この下宿には僕しか住人がおらへん。その理由は正直よく分からん。外見も中身も綺麗やし、家賃も安くて駅に近い。なにか欠点を挙げろと言われたら、やたらと蜘蛛が出る。それくらいやと思う。
大学の友達に言わせると、それは立派なデメリットであるらしい。曰く、目に見える範囲では整っていても壁の中や床の下がグズグズに腐っている可能性があるとのこと。
僕やって暗いところで蜘蛛を見たら縮み上がってしまうと思うわ。電気代の節約の為にレポートや勉強は大学の図書館で済ませているから、下宿にはたいてい、夜に眠りに帰るだけやし。たまたまタイミングが良いのか、あるいは悪いのか蜘蛛は朝にしか見ぃひんな。
「朝蜘蛛は親の仇でも逃がせ。夜蜘蛛は親でも殺せ」。
そんな迷信を思い出すわ。僕に母親はおらへん。いつやったか詳しくは知らんけど、行方不明になってしもた。思い出も何もあらへん。父はさぞ大変やったやろな。父の仕事の都合で幾度も引っ越さなあかんから、僕も大変やったけど。
ある田舎の町で僕はその迷信を聞いた。泥の匂いが立ち込める道をずっと右に曲がると石造りの階段が見えてくるんや。そこを上がると大きな広場になってて、転校先の学校に馴染めなかった僕はよくそこへ行ったわ。
たいていひとりやった。でも、高校生くらいのお姉さんと僕はそこでよう喋った。おやつを分けてくれるし、えらい
名前は知らへん。彼女は迷信めいたこと、あるいは全国の妖怪や怪異について、僕にいろいろ教えてくれた。その中で一番記憶に残っているのは蜘蛛の話やった。
別に蜘蛛の話がとりわけ面白かったとか何か関連する出来事が人生にあったわけやない。夕陽が差し込んで、広場の地面に映るお姉さんの影がさまざまな形に変化するのを見た。
小指ほどに小さくなり、ビルほどに大きくなり、犬の形になり、思わず見上げてしまう萎れたヒマワリのシルエットになり、宙を掻く手が千手観音のように連なる虫になり……。僕の視線に気付いたお姉さんがふわりと笑った。
……僕は。
あれは夢やったんやろうか。
まぁ、今はええ。
とにかく、そんな迷信を覚えとるせいか、イマイチ部屋に湧いた蜘蛛を殺す気にはなれへんねん。
「へぇー。なんか、レンちゃんって思ってたより繊細なんだね。私だったら、殺虫スプレー出してシューだよ。手で殺すのは気持ち悪いし」
「失礼なやっちゃな。で、分かったか?」
「うーん……レンちゃんの信条は分かったけど、部屋に蜘蛛が出るのは嫌だな。なんとかしてほしいかも。無理せずにホテルで良いけど」
「……そうかぁ。じゃあ、ホテル行こか」
2回生のとき、彼女が出来た。僕がバイトしてるピザ店の後輩や。まだ高校生らしいけど、ずいぶん積極的でこれが都会の女なんやなぁってちょっと驚いたわ。いや、これは偏見なんかもな。高校生まではよう引っ越してたから、そもそも恋愛する気にはなれへんかった。
だいたい。……あぁ、まあええわ。
最初はお姉さんの迷信を聞いたときから始まったはずやのに、いつの間にか僕は蜘蛛を殺せんようになった。どんなに気持ち悪くても、蜘蛛を殺したら、お姉さんを裏切っているような気分になる気がした。変やんな。名前も通てる学校も知らんくせにな。
で。ある日のことやった。
下宿に新しく人が入ってきた。やけに筋肉質な男で、初対面からめっちゃ
同じ大学同じ学部同じ学科に通てたみたいやからか、なんかソイツとは妙に生活サイクルが合ってた。朝は馴れ馴れしく話しかけてきて、夜は軋む階段の音で察したんか、たまに僕を待っとることもあった。気持ち悪いやつや。筋トレしたら、すべてのストレスが消えて良い性格になるなんて嘘やね。カスが、ただただパワーのあるカスに変わるだけや。
「えぇー。大丈夫、レンちゃん? 兄貴に言って送迎してもらおうか? うちの兄貴もなかなかに厳ついから、そいつも諦めるかも」
「ナオは過保護やなぁ。でも、正直怖いねん。今日はナオの家で泊まってええか?」
「もちろん! うわぁ、楽しみ〜。お揃いのパジャマ着ようよ!」
もしかしたらそれはナオとイチャイチャするための方便やったんかもしれへんけど。で、ズルズルとナオが住んでるマンションで暮らすようになった。今やったらミニマリストっちゅう言葉があるやろ? 僕はその典型やった。自分の部屋に帰らんでも、全然問題無かった。
2週間ほど、大学とナオの家とバイト先を行ったり来たりした。でも、ナオの兄貴から、それとなあく注意されて、仕方なく一旦部屋に戻った。なんとなく想像は付いてたけど、僕の部屋は蜘蛛の巣だらけやった。ちょっと掃除して、床に寝っ転がって過ごした。
ぎし。ぎし。ぎし。ぎし。
そんな音が外から聞こえてきた。階段が軋む音や。……でも、僕の部屋を訪ねてくるやつなんておらん。ナオやったら、来る前に連絡してくれる。それに、ナオは蜘蛛が嫌いや。
もしかして、アイツか? 気持ち悪い笑みを浮かべながら僕の部屋に来ようとする筋肉質の男を想像し、鳥肌が立った。鍵は掛けとる。窓も閉めとる。もし、来ても大丈夫。だいたい、外はまだ昼間や。ようやく正午に差し掛かった頃。こんな時間に仕掛けて来ぃひんやろ。
こつこつ。こつこつ。こつこつ。
部屋の前の廊下から足音が響く。なんか変や。あの男にしては軽い。もしかしたら、僕がナオの家で過ごしているうちに他の人が2階に引っ越してきたんか? そんな都合の良いことを考えた。
こつこつこつこつ。こつこつこつこつ。こつこつこつこつ。こつこつこつ。こつこつこつ。
足音が足音に重なる。おかしい。これ、人間が歩いとるんか? なんか人間よりも足が多い生き物が闊歩しているような。有り得へん。そんなわけあらへん。でも、僕の脳内では化け物みたいな蜘蛛がゆっくりとアパートの廊下を歩いているイメージが流れていた。
一瞬の静寂。止まった?
とんとん。とんとん。とんとん。
いや。僕の部屋の扉を誰かが叩いとる。
どんどん。どんどん。どんどん。
音が重くなる。
どんどん! どんどん! どんどん!
僕は怖くなってナオに電話を掛けたが、出てくれない。警察に? いや、でも、分からんやないか。相手は人間やないかもしれん。扉を叩く音は大きさこそ増したものの、リズムはずっと一定で。だからこそ余計に恐怖があった。
「舐めくさりやがって……」
僕は知らず、そんな声を出していた。武器になるようなもんは無い。あるとすれば。キッチンの脇に置いてたけど、今まで使わへんかった殺虫スプレー。人間でも、顔面に喰らわしたら怯むやろ。……蜘蛛の化け物やったら。
「そんなわけない。そんなわけない。化け物なんておるわけがない。今は平成やぞ」
ドンドン! ドンドン! ドンドン!
意を決して……まずはドアに付いてる覗き窓から外を見た。そして、僕は腰を抜かした。
お姉さん。
「そんなわけない」
ぎぃ。ばき。ばきききき……。
扉が壊れた。巨大な力で捻じられたように扉が曲がる。隙間からぐにょんとお姉さんが顔を出した。人間やったら有り得へん角度で首が曲がっている。子供が描いた絵ぇみたいや。
「駄目じゃないか。怪異は人間に観測されることで力が増幅するんだ。そう教えただろう?
ばき。がき。ぐき。ごき。
鈍い音を立てて扉が完全に破壊された。お姉さんの声で、いかにもお姉さんが言いそうな言葉を吐いたが、それはまさしく化け物だった。
ギョロリと無数にある眼が僕を見る。剣みたいな鋭い牙が見える。濃密な殺気が漂う。が、化け物は戸惑ったように動きを止めた。
「あれれれレレレれれ、もしかしてだけどドドドどド、雷嶋さんってててテ、女の子?」
「え。そ、そうやけど」
本物のお姉さんなら、そんなこと当然知っているはずやった。この怪物は僕を男やと思って狙ったということ? 途端に濃密な殺気が消える。ぶらぶらと揺れるお姉さんが困った顔をしている。
「なんだ、そうだったのか。ごめんね、知らなかったよ。この巣はもう終わりだな。道理でキミからは美味しそうな匂いがしないと思った」
「……男ならおるけど」
「あぁ、下の階の彼だね。もう食べちゃったよ。本当はキミを子供たちの苗床にしようと思っていたんだけど、女の子じゃ駄目だね。ばいばい。もう会うことは無いと思うけど」
化け物はそんなことを言って、どこかへ行った。完全に破壊された扉を残して。ふと、目線を下にやる。小さな蜘蛛が壁に蜘蛛の巣を張ろうとしていた。僕は迷わず殺虫スプレーを吹きかける。……朝だろうが夜だろうが、蜘蛛は親でも殺せ。その日、僕はお姉さんを卒業した。
♦︎♦︎♦︎
どうでしたか、ぼっちゃま。
なんだか、やっていることの割に憎めない怪物だね。彼女はよほどマニッシュな人なのかな。でも、雷嶋さんが女の人だということを前提に考えると下の階の人が気持ち悪かったのはそういうことなんだね。
そうですね。彼女は性別問わず、あらゆる人が魅力的に思う女性でしたよ。
会ったことがあるみたいに言うね。
すみません、多くは話せませんが。
……この怪物は何だったの?
“
へぇ、なんか洋風の名前だね。その由来ってもしかしなくてもアーサー王伝説の中に登場するキャラクターなのかな。
ええ。さすがです、ぼっちゃま。太陽が出て正午に達すれば、神をも凌ぐ力を発揮しますが、日没と共にただの蜘蛛同然の身となります。と言っても、雷嶋さんを襲った辺りは全盛期よりも
ふぅん。そのアパートにぜんぜん人が来ない理由は“
ですね。女性であれば見逃されたでしょうが。力のある蜘蛛はたいてい女なのです。名の由来は男の騎士ですが、それはそれ。
ばあやは色んな話を知っているよね。どうやって仕入れているの?
企業秘密でございます。
ふんだ。ぼくを子供扱いしてさ。
ぼっちゃまはまだ子供でございます。
もういいもん。おやすみ!
おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。