ。この絵さぁ、おまえが貰ってくんねーかな」
「『闇色の老父』を? ぼくが? なんでだよ。これは天也にとっては大切な絵だろう。誰にも譲らず売らず、ここまで一緒に歩いてきた」
「だからだよ。おれはもう死ぬ。でも、そんなことは最初から分かっていたんだ。おれが絵を描き始めたのはおまえのおかげだ。これまでありがとうの印さ。誰に売るか、保管するかはいつも通り全部任せる。頼んだぜ、おれの魂を」
「分かった。……なんでそんなに楽しそうなんだよ。死ぬのが怖くないのかよ?」
「へへ。楽しみさ。何せおれはようやく一番の
真っ暗な場所にぼくは座っている。ぼくは死んだのだろうか。行かなければ。よろよろと立ち上がる。心臓の痛みは消えていた。ぼんやりとした白い光が見える。行かなければ。その向こうに誰かがいる。天也だったらいいな。
「あ」
「な、な、誰だよ!?」
「天也」
ぼくの願いが通じたのだろうか。天也が木製の椅子に座っている。……けれど、ずいぶん若い。彼の目の前には白いキャンバスが粗末な造りのイーゼルの上に置いてあった。
「なんだよ、どこから現れた? 泥棒……にしては。どうにもおかしいな……。見たことあるような無いような。なんか、爺さん、おれの友達に似てるな。……いや、気のせいか?」
天也が椅子から立ち上がり、こちらに近付いた。窓からは満月が覗いている。部屋の隅には鏡があり、それを見るとぼくの背後は闇のように黒い。老いさらばえた男と少年が向かい合う。この構図は。まるで。
「天也。ぼくは」
「やっぱり、ソージに似てるな。声なんかほとんど同じだぞ。む……お。おおお……アイディアが湧いてきた。爺さんは死神だ。そうに違いない。おれの命を奪うために冥界からやってきた男。黒い男、違う。漆黒の男、違う。暗黒の……なぁ。良いタイトルはないか?」
「『闇色の老父』」
「それだ!! おお……これは良い絵が描けそうだ。これならソージもおれを美術部に入れて良かったって安心してくれるよな。おれは親友をガッカリさせるのだけは嫌なんだ」
「あぁ……。そうか。天也は」
天也の不安そうな表情を思い出す。誰もいない美術室で彼はぼくに作品を見せてくれた。ぼくが『闇色の老父』を褒めると、とても嬉しそうな顔をした。……そうか。彼はぼくを。
「爺さん、なんか寂しそうな顔をしてんな。そういうときは友達と会うと楽しくなるぜ」
「そうだな。……あぁ。よく知ってるよ」
「死神だったら、もしかしたらおれの命を奪いに来たのかもしれないけど、それは待ってくれよ。そうだな……24歳。10年待て。その10年が100年に値するくらい、おれは楽しく生きてみせるからよ」
「短い。ぼくはもっと待てるよ」
「おれみたいな天才はそれでちょうど良いんだ。頼んだぜ、おれの魂を。そうだろ、友よ」
天也は優しい顔をした。
次の瞬間、ぼくは真っ白い空間にいた。正面に黒衣を着た青年が立っている。片手には鎌を持ち、輝く刃には老父が映っている。もう片方の手にはジンジャーエールが。格好がつかない死神もいたもんだ。笑いが込み上げてくる。
「よう。また会ったな、ソージ。おれの導火」
「久しぶりだな。ずいぶんと待たせた」
「良いんだよ、おまえは天才じゃないんだからな。飲み明かそうぜ。ソージに語らなくちゃいけない芸術の真髄がまた見えてきたんだ」
「付き合うよ。天也。ぼくの友達」
宴が始まる。ひとりの天才がこの世を去って60年。地下室で死した骸は幸せな夢を見ただろうか。誰も知らぬままに『闇色の老父』はその魂と共に掻き消えた。けれど、芸術の導火は永久に燃え続けるのだ。
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どうでしたか、ぼっちゃま。
なんか感動しちゃったよ。いいなぁ、ぼくもこんな友達が欲しいな。
ぼっちゃまであれば、真の友情を手に入れることが出来ると思いますよ。
どうなのかなあ。勉強が忙しくて、ぼくはみんなと遊んでないよ。それにみんなは昼休みにサッカーをしないぼくを認めてくれるかな。
友情には色々な形がございます。この世界にいる人間の数の分だけ、異なる関係性があります。彼らは世間的には天才画家と彼の名声を利用して成り上がった弟子でしかない。けれど、ぼっちゃまはこのお話を聞いて、そう思われましたか?
ぜんぜん。ふたりは最高の友達だよ。
ええ。ばあやもこのお話が好きです。
これまでのお話では死んだ人は地獄みたいな世界へ行っていたけど、こういう次があってもいいよね。きっと幸せなんだろうな。
……ですね。
もっとばあやのお話を聞いていたいけれど、なんだか眠いや。おやすみ。
おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。