田舎の民宿で夜を過ごした。
東京で振る雪というのは灰のように濁っていて、まとわりつくように重い。でも、ここの雪は瑞々しい白さとふんわりした軽さがある。
とは言え、ずいぶんと振り続いている。明日のバスが運行するかどうかは分からない。なんとなく不安だ。
屋根がミシミシと鳴っている。この民宿はあまりにもみすぼらしい家だ。雪に潰されやしないだろうか。わたしが心配性なのは自覚しているが、さっきから締め付けられるような音が鳴っているのだ。
みしっ。みしっ。ぎゅう。ぎゅう。
ざっざっざっざっ……。
たたたたた……。
おまけに鼠でもいるのかもしれない。
「大丈夫ですよ」
民宿を経営している男がいつの間にか部屋の前に立っていた。扉を開けつつも、中には入っていない。男なりの客への礼儀ということだろうか。だとしたら、失敗だ。
「ですよね……。これくらいの雪、この辺りでは当たり前なのでしょう。申し訳ない」
男はニコリと笑った。けれど、生っ
「お眠りくださいまし。冬の雪は毒でございます。雪ならばともかく、“かえがみ”が舞い始められば、あなたさまにも害がある」
男は笑みを浮かべた無表情のまま、そんなことを言う。“かえがみ”とは何だろう。来る前にこの辺りの歴史は押さえたつもりだったが、知らない名前だ。まあ、田舎でしか知られていない土着の神の一種であろう。そこまで気にしなくてもいいか。
「心配ありがとうございます。もうすぐ寝るつもりです」
「それがよろしい。“かえがみ”を見てはなりませぬ。あなたさまも舞の一座に加えられてしまう。……それがお望みなら止めませんが」
男は奇妙なことを口にして、扉を閉じた。 ……念のため鍵をかけておこう。なんだか不気味だ。
部屋には大きな窓がある。一面に積もった雪は白き原野の如き輝きでとても美しい。しかし、見るなと言っていたくせに、窓にはカーテンが無い。そういえば、音がしない。無音の世界に迷い込んだみたいだ。
早く寝よう。久しぶりの休暇で気分転換に来たつもりだったが、どうにも落ち着かない。
ビルだらけの窮屈な道、満員電車、くだらないことしか流れてこないテレビ、引っ切り無しに連絡が来る電話、上階の部屋の騒音。隣の営業部のやつの不快な笑顔。そんな毎日に辟易として、こういう何も無い田舎に訪れてみたかったのだ。なのに。こんな焦燥感に襲われるとは。
たたたたた……。
何かが走る音。無音の世界が壊れてホッとした。でも、違和感がある。さっきの家鳴りとは違う。この音は民宿の外から聞こえた気がした。男からの忠告など忘れて、窓から外を注視した。
この雪の中であんなにも軽快に走れるものだろうか。既に腰を越すくらい積もっているのに。
「あ」
舞っている。雪ではない。鮮烈な赤さ。顔を布で隠した人がふわりふわりと華麗に舞っているのだ。見慣れぬ赤い装束はどこかエキゾチックで魅力的だ。
彼あるいは彼女の周りにも誰かがいる。たたたたた……と走り回っている。けれど、そちらはまったく綺麗ではない。美しい絵画の中に素人のタッチが混ざっているようだ。醜い。
許せない。
わたしは注意しなければならない。この舞を
ずぼ。ずぼ。ずぼ。ずぼ。
認めたくはないが、あの邪魔者はこの雪の中でわたしよりも軽快であるようだ。許せない。
「ああ、美しい」
赤い装束の人は近くで見るとさらに神々しい。雪が降る中、雄大な大自然に少しずつ自分が侵食されていく。けれど、それは快感に等しい。この演舞にわたしも参加出来る嬉しさが勝つ。コンクリートジャングルの檻の中で息が詰まるサラリーマン生活から、解放される。そんな予感が止まらなかった。
「やはり、いらっしゃいましたか」
周りを小汚く走っていたのは民宿の男だった。彼はピッタリした笑みを白すぎる顔に張り付けている。不快だ。わたしの仕事を邪魔する営業部のやつらに似ている。なるほど、こんなにも醜い男なのだから、この美しい舞を汚すのは当然だろう。
「……良かった」
赤い装束の人が舞を止め、そんなことを言う。信じられない。その声はいま聞いたものとまったく同じ……。布が風で飛ぶ。人形のような顔。生き物とは思えぬ顔。目の前の男と同じ。
「どうして」
「田舎の暮らしにはもう飽きたのですよ。都会の方がいらっしゃるのは実に84年ぶり。いまの東京はどんな風になっているのか見てみたい。本当にありがとうございます。それにしても珍しいお方だ。檻のようなこの地にわざわざ封じられにやって来るとは。……僕はサラリーマンに向いていると思うのですよ。何より笑顔が得意ですから」
赤い装束を纏っていた男はニコリと笑う。歪み果て濁り果て、灰のように黒ずんだ、死者の顔であった。
「あ、あ、“かえがみ”さまは」
「あなたさまが今日から“かえがみ”でございます。この孤独な檻の中でひとりで永遠に舞いなされ。それが、あなたさまのお望みでしょう?」
ひとり? ひとり? こんなクソみたいな田舎で、わたしは永遠にひとりで舞い続けなければならないのか?
嫌だ。嫌だ。嫌だ! 返してくれ。返してくれ。人工物に囲まれたあの賑やかな街にわたしは戻りたいんだ。こんなところで永遠を過ごしたくはない!
「舞いなされ。孤独に耐え切れぬようであれば、もうひとりの自分を生み出し、一緒に舞えばよろしい。何の誤魔化しにもならないのですけれどね」
赤い装束がわたしにまとわりつく。どこが綺麗なんだ。これは全部、血じゃないか。生者を憑き殺した証ではないか。ずっしりと重い装束はわたしの意志など無視して舞い始める。
男は雪の中を歩く。
ずぼっ。ずぼっ。ずぼっ。ずぼっ。
生者にしか許されない重みがあった。
嫌だ。嫌だ。嫌だあああああ!
♦♦♦
どうでしょうか、ぼっちゃま。
ばあや、このお話の教訓は何なの?
すべての話に教訓があるとは限らないのですよ。でも、そうですね。足るを知らぬ者はどこへ行こうと同じこと。田舎であろうが都会であろうが、その真理は変わらない。この後の男はきっと都会で上手く暮らすことは出来ないでしょう。人を不快にさせる笑顔では立ち行きませんから。
だとしたら、ぼくも……。ああ、眠くなってきたかも。今日は雪だよね。“かえがみ”は居ないよね?
おりません。“換え紙”はどことも知らぬ田舎町でひっそりと舞い続けているでしょう。
うん。おやすみ、ばあや。
ええ。おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。