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第6話 弁当の似姿

 和泉さんは奇妙な人だった。


 僕はその人を生涯忘れることはないだろう。



 和泉仙真。彼はいわゆる建設作業員だ。


 建設作業員には屈強な肉体と健全な精神が求められる。燦々さんさんと照らす太陽の光と熱にも負けず、繊細な作業をこなし、高い所にも怯えず、普通の人なら根を上げる重みの資材を悠々と持ち上げる。さらには仲間とのチームワークがモノを言う。


 もしかしたら、建設作業員など大したことのない仕事なのだと言う人もいるかもしれない。だが、そんなことはない。彼らがいなければ、僕たちは暮らせない。人間が作る社会では最も重要な職業のひとつだ。僕は彼らを深く尊敬している。


 僕はいわゆる現場監督だ。大企業に入り、社内の独自試験で好成績を出したから選ばれたのであって、いくつもの現場をみてきたベテランというわけでもなかった。


 正直、当時の僕は怖くてたまらなかった。建設作業員は厳つい人が多い。中高大と体育会系の部活に属していたから、実力が無いくせに年長だからと威張る人を幾度も見てきた。現場に入るのは下請けの企業。つまり、作業員の質は玉石混交。アルバイトだって当然いるだろう。


 そんな彼と上手くやれるのか。僕は身長が低いから、よく舐められる。威厳の無い現場監督に誰が従うのかという話である。結果を言えば、それは杞憂きゆうだった。


 和泉さんがいたからだ。


 彼は大声でコミュニケーションを取る豪快な人だった。誰よりも厳つく、誰よりも信頼されていて、誰よりも技術のある人だ。緊張している僕を気遣ってあれこれ世話してくれた。


 ……和泉先輩には小指が無かった。元はヤクザだったのか、あるいは現場での失敗で指を落としてしまったのかは分からない。でも、理由は重要ではない。


 小指というのは物を持ち上げるにあたり、重要な部位だ。工具を使うにも小指が無ければ苦労するだろう。なのに和泉さんはまったく問題にしていなかった。むしろ、小指が無いおかげで人よりも上手いのではないかと思うほどに高い技術を持っていた。



 そして。カンカン照りのある夏の日。現場の人たちと一緒に昼食を摂るようになってから、僕はこの場に和泉さんがいないことに気付いた。彼はけして一匹狼のような存在ではない。彼は仮に建てられた作業部屋の外にいた。休憩中なのに陰に入らなければ倒れてしまう。


 和泉さんは「いただきます」と手を合わせ、弁当を食べていた。卵焼き、唐揚げ、ウインナー、ほうれん草。ごはんの上にはかつお節のようなもので顔が描かれていた。でも、奇妙なことがあった。



「おつかれさまです、和泉さん」


「ん、おー! おつかれェ!」


「お弁当、美味しそうですね。和泉さんが作られたんですか?」


「いやいや、カミさんが作ってくれたんだよ」


「なるほど。あの、和泉さんにはお子さんがいらっしゃるのでしょうか?」


「いねェよ。そろそろ作らねェと母ちゃんに孫を見せてやれなくなるし、焦ってんだけどな」



 普通の様子で彼は答えた。でも、彼の手に握られているのは幼児が使うようなスプーンとフォークが一体化しているものだった。最初は小指が無いことに関係しているのだと思った。でも、あれだけの技術がある和泉さんが箸を使えないとは考えにくかった。


 また、その道具は特撮モノのイラストが付いていた。


 和泉さんにそんな趣味が無いとこれまでのコミュニケーションで知っている。でも、そういう趣味が誰かに言いにくい類のものだということは理解できる。特にこの現場では。


 だが、腑に落ちなかった。


 彼は雨が降っている日でも強い風が吹いている日でも、外で昼食を摂る。おかずやごはんに雨粒や砂が入っても気にしやしない。豪快という言葉で片付けるのはいくらなんでも難しい。



 それから1週間ほど経った日。僕は現場に入って驚いた。和泉さんが右目に眼帯をしていたのだ。何でもないように彼は振舞っていたが、さすがにみんなも動揺していた。



「和泉さん……ダメですよ。片目が塞がっている人を現場に出すわけにはいきません。今日は帰宅してください」


「大丈夫。誰にも迷惑はかけねェよ」


「でも」


「オレを信頼してくれよ、ター坊」



 現場監督は適切に判断しなければならない。和泉さんの失敗で誰かが怪我をするかもしれない。もちろん、僕も責任を取る必要があるのだが、その場合は和泉さんも何らかのペナルティは受けるだろう。会社にも迷惑がかかる。そんなことは承知しているはずなのに、何故だか彼なら大丈夫だという根拠の無い考えが浮かぶ。



「いいんじゃねえの」



 声を上げたのは作業員の中では最もベテランの片桐さんだった。小柄で髪も白いが、和泉さんに次いで信頼されていた。



「仙真のやつが適当な判断で大丈夫なんて言うはずがねぇ。ター坊がピリつくのも分かるよ。でも、こいつがいままで信頼を裏切ったことがあるか?」



 そうして、僕は折れた。


 どうなることかと思ったが、和泉さんはこれまで以上に活躍した。片目が塞がれているのに、まるですべてが見えているかのようだった。体調が悪いことを隠していた作業員を下がらせ、ミリ単位の作業を寸分の狂いもなく、とんでもないスピードで終わらせた。結果、その日の作業は予定していた時間よりも早く終了した。



「和泉さん、その目はどうしたんですか」



 余った時間、どうしても気になって、僕は眼帯の理由を聞いてしまった。なんとなく聞けない雰囲気が漂っていたけれど、僕には現場監督の責任がある。彼の優しさを考えれば、あるいは前日の作業中に怪我をして隠しているのかもしれなかった。



「おー。これ。カミさんにやったのよ」


「え?」


「まぁ、気になるわな。ター坊の中にだけ留めておいてくれよ。前におまえには話しただろ。オレもなぁ、そろそろ子どもが欲しいってな。そのために必要なモンだったんだよ」



 意味が分からなかった。どうして、和泉さんの奥さんが彼の目を欲しがるのだ? というか、だったらそれは。和泉さんの目は? 彼は疑問符だらけの僕に眼帯をまくって見せた。思わず、声を失う。真っ暗な穴がぽっかりを空いていたのだ。眼球が無かった。


 僕はなんといっていいのか分からなかった。気分が悪くなり、その場を離れた。すると、片桐さんから声をかけられた。彼に勧められた煙草を吸って少しずつ落ち着いてきた。



「ター坊はこれが初めての現場だってな。じゃあ、覚えておきな。この業界じゃあ、ああいうやつは珍しくない。何より肉体がモノを言う世界。脳筋つったらみんなに悪いけどよ。騙されて頭がおかしくなっちまったやつなんていくらでもいる。仙真みたいにな」


「頭がおかしい……?」


「俺は前に聞いたことがある。あいつが小指を無くした理由を」


「なんなんですか」



 だけど、僕には予想がついていた。当たってほしくはないと思いながらも、その理由を聞かずにはいられなかった。



カミさんにやったってよ」


「やっぱり、そうなんですか」


「あいつはいまは独り身だ。奥さんと腹の中の子供を強盗に殺されて、変になっちまった。よく分からん宗教に入ってよ、盟約だかなんだかで砂の入ったメシを食ってる。だけど、それで俺たちに何か迷惑をかけたわけじゃない。現場監督ならその辺を見極めて差配しな。……気持ち悪いことならあるけどな」


「それってみなさんが和泉さんを持ち上げてしまうことですか。……変なんです。確かに彼は良い人だ。技術もあって誰よりも現場に詳しい。尊敬すべき人間だ。でも、僕は」


「おう、なかなかの観察眼じゃねぇか。そうだよ。どんなやつでも何故かあいつには心を開いちまう。あいつになら、全部託してもいい。そんな風に感じちまう。異常さ」



 まるで神様に何らかの加護を貰っているかのようだ。小指がある者以上に技術があって力もある。眼球が無くても、目が見える者以上にあらゆることを見通す。



「最終的にどうなってしまうんでしょう、和泉さんは」


「さあな。あいつにも分からんだろうさ。何せ神様ってのは人間以上に際限の無い欲望に満ちてる。取り殺されるかもな」



 すべての作業が終了し、それから数年がたった。


 ある日、僕は和泉さんを道端で見かけた。腕も無く足も無く、ヨダレを垂らし、ホームレス同然の姿をしていた。けれど、彼を甲斐甲斐しく世話する男の子が……。その男の子を見て僕は和泉さんの弁当のごはんの上に描かれた誰かの似姿にすがたを思い出した。


 ……真相は知らない。でも、僕は彼のことを生涯忘れることはないだろう。今でも和泉さんのことを思い出すと心が暖かくなる。それはもしかすると、和泉仙真は神様のような存在になった証なのかもしれなかった。



♦♦♦


 どうでしょうか、ぼっちゃま。


 なんだか今までとは違った方向で怖い話だったかも。気付かないまま、ぼくたちは何かを信仰しているのかも。嫌だな。


 どうしてでしょうか?


 だって、ぼくの中に勝手に入ってくるんだよ? そんなの強盗と何も変わらないと思う。


 ばあやが神様だったらどうですか。ぼっちゃまはその真実を知れば、離れていかれるのですか。だとしたら、ばあやは寂しゅうございます。薄情に思うかもしれません。


 いつもはばあやが正しいと思うけど、これは譲れないな。その感情は全部、偽物でしょ。


 そうとは限らないのが怖いところですね。けれど、よろしい。ぼっちゃまは聡明なお方だ。死ぬまでお仕えしたい。


 そんな。死ぬなんて言わないでよ。


 申し訳ありません。でも、すべてのものはいつか滅びる。いずれ死ぬのです。年経たものが早く死ぬのは道理でございます。


 もし、ぼくが小指や目を捧げてばあやが生き返るのなら……。いや、ダメだね。そのばあやは神様が作った偽物に違いないもの。


 最後の男の子は偽物だったと?


 絶対そうだよ。


 和泉さんにとっては本物なのかもしれません。人間はその個人の数だけ、また別の世界を持っているもの。決めつけはよくありませんよ。ぼっちゃまも覚えておいてくださいませ。


 うん。眠くなってきちゃった。あーあ、この時間がもっと長ければいいのに。ぼくはまだまだばあやと話していたいなぁ。


 そう言っていただいてばあやは何より嬉しゅうございます。


 おやすみ。


 おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。



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