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第16話 痣城

 現在に至っては空襲の跡なんて残っていない。飢饉の跡なんて残っていない。戦乱の跡なんて残っていない。この世界ではおびただしいほどの人間が死んできた。理不尽な死を迎えた、という限定をしたとしても、数え切れない。怨念を残して死んだ者は星の数くらいいただろう。



 幽霊なんてモノが仮に存在するのであれば、この世界は亡者で埋め尽くされているはずだ。いま、生きている者よりも過去に生きていた者の方が多いからだ。


 だから、幽霊なんていない。


 夜にひとりでトイレへ行けない弟にそんなことを言った。弟は僕の言葉の意味を理解出来なかったかもしれないけど、彼は満足そうに笑っていた。それでいいんだ。どれだけ勉強してもこの世界は意味の分からないことだらけ。知らなくていい。頭に入れなくていい。ただただ、そういうものだと現実を受け入れて過ごせばいい。



 ……弟は消えた。トイレに行くだけで外に出る用事なんて無かったはずだ。20年経って、家が更地になっても弟は帰って来なかった。どこへ行ってしまったんだろう。彼が好きだったアニメの再放送をダラダラ見ながら、スルメを齧って酒を飲む。向かいに座る去屋さりや守がみかんの皮を剥いている。僕は何ともなしに幽霊が実在するのか否か、彼がどんな意見を持っているのか聞くことにした。



「いてもおかしくはないさ」



 彼は無精髭の生えた顎を撫でつつ、白い筋アルベドを丁寧に取ってみかんを食べた。オレンジ色の果実をじゅくじゅくと潰しながら、ゆっくり咀嚼している。なんだか人を食べているみたいだ。



「僕は29年生きてきたけど、弥生時代の幽霊を見たなんて話、聞いたことないぜ」


「おまえが観測しなければ、何者も存在出来ないというのか? 傲慢な考え方だな」


「僕が観測したかどうかは述べていないぞ」


「ならば分からないだろうに。人は自分で見聞きしたこと以外は信じられないものだ」


「性格の悪いやつだ」


「知っているよ。他の誰でもなく、このオレが一番熟知している。艦部かんべが言わなければならないのは他人がどうこうという話じゃない。自分の意見をそのまま話せ。幽霊がいないと信じるのは何も恥ずかしいことじゃない」


「いま話したよ。……あぁ、そうさ。僕はいま自分の考えをさも一般論かのように話した」


「フム。だが、弥生時代なんてものは本当にあったのか?」


「は?」


「この世界が5分前に作られたのではないか、そういうシュミレーションがある。であれば、歴史なんてモノは存在せず、空襲も飢饉も戦乱も無かった。ゆえにその時代の幽霊など居はすまい。……ハ、冗談だ。さすがにそこまで話を飛躍させるつもりは無いよ」


「去屋が言うとジョークには聞こえない」


「ハハ、ちょっと酒が回ってきたのかもな。だが、艦部よ。おまえはどうやら、幽霊というモノに期待し過ぎているような気がするな」


「どういう意味だ?」


「どれだけ科学が発達しても人間は100年生きるので精々だ。ならば、肉体を失った幽霊はさらに寿命が短くてもおかしくない。死した命がさらに死ねばどうなるのか。興味があるな」


「……確かにな。幽霊にも命があるのかもしれない。平成初期の怖い話を掘っていると、まだ空襲で死んだ人の怨念とか聞くんだ。でも、令和になって、とんと聞かない」


「夢の無いことを言うが、そもそも幽霊というのは情報なのだ。ここで人が死んだ、ここで彼が酷い目に遭った、そういう知識の積み重ねと実感が幽霊を生み出す。事故物件のホラーはたまに聞くが、もしその物件の値段が高ければ「もしかしてここは事故物件なのかもしれない」など考えはしない。安かろう悪かろうが精神の根幹にあるから、そう感じるのだ」


「肝試しとかも最初から怖いところへ行くって自覚しているんだもんな。あぁ、なるほど」


「おいおい、簡単に納得するな。疑う気持ちを持っていなければ、詐欺に引っかかるぞ?」


「だって、去屋がもっともらしいこと言うから」


「艦部は素直が過ぎる。反例なんていくらでも思い付くはずだ。とは言え、その反例に対してオレは必ず理屈を付けておまえを言い負かせるだろうが。何か言ってみろよ、ほら」


「……学校や会社から歩いて帰るとき、その道で怖い目に遭う人がいる。歴史なんて知らなくても、怪談なんて知らなくても。何故だ?」


「決まっているだろう。夜が怖いからさ。人間という動物は闇を切り拓き、その文明を築いてきた。その最初の発展は炎を発明したことがキッカケだと言われている。暗いところは炎の行き届かぬ場所。つまり、観測出来ていないんだ。何よりも人間は未知を恐れる必要がある。未知を怖がれないやつは淘汰されて死ぬ。当然の生存本能だ」


「あー何も言い返せないわ」


「フム。そんな調子ではこちらが怖いな」


「勝利の美酒に酔いしれろよ」


「もうじゅうぶん飲んださ。みかんも食い過ぎたかもしれん」


「いくらでもあるから、持ってけ。それにしても、情報か。だったら、死んだことをそもそも知らなかったり、忘れ去られたら寿命以前に幽霊は死ぬのかな。なんか虚しいな」


「……記憶の続く限り、死者は生き続ける」


「人間の記憶なんて長持ちしないよ」


「そうだな。では、土地の記憶なら?」


「土地?」


「この町には“痣城あざしろ”という怪異がいるらしい」


「何だそれ。というか、まさか去屋の口から怪談を聞ける日が来るとは思わなかったな」


「……“痣城”はこの地に起きたすべてのことを記憶している。空襲……は無かったはずだが、飢饉や戦乱はもちろん、どこで誰が死んだのか、誰と誰が家族だったのか友人だったのか恋人だったのか、文字通り、全知の存在だ」


「神様みたいだな」


「何か行動を起こせるわけじゃない。あくまで知っているだけ。けれど、過去の人々はこの“痣城”へ行く方法を知っていたという」


「どうやって行くんだ?」


「“痣城”はこの町の一番高いところに咲く桜の木から行くことが出来る。だが、それは異界のようなもの。入れば二度と出ることは叶わない。金も名誉も友もすべて此岸しがんに置いていく」


「それって、死ぬってことか?」


「分からん。何せ帰って来た者がいないんだからな。帰りたくないほど、素晴らしい場所なんだって解釈もある。そもそも出られない檻の如く、地獄に繋がっているのだという解釈もある。……でも、そうだな。艦部の言う通り、それは死と同義だ。どうせ死ぬくらいならって、考えるやつもいるんだろうな」


「この町の一番高いところ……異塚ことつか神社か?」


「おそらくは。だが、オレはそこに桜が咲いてるなんて聞かない。“痣城”なんて幻想さ」


「へ、去屋が観測していないからと言ってこの世界には無いと断言するのか?」


「ハハ、一本取られたな。だが、それでも断言する。そんな都合の良い世界は存在しないよ」



 そう呟く友人の顔はひどく寂しげであった。



 そんな話をしてから、2週間ほど経って去屋守は自殺した。商売に失敗して返し切れないほどの借金があったのだという。



 夜。炎の行き届かぬ暗黒の世界。僕は異塚神社に来ていた。周りが舗装された人工的な川を右に曲がり続け、石造りの階段を登っていく。広場でいったん休憩し、鳥居をくぐる。桜が咲く季節ではない。無人の境内は静かだ。



「あぁ。綺麗だな」



 御神体の脇に一本の木があった。妖しく輝く桜があった。風も無いのに儚く花びらが散っている。去屋はこの桜を見つけたあと、どうすれば良いのか教えてくれなかった。知らないのか、そもそも、“痣城”なる話は嘘なのか。僕にはそんなこと、どうでもいいことだった。



 僕は去屋の好きな日本酒とみかんを木の根元に置き、手を合わせる。



 幽霊の寿命が人間の記憶の限りというのであれば、僕が長生きしてやろう。弟も僕の後悔の中でずっと笑い続けるのだから。花びらが舞う。灰のように、雪のように舞踏する。揺れる炎の如く、光を放つ。眩しいほどではなく、ただ人間の未来を照らす灯火の如く。



 ゆっくりと瞼を閉じるように“痣城”は今夜のことを記憶する。やがては消え去るふたりの友情を永遠の檻の中に閉じ込めて。


♦︎♦︎♦︎


 どうでしたか、ぼっちゃま。


 “痣城”って本当にあるの。


 確かに言えるのは、異塚神社に桜など無いという事実のみです。


 そっか……。ねぇ、人間は死んだら、どこへ行くの? ばあやは冥途について話してくれたよね。親よりも早く子供が死んだら石を積み続けなければいけないの。冷たくて重くて厳しい地獄の場所で囚われ続けるの。教えてよ。


 生きてるうちは知らなくても良いことでございます。人間が死ねばどうなるのか。それを知らぬからこそ、わたくしたちは生きていられるのです。希望の火を抱いていられるのです。


 死んだときのお楽しみってこと。


 ええ。


 ぼくが死んだら、ばあやはぼくを覚えていてくれる?


 ……もちろんでございます。でも、わたくしの方が早く死ぬと思いますけれども。ばあやが死んだら、ぼっちゃまは覚えていてくれますか。


 当たり前だよ!


 ならば、ばあやはこの上なく幸せでございます。人は死ねば無、だというのはあまりにも悲しいことですからね。


 うん。……おやすみ。


 おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。




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