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第9話 匣と旅する男

 電車の中でウトウトしていた。半分現実、半分夢。解像度の低い世界で正面に座る男がいる。男は白くて細いはこを持っている。



 どたん、どたん。どたん、どたん。


 くすくす。くすくす。くすくす。


 どたん、どたん、どたん、どたん。


 ふふふ。ふふふふ。ふふふふふ。



 電車が上下に揺れる音と一緒に小さな笑い声が聞こえる。匣から聞こえてくる気がした。男はたまに匣に話しかけている。最初はタブレットで誰かと通話でも繋いでいるのかと思った。迷惑行為だが、深夜の電車にそう人はいない。


 けれど、そうではなさそうだ。


 このシチュエーションは覚えがある。京極夏彦の『魍魎の匣』……江戸川乱歩の『押絵と旅する男』。きっとこの匣の中には女がいるのだ。ふわふわした意識はそんな荒唐無稽なことを言い出す。本当だったら、オレの視線に気付いて男が匣の中を見せてくれるはずなのに。



 残念だ。体が上手く動かない。好奇心よりも眠さが勝つ。男は年齢の分からぬ見た目だった。少年を脱したくらいにも老境に差しかかっているようにも見える。黒いジャケットは少しクタクタで同じく黒いズボンには皺が寄っていた。けれど、その靴は立派なモノだ。誰かのプレゼントだろうか。



 ……顔は青白い。この世の人間ではないくらいだ。オレは職業柄、死体には馴染みがある。でも、親しい人を亡くしたばかりの生者もまた、こんな風な顔色をしている。いや、違う。余計な先入観を抱いているから、そう感じるだけなのだろう。ただの錯覚だ。



 どたん、どたん。どたん、どたん。


 どうだい、この人は。


 よろしいんじゃなくって。お医者さまだわ。私の結婚相手にはぴったりね。


 良かった。美月は相手が立派な人じゃないと気に入らないからなぁ。


 当たり前でしょう。悪人はやしてはならない。それが絶対のルールですもの。


 どたん。どたん。どたん。どたん。


 声が聞こえる。しっかりとはっきりと聞こえた。気のせいではない。錯覚ではない。意識が浮上する。彼と匣はオレを見て会話をしたような。目を覚ます。……夢ではなかった。正面に男が座っている。奇妙な匣を抱えている。



「っ。あ……匣に」


「起こしてしまいましたか。申し訳ない」



 男は平然とそんなことを言う。匣は開いていた。だが、中にいたのは女ではない。暗黒の闇に繋がっているかの如きポッカリとした虚空。それを囲むように大型獣の牙のようなものが並んでいる。牙の根本はまさしく歯茎のようで、鳴動していた。なんとも非現実で不気味なことだろうか。これなら、夢だと思っていた方が幸せだったかもしれない。



「まあ。よろしくってよ」



 匣が喋った。古風なお嬢様口調がなんとも状況に合っていなくて気味が悪い。喉も腹もないくせに、どうやって声を発しているのだ。



 周りを見渡す。無人だ。いくら深夜とは言えど、この辺りはオレの故郷とはわけが違う。毎日のように終電には酔っ払いや疲れたサラリーマンがいるはずなのだ。



 男に目を遣る。不吉な印象を与える黒塗りの瞳。血の気が失せた唇。左耳には悪趣味な髑髏のピアスをしている。ぼんやりとした顔だ。目鼻立ちがくっきりしているくせに、全体を見るとよく分からない。ピアスが無ければ、再会したとしても見分けがつかないだろう。



「わたしは美月と申します。名誉ある立場でございます」


「ぼくは名無しです。ぼくは美月を色んな人と結婚させたいのです。日本を良くしてくれる立派な人間を……まずは100人殖やす。それが、ぼくたちの旅の目的。あなたは医師の方ですか」


「なぜ、分かるのです」



 オレの当然の疑問に匣が……いや、美月が答えた。口しかないのに、見られている。



葛城かつらぎさまの縁者でしょう。顔に見覚えがございます。そして隠し切れない薬品の匂い、血の匂い、臓物の匂い、金属の匂い。……ふむ。そこだけ抜き出せば猟奇殺人犯でもおかしくありませんが、正解だったようですね」



 頭痛がする。葛城とは父の実家の名だ。代々、医者をやっている一族ではあるが、祖父と父は解剖医だった。実家にいたら、知らぬ間にオレも解剖の仕事をするハメになるかもしれないと思い、東京に出てきた。実家のことなんて忘れて外科医として頑張っている。



「……その説明では混乱させてしまっていますよ。けれど、やはり美月の勘はよく当たる。従者として誉れ高いね。でも、あなたにも名誉なことなのです。あなたは彼女に種を植えられるのだ。オスとして、これほど素晴らしいことはありません。美月は美人ですから、良い子が産まれるはずだ」


「何を言ってる?」


「無理強いはよくありません。確かに私は美女ですが、好みではないのなら引き下がりましょう。それくらいの分別はございます」



 ぐげぇぇぇ。



 断末魔のような汚らしい声が響く。美月が大きく息を吐いたようだ。美人? こいつは匣の化け物ではないか。得体が知れない。



「どうなさいますか?」


「……オレには恋人がいるんだ。責任感無く子供を産ませるわけにはいかない」



 なんとまあ、浮気相手に中絶を迫る男の言い訳じみていたが。そもそも、この匣に種を植え付けるというのは、本当に言葉通りの意味なのかどうかも判断が付かない。了承した途端、喰い殺される可能性もあった。



「なんて男らしい方でしょう。私が産んだ子は責任を持って名無しが育てますわ」


「任せてください」


「断る。もったいないかもしれないが、オレはそんなことはできない。辞退させていただく」


「……分かりましたわ。本当に素晴らしいお方。そんな風に私を立てながら断られたのは初めてです。普段ならば無理矢理にでも食べるのですが、その漢気に免じて、下がりましょう」



 食べる? やっぱり人喰いの化け物だ。



「ふふふ」


「誰にも言わないでくださいまし」



 どたん、どたん、どたん、どたん。



 電車が揺れる音の中で。男と匣は掻き消えていた。まるで白昼夢。すると、隣の車両からガヤガヤと騒ぐ大学生らしき集団が移動してきた。いつもなら苛立つが、今回ばかりは助かった。安心してシートに背をもたれさせる。



「あれー? タクヤがいねぇじゃん」


「一緒に移動してきたよな?」


「アイツのことだし、女にでも引っ掛かったのかな。すぐ騙されるからなぁ、タクヤは」


「まぁ、いいんじゃねえの。在学中に司法試験に合格したタマだぜ、アイツは。仕事始まったらロクに女遊び出来ねーだろうし」


「そうだなー」


「それよりさ……」



 ぐげぇぇぇぇぇ。



 何だったんだ、あの匣は。けれど、忘れるべきだ。何せあいつらはオレの素性を知っている。実家まで知っているのだから、いつ襲われか分かったもんじゃない。引っ越しだ。せめて、職場には車で通えるようにしよう。



 くすくす。くすくす。くすくす。


 どたん、どたん。どたん、どたん。



 思考の隙間に入ってくるような音を錯覚だと思い込みながら、オレは再び目を閉じた。


♦︎♦︎♦︎


 どうでしょうか、ぼっちゃま。


 何だったの、その匣は。


 おそらくは“孕み匣”かと。けれど、本来はあのような形を取らぬものなのです。目の曇っている人間には美女に見えたことでしょう。


 ……ねぇ、ばあや。もしかしてなんだけど、ぼくが料理長に庶民の方が食べているような焼肉をオーダーしておいて残しちゃったから、こんなお話をしたの?


 ぼっちゃまがお残しになったのは特上ハラミではなく、特上タン塩でしょう。違います。ただの偶然ですよ。


 だったらいいな。ねぇ、ばあや。ぼくが大人になったら、婚約者の子との間に子供を作らなくちゃいけないのかな。怖いよ。


 “孕み匣”とは違って、あの方は可憐で優しいご令嬢ですよ。ぼっちゃまの後継ぎが望まれているのは確かでございますが。


 子供なんて嫌いだ。


 まあ。ぼっちゃまもまだ子供でございますよ。そんなことに頭を悩ますのは大人になってからでよろしい。


 名無しか。ぼくも、名無しみたいなものだよね。ぼく個人が云々じゃなくて、大切なのはあくまでぼくに流れている血だもの。


 …………。


 難しいことを考えたら眠くなってきたかも。


 ええ。


 おやすみ、ばあや。


 おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。




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