目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第3話 やどかり

 僕は漫画が好きだ。ここに登場するキャラクターのように愛のため、正義のため、友達のために、蟹を殺してみたい。「鬼狩り」「竜殺し」……とてもワクワクする肩書きだけど、僕の現実では何より蟹が脅威だ。


 頑強な紅の装甲、どんなものでも断ち切ってしまう鋏。何だか厭な匂いのする泡を噴く口。家の中を徘徊するこいつの眼は何を見ているのか分からなくて怖い。


 すぃー。すぃー。ちょきちょき。ちょきちょき。


 蟹は黒い布を鋏で切っていく。僕が学校から帰って来て、せっかく「ただいま」って言ったのに。何も答えない。あるとすれば。


 ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。


 汚い泡を噴くだけだ。蟹なんて嫌いだ。踏ん付けてやりたいけど、血液なんだか汁なんだか、よく分からないものが出て来たらいやだ。それにこいつは僕なんかよりも、ずっと大きいんだ。


 食事の時間は憂鬱だ。お父さんは蟹を見ても何も言わない。お母さんは蟹を見ても変な顔はしない。大好きなカレーライスもクリームコロッケも唐揚げも、何でこいつの分を用意しないといけないんだよ。でも、我慢だ。僕はこの家では何の発言権も無い。


 この蟹よりも。僕は弱い立場のの人間なんだ。



「ふうん。いいなあ、みのるの家は」


「何でさ。たけしの家の方が良いじゃん」


「誰もいないよりは良いと思うよ。父さんも母さんも帰ってくるのはおれが寝たあとだし。土曜日だって日曜日だっていない。じいちゃんの家にも行ったら駄目って言われてるし。おれは寂しい。みのるがいなかったらどうなってたか分かんないよ」



 尋咲じんざき剛は僕の友達だ。お母さんが言ってた。剛の家は名家なんだって。この町に似つかわしくないくらい、お金を稼いでいるって。その話をしているときのお母さんはいつも苦しそうな怖い顔をする。お喋りなお父さんも何かに追いつめられるように黙ってしまう。分からない。尋咲家の何がダメなんだろう。



 僕はいつも通り、剛が住む豪邸でゲームをして漫画を読んで、少しのおやつ(とても高級だという羊羹)を食べて、帰宅した。本当は帰りたくないんだ。だって、蟹がいるから。



「ただいま」



 こんな挨拶なんてしなくていい。でも、接客業をしているお母さんは挨拶に厳しい。蟹はリビングに色とりどりの布を広げていた。毒々しく古びた赤い鋏でそれらを切っている。声に気付いたのか、黒い眼が僕を射抜く。


 ぶくぶく。



「いいよ、もう」



 すぃー。ちょきちょき。すぃー。ちょきちょき。すぃー。ちょきちょき。ぶくぶく。ぶくぶく。



 夕方のアニメを観ようと思ったのに、この蟹がいるんじゃ落ち着かない。どうしよう。仕方なく自分の部屋へ行く。ここは僕だけが使うには広すぎて好きじゃないんだ。漫画を読む気にもなれない。


 勉強机の上に布切り鋏がある。明日の家庭科の授業で使うからお母さんに出してもらったんだっけ。昔、自分の店を継いで欲しいって言ってたお母さんが買ってくれたことを思い出す。


 綺麗な青色のケースから出して、ギラギラとした立派な刃を見る。これで蟹を刺したらどうなるんだろう。部屋の隅を見る。埃をかぶった本棚に図鑑があったはずだ。


 ずっしりとした生き物図鑑。使い込まれてページがボロボロになっている。


 蟹の血液は青いらしい。でも、実際に蟹を殺したとしても僕が想像したような汁なんて出ないそうだ。それなら、やってみてもいいかもしれない。「鬼狩り」「竜殺し」に次ぐ……いや、気持ち悪さで言えば、蟹の方がずっと上だ。


 漫画に出てくるキャラクターは痛みに強い。鬼や竜に傷つけられても「痛い」なんて言わない。痛いはずなのに。僕が傷付かず済むには心臓を刺して一撃で仕留めるしかない。でも、きっとその感触は、死体は、気持ち悪いんだろうなぁ。



 すぃー。ちょきちょき。すぃー。ちょきちょき。ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。


 リビングで蟹は必死になって鋏を動かしている。僕の存在になんて気付いていない。赤みがかった背中は瘦せていて思ったより小さい。狙うのは真ん中。震える手を抑えて、僕は蟹の背中に鋏を勢いよく突き刺した。


 その瞬間、真っ赤な血飛沫が上がる。どくどくと血液が吹きこぼれる。あれ? 青いんじゃないのか。汁なんて出ないんじゃないのか。蟹はぶくぶくと泡を吹き、こちらを見た。信じられないモノを見るような、恐怖に満ちた黒い瞳で。



「なんで……みのる……が。痛い、痛いよ……」



 蟹はそう言って呆気なく机に伏した。おかしいな。蟹だったはずだ。それなのに、どうして女の人が倒れているんだろう。お母さんが経営している洋裁店で働く“お姉ちゃん”が白目を剥いている。色を失った唇から赤い泡を噴いている。


 ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。


 あぁ、そう言えば。あの生物図鑑、よくお姉ちゃんに読んでもらったなぁ。最近はぜんぜん喋ってなかったけど。違うじゃんか。話かけてくれてたじゃんか。なのに。無視したのは僕だ。大学を出て、こんなに狭い町から出ていくっていう話だったじゃんか。なのに、なんで家にいるんだよ。どうして、お姉ちゃんは。


 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。どれだけ謝ったって何の意味も無いってことくらい、分かってる。それなのに口を突いて出てしまう、意識に反したその言葉は。


 蟹が噴き上げる泡に似ていた。


 ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。



♦♦♦


 どうでしょうか、ぼっちゃま。


 嫌なお話だね。もしかして、ばあやは今日の夕食に蟹が出てきたから、このお話をしたの。


 ぼっちゃまが蟹をお残しになったからでございます。あんな立派なタラバガニ、庶民はなかなか食べられないのですよ。


 ごめんなさい。


 そうそう。タラバガニは蟹の名を冠していますが、実はヤドカリの仲間なのです。この話に出てくるのはいわば“宿借り”でしょうが、正直耳の痛い話でございます。この者が蟹であるならば、ぼっちゃまの家で暮らすわたくしもまた、蟹に過ぎませんからね。


 そんなことない。ぼくはばあやのこと好きだもの。この子はあれこれ文句を言っているけれど、お姉ちゃんが気に食わなかったんでしょ。嫌いになったんでしょ。気持ち悪いって思ってたんでしょ。


 最初からそうだったのかどうか、分かりませんが。


 同じだよ。でも、お姉ちゃんの気持ちも分かるなぁ。ぼくも働きに出たくなんかないもの。働くなら自分のペースでやりたい。


 最近はこの方のような在宅ワークは増えてきていますが、時代が違います。事情の分からぬ者は怠惰に見えるのでしょうね。


 眠くなってきちゃった。ねぇ、ばあやはこの家にずっといるよね。ここを出て働きには行かないよね。


 ええ、ここがわたくしの職場ですから。


 そうじゃなくて。


 ふふ、もちろんでございます。ばあやはいつまでも、ぼっちゃまのお側におりますよ。


 おやすみ。


 おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?