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第31話

◇◆ 小さな恋のお話 ◇◆




「この齢になっても、いまだ心残りなのね」




 会心の出来栄えだったクラーラの肖像画と相まみえて、精神が影響を受けたのだろう。


 その夜、ドリスは絵画を描くのに没頭していた少女時代の夢を見た。




「先生……すでに、この世にはいないのかもしれない」




 10代のドリスに絵を教えてくれたのは、世界中を放浪していた著名な画家だった。


 弟子をとらないことで有名だったが、なぜかドリスの絵に眼を留め、オルコット王国に滞在している間だけ指導をしてくれた。


 それはほんの数か月だったが、ドリスの心に大きな波紋を生む。




「先生に妻子があると、もっと早くに知っていたら、私は踏み止まれたかしら」




 とうに30歳を過ぎた画家は、冴えない風貌をしていた。


 ドリスの両親も、まさかこんな男性に娘が恋をするとは、思わなかったのだろう。


 二人きりになったアトリエで、ドリスは苦しい胸の内を打ち明ける。


 恋に恋する幼い少女は、周りが見えていなかった。




「公爵令嬢なんて身分が、邪魔をしていると思ったけれど……そうではなかった。先生は妻子を愛していたのだわ」




 思い返すたびに、苦いものが込み上げる。




「先生はなにも悪くない。それなのに私は、当てつけのように髪を切り、家を飛び出してシスターになった」




 両親からは反対されたし、兄弟姉妹からも怒られた。


 今ならば、それが彼らの愛だったと分かる。




「私には難しかったけれど、クラーラとエアハルトさんなら大丈夫。お互いを想い合い、慈しみ合う関係から愛が育つわ」




 ドリスはまだ暗い部屋で、ひとり寝返りを打つ。




「先生、ごめんなさい。せっかく私の絵の才能を、認めてくれたのに」




 シスターになったドリスは、絵筆を折った。


 すべてのしがらみを断ち切って、シスターになったつもりだった。


 国王がドリスの過去をしゃべらなければ、コリーンから肖像画を頼まれることもなかっただろう。




「結果的には、それで良かったのよね。なにしろクラーラに、出会えたのだから」




 小さな体にたくさんの愛を持っていた女の子。


 そして惜しみなくその愛を周囲に与える姿に、ドリスは衝撃を受けた。


 どれほど自分の汚さを、思い知らされたことだろう。


 だがクラーラの愛は、ドリスの心の奥底の闇すらも浄化した。




「私は無償の愛を知った。だから理解できる。先生が消息を絶ったのは、私のためだったのだと」




 まだ将来のある身分高い少女から、恋心を告げられて困ったことだろう。


 暴走しそうな未熟な想いを踏みとどまらせるには、そうするしかなかったのだ。




「先生にクラーラの肖像画を見てもらいたかった」




 間違いなくドリスの最高傑作である肖像画を、画家は褒めてくれただろう。


 がっはがっはと笑いながら、絵の具まみれの顔を綻ばせてくれただろう。




「もう二度と、そんな時間は戻ってこない」




 ドリスはそっと眼を閉じた。








 ◇◆ 新たな恋のお話 ◇◆




「ねえ、あなた、見ない顔ね?」




 クラーラに会いに行ったエアハルトを探して、オルコット王国の庭園をさまよっていたフリッツに声をかけたのはイライザだ。




「王城内を気後れすることなく歩いているのだから、身分は貴族でしょう? それなのに私が知らないなんて……一体、何者!?」


「すみません、僕はこの国の貴族ではないので……」




 険しい顔つきに変わっていくイライザに、フリッツが慌てて弁解をする。




「あら、もしかしてエアハルトさん絡みなの? じゃあ、ご出身はキースリング国?」


「そうです。元々は付き人でしたが、今は配達事業を一緒にやっています」


「ふうん、それは面白そ……いえ、ご立派ですわね」




 言葉を正したイライザが、こほんと咳ばらいをする。




「私、アダムソン公爵家のイライザと申します。よろしければ少し、お話をしませんか?」


「僕はフリッツ・ハインミュラーです。とても嬉しいお誘いですが、今はハルを探しているので……」




 申し訳ありません、と断ってフリッツは立ち去った。


 残されたイライザは、令嬢らしからぬ口を開けたポーズで固まっている。




「私が振られた!? そんな異常事態ってある!?」




 身分も容姿も、優れている自覚のあるイライザだ。


 これまで足蹴にされた経験などない。




「なによ、俄然やる気になるじゃない! これは私への挑戦状ね!」




 燃えてしまったイライザの不屈の精神に、それからフリッツは振り回される。


 パーティのエスコート役を頼まれたり、お茶会に引っ張り出されたり。


 いつしか社交界でフリッツは顔が知れるようになって、それは配達事業の展開に有利に働いた。




「イライザさまの強引さを、面倒だなと思ったこともありましたが、今では感謝しています。ハルにばかり表舞台を任せていたのを、反省するようになりました」


「棘のある台詞ですこと。もっと素直に感謝していいのよ?」




 男性には跪かれるばかりだったイライザだが、噛み応えのあるフリッツと出会えて楽しかった。




「それで……クラーラたちの旅についていくの? 新たな配達拠点をつくるために、二人はこれから国中を回るのでしょう?」




 せっかくフリッツと仲良くなれたが、もしかしたらそれも、近々終わるかもしれない。


 結婚して王城を出るクラーラとも、イライザはお別れをしなくてはならないのだ。


 寂しくてションボリするイライザに、フリッツは首を横に振った。




「ハルにはついていきません。二人は新婚だし、僕がいては邪魔になると思うので」


「そ、そうなのね! じゃあ、これからも私と――」


「ただし、僕はキースリング国へ帰ります」




 イライザの聴覚はそこで死んだ。


 フリッツが続けて、「両親に相談したいことがあるのです」と言ったのも聞こえていない。


 ぶわっと高まった感情のまま、心奥をぶちまけてしまう。




「なによ、なによ、なによ! みんな、どこかへ行ってしまう! 私だけ残して! こんなに悲しいなら、友だちなんて作らなければよかった! 仲良くなんて、ならなければよかった!」


「ど、どうしたのですか? 突然、何を――」




 イライザを落ち着かせようとしたフリッツを、どんと押し退けると踵を返す。


 号泣して立ち去るイライザを、誰も止められなかった。




「ああ、誤解させてしまいましたね。オルコット王国に永住したいと両親に相談して、了承を得た暁にはプロポーズをさせて欲しいと続けたかったのですが」




 はあ、とフリッツは大きく溜め息をついた。


 イライザに押されたときにズレた、銀縁メガネの位置を直す。




「ずっとカロリーネさまを想っていただけで、何もしてこなかった僕にとって、何らかの行動をしてでも側にいたいと思った女性は初めてなんですよ。だけど、僕が恋愛ごとに慣れていないのも事実……これから上達していきますから、どうか逃げないでください」




 フリッツは気持ちを切り替え、イライザの後を追う。


 きっと噴水の見える庭にいるだろう。




(僕とイライザさまが、最初に会った場所。僕たちにとって、それが始まりだった)




 いくら鍛えても手足に筋肉はつかなかったが、走るのは遅くない。


 だからフリッツは駆け出した。


 本当に大切なものを失わないために。


 まだイライザの気持ちが、友情であろうとも。




「どうにか戦略を立てましょう。僕が得意なのは、それくらいですから」




 オルコット王国で配達事業が大成したのは、決してエアハルトの決断力だけの賜物ではない。


 率先するエアハルトがいて、それを支持するフリッツがいたから、やり遂げられた偉業なのだ。




「ハルと一緒に成功体験を積むうちに、僕にも自信がつきました。必ずイライザさまを振り向かせて見せます」




 グイグイくるイライザの距離感が、心地よいと思ってしまったフリッツにとって、それがない世界は考えられない。




「イライザさま、どうか最後まで僕の話を聞いてください!」




 手巾で眦を押さえ、赤くなった目で水面を覗き込んでいる愛しいイライザへ、フリッツは全力疾走した。






 ◇◆ 溺愛する兄のお話 ◇◆




「そう言えば、クラーラはスープ作りが上手だというのは本当かい?」




 ベンジャミンが晩餐の席でクラーラに話しかける。


 ちょうどテーブルには黄金色をしたスープが給仕されていて、それを見て思い出したのだろう。




「まあ、素晴らしいわ! 料理ができるなんて!」


「ボクも飲んでみたい!」




 ファミーとオーウェンが目を輝かせる。


 本来であれば、王妹が料理をするなど窘められるはずだが、ここではそんな常識は通用しない。




「見習いシスターをしているとき、孤児院の子どもたちによく作っていました。精肉店のおかみさんからレシピを教わったんです」


「エアハルト君は、それはそれはクラーラのスープを褒めていてね……僕はすっかり、うらやましくなってしまったよ」




 眉を下げたベンジャミンの顔は、泣きそうにも、悔しそうにも見える。


 相変わらずクラーラを巡って、ふたりは火花を散らしているようだ。




「いつでも作りますよ。あ、王城の厨房に金づちはありますか?」


「金づち?」




 ベンジャミンとファミーとオーウェンが、三人そろって首をかしげた。


 料理については素人だが、金づちが調理道具ではないことは知っている。




「一体、金づちを何に使うのかしら?」




 ファミーが代表して尋ねた。




「香ばしく焼いた牛骨を、叩き割るんです。こう、振り下ろして――」




 クラーラは、実際に金づちをどう使うのか、手振りで示した。


 勢いのついた金づちが、太い骨を砕くゴッという音が聞こえた気がして、ベンジャミンは身をすくめる。




「包丁も恐ろしいと思っていたけれど、金づちも恐ろしいね。クラーラは危ないものを使いこなせて、すごいよ」




 成長した妹の姿に感動するベンジャミンだったが、少し逞しくなりすぎてやしないかと、クラーラの二の腕あたりを心配するのだった。

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