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第2話 敵鏡

 鏡の中の“彼女”はいつも綺麗だ。残念ながら、私はそうではない。たっぷりのメイクでなんとかかんとか“彼女”に近付ける。


 理想の自分が見える鏡。なんのオカルトかと思ったけど、1400円でこれは安い。私は昔から化粧が下手だった。中学、高校と化粧は禁止だったくせに、社会に出るとそれを纏えと言われた。でも、そのやり方は誰も教えてくれなかった。


 インターネットで勉強したつもりだったが、そのイラストや画像は私ではない。私だけの骨格、私だけの顔の造り、私だけの肌。それを殺してしまう化粧はいつまで経ってもブサイクで。会社に入ったあとも、いつも嗤われている気がした。


 でも、これは違う。なんとなく見慣れない古道具屋で鏡を買った。その鏡には見知らぬ女が映っていた。もしかしたら、そのとき私は警戒すべきだったのかもしれない。気持ち悪いとその日のうちに捨ててしまうべきっだったのかも。


 直感だ。この見知らぬ女は……いや、“彼女”は私なのだと。自分が辿り着く存在。違うな。辿り着ける存在。見本があるのと無いのとでは訳が違う。自分に合う口紅の濃さ、ファンデーションの量、アイラインはどうすべきか。正解が見えた気がした。



 少しばかりの試行錯誤で私は変身した。今では会社のみんなに綺麗だね、羨ましい、なんて言われる。私の顔自体は変わっていないはずだが、それでも嬉しいことには変わりない。


 彼氏も出来た。年下の彼は料理が好きで仕事で疲れ果てた私の夕食を作ってくれる。化粧が崩れずに済む弁当を作ってくれる。朝はメイクに時間をかけるのでパンで済ませているけど。


 充実した日々だ。


 部屋の扉が開き、彼氏が入ってきた。彼も仕事を終え、帰宅したのだろう。



聡美さとみ~。あ、また鏡を見てるのか。駅前のアンティークショップで買ったんだっけ。オレも行ってみようかな」


「ちょっと古臭いけど、オススメだよ。あ、今日のハンバーグ美味しかった。やっぱり透介とうすけの料理は最高だね。疲れが取れる」


「まあね。これがオレの仕事だから。でも、本当はアスリート用のレシピだから、味付けが薄いかもとは思ったんだけど」


「そうだね。ソースはもっと濃くていいかな。でも、ハンバーグ自体は私の好きな味だった」


「よし、改良しよう。とりあえず、今から夕食を作るよ。今日は豚肉が安かったんだ。生姜焼きにしよう」


「いつもありがとう」


「お安い御用さ。聡美の笑顔がオレは一番好きだから」



 いつも通りの夜だった。かけがえのない幸せな日だ。私は眠る前に鏡を見る。私の宝物。それが映すのは私の理想の世界。



里見さとみ



 机の前に書類が置かれた。電子データになっていない紙の束。時代錯誤な中小企業だ。



「あ、あの」


「やっとけ。おい、もしかして定時で上がるつもりじゃないだろうな? それは面の皮が厚すぎるんじゃねえの? あ、おまえは化粧も厚かったな。はははは……。笑えよ」



 脂ぎった中年の上司が威嚇するように睨み付けてきて、仕方なく笑った。鏡を見るまでもなく、それは。



「はははは……。それだよそれ。里見と言えば、その笑顔だもんな。気持ち悪ィぜ」


「申し訳ありません」


「なあに。分かってくれたのならいいよ。月曜日までに仕上げてくれ。花の金曜日だから、他のやつは呑みに行くだろ? おまえには予定なんざ無いから、いくらでも時間がある。少ねえけど、残業手当も出るわけだしな。部下想いの上司だなあ、オレは。なあ?」


「…………はい」



 電気代の節約のために真っ暗になった部屋で私は書類のデータを打ち込み続ける。秒針が時を刻む音。キーボードを孤独に叩く音。それだけが空間に響いていた。つらくなって、私はバッグから鏡を取り出した。私の宝物。



「おかえり~。今日は遅かったね」


「ただいま、透介」


「なんか疲れた顔だ。オレも明日から試合のために選手に付きっ切りになるから、精のつく物を食べたいんだよね。楽しみにしてて」



 ネギを刻む音が聞こえる。愛しい彼氏が作ってくれる料理。明るいリビングの暖かいソファーに身を預けながら、私はそれを待っている。……違う。そこにいるのは私ではなく、“彼女”だ。



 羨ましい。なんで、私がそこにいないんだろ。



 深夜になっても終わらない仕事に見切りをつけて自宅に帰った私を迎えたのは今朝出すのを忘れていたゴミ袋の湿った匂いだった。冷たい床を歩きながら無造作に敷いた布団に倒れ込む。ソファーなんて無い。彼氏なんて、私の人生にはとんと無縁な存在だった。


 鏡を見る。“彼女”は綺麗だ。笑顔がとても美しい。温かい団欒が伝わって来て、思わず涙がこぼれた。聡美。いい名前だなあ。私なんて安子だよ。里見安子。昭和の人の名前だよ。冷え切った布団にじゅぶりと化粧が付く。



 汚いなぁ。汚いなぁ。私、汚いなぁ。



 私が“彼女”になるにはどうすればいいんだろう。その顔は私と同じはずなのに。この口紅で、このファンデーションで、このアイラインで私は“彼女”になれるはずなのに。


 ふと、“彼女”が私を見た。嗤っていた。嘲笑していた。ブサイクな女を、どう足掻いても幸せになれない女を見て、汚いモノを見下すように。怒り、妬み、憎しみ、悲しみ。そのすべてがい交ぜになった感情が渦巻く。


 なんで。私がそこにいないの。拳を握り、鏡に叩きつけた。何度も、何度も、何度も、何度も。



「笑うな」



 鏡は砕けていた。それでも、感情は止まらない。



「笑うな!」



 破片に映る“彼女”は勝者だった。充実した生活を送る鏡写しの自分。彼氏は、透介は初恋の男だ。彼もまた、こちらを見ている。勝ち誇ったようなウザったい顔で嗤っている。



「笑うなぁっ!」



 小指が血だらけになっている。破片は粒となって手を切り裂く。粉微塵になるまで、打ち据える。痛みなんてどうでもいい。胸を突くようなこちらの痛みに比べれば、なんてことはない。


 誰もいない真っ暗な部屋で私は泣いた。土曜日になっても、日曜日になっても、ずっとずっと泣き続けていた。


 朝になった。でも、今日が本当に月曜日なのかどうかも分からない。メイクしなきゃ。手のひらには鏡の粒がこびり付いていた。



「そうだ。これで私は“彼女”になれるんだ」



 私は宝物だった鏡を顔に塗り付ける。ファンデーションのようにたっぷり浸らせる。ちょっと大きい破片でアイラインを引くと、何故だか目の前が真っ暗になってしまう。口紅はいらない。だって、きっとどんなモノよりも赤く、命にあふれた化粧道具で彩られたはずだから。



「透介、いってきます」



 どうしてかは分からないが返事はなかった。


 夜よりも暗いけれど、会社へのルートは足が覚えている。ざわめきが聞こえた。あぁ、きっと私が美人すぎて、みんなが戸惑っているのね。だって、私は里見安子じゃなくて、聡美になったのだから、この反応は当然だった。でも、誰が言い寄ってきも意味は無い。私には透介がいる。



 雑音。雑音。雑音。蠅みたいにたかる声を鬱陶しく思いながら、会社へやってきた。


 ぼた。ぼた。ぼた。ぼた。


 腕にまで伝う口紅の温かさが身に沁み入る。



「な、なんだ、おまえは? もしかして、里見? 近寄るな……」



 上司の声だ。そうじゃないでしょう。あなたが私に言うべきなのは「笑え」でしょう?



「ひ、ひいっ……!」



 “彼女”を纏った私は笑った。


 生涯で一番美しく、理想の自分と一体化した最高の笑みだった。



♦♦♦


 どうでしょうか、ぼっちゃま。


 怖いね。ぼく、社会になんて出たくないな。きっと、里見さんのように笑われるんだ。


 大丈夫ですよ。ぼっちゃまは高貴な顔立ちでいらっしゃいますから。


 あの鏡は何だったの?


 あれは“敵鏡”でございます。人間の敵は誰でもなく、他ならぬ自分なのですよ。そして、最も許せないのは、あるべき未来を歩めなかった自分。ですから、今の自分を殺し、虚像の自分と同一化するよう、“敵鏡”は人を惑わすのです。


 眠くなってきたかも。ばあや。ねぇ、ばあやはぼくの味方だよね。ぼくの気持ちが作った偽物じゃないよね。


 もちろんでございます。


 良かった。おやすみ、ばあや。


 おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。




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