「せっかく、エアハルトさまとわたくしの噂が定着してきたのに……! どうして台無しにしてしまうのよ!!」
割れたオペラグラスの欠片を室内履きの爪先で蹴飛ばし、ヨゼフィーネは憤る。
人目につく庭園で、エアハルトと親密なお茶会を重ねたおかげで、王城の使用人たちは婚約発表も秒読みに入ったと噂していた。
外堀を埋めていくヨゼフィーネの作戦は、成功していたかに見えたのだが――。
エアハルトがクラーラへの愛を絶叫したせいで、それを聞いた使用人たちは、今ごろ蜂の巣を突いたような騒ぎになっているだろう。
「急いでエアハルトさまのもとへ行くわよ!」
そのまま部屋を飛び出しそうな勢いのヨゼフィーネを、侍女長が引き止める。
「姫さま、車椅子に乗ってください。仮病がバレてしまいます」
「さっさと用意して! すぐにエアハルトさまに訂正してもらわないと、間違った噂が広まってしまうわ!」
そうして車椅子に乗ったヨゼフィーネは、騎士に押されてエアハルトのいる客室を目指したが、着いたときにはすでにもぬけの殻だった。
「見張りにつけていた騎士もいないじゃない!」
オロオロする侍女長と、理由が分かっていない騎士がヨゼフィーネを宥めるが、その怒りは治まらない。
「エアハルトさまを探して! こうなったら既成事実でも何でも、でっち上げるしかないわ!」
◇◆◇◆
国王と二人の王子が仕事をしているキースリング国の執務室では、今日もざっくばらんな会話が飛び交っていた。
「ヨゼフィーネとベルンシュタイン家の倅は、うまくいっておるようじゃの。婚約間近の噂が城内に流れているのを、儂は耳にしたぞ」
嬉しそうにはしゃいだ声を出す国王を、王太子のシュテファンが冷めた目で見る。
そんな兄の姿に笑いを噛み殺し、第二王子のマルセルが国王の相手をした。
「父上らしくないな、噂を鵜呑みにするなんて。いつもみたいに、真実を探ればいいじゃないか」
「そんなことをして、ヨゼフィーネに嫌われてみろ! 儂は生きていけんだろうが!」
「それくらいで、父上は死にはしませんよ」
落ち着きのある返しをしたシュテファンが、手元の書類をまとめて国王へ押しつけた。
書類の枚数にうんざりした国王が、天井を仰ぐ。
「まだこんなに処理せねばならんのか……どれ、休憩にしよう」
「駄目ですよ。それは父上が強引にねじ込んだ、ヨゼフィーネの快気祝いパーティの件ですからね。だいたい、あれは病気でもなんでもないでしょう? 何が快気祝いなんですか?」
「兄上、ヨゼフィーネは恋患いなんだとさ。本人がそう言ってた」
わはは、とマルセルが大口を開けて笑う。
それにシュテファンは眉をひそめた。
「恋患い? だったらそれは完治しないでしょう。何度も言いますが、エアハルトはまともな青年です。あれに陥落することはあり得ません」
「いやいや、美しく着飾ったヨゼフィーネを見たら、堅物の心も揺れ動くかもしれんじゃろ? このパーティで、二人は盛り上がること間違いなしじゃ」
「エアハルトは別に、堅物ってわけでもなさそうだけどなあ?」
三人がそれぞれの意見を好き勝手に述べていると、国王の侍従がそっと近づいてきた。
「ご歓談中に失礼いたします。陛下、こちらの者がこのような物を持ってきておりまして――」
白いひげのある初老の侍従が、血の気の引いた若い侍女をつれてきた。
御前が恐れ多いのか、侍女の体は、ぶるぶると小刻みに震えている。
侍従が恭しく掲げた手の上には銀の盆、さらにその上には一通の分厚い封筒がのっていた。
国王はひょいと宛名を覗き見る。
「エアハルト・ベルンシュタイン? なんじゃ、ベルンシュタイン家の倅に宛てた手紙じゃないか? それがどうしてここに?」
首をかしげた国王の横からマルセルが長い手を伸ばし、封筒をひっくり返すと差出人名を確認する。
シュテファンも椅子からやや腰を浮かし、マルセルの手元を見た。
「クラーラ・オルコット? 何だかこの名前、聞き覚えがあるような、ないような……兄上、知ってるか?」
「お前の婚約者候補だった、オルコット王国の王女だ。数年前に、こちらから打診して、断られただろう」
「そうだった! 俺の婚約者になるのを断るなんて、と憤慨したけど……調べてみたら、かなり以前から行方不明だったらしいな」
ようやく見つかったんだなと呟くマルセルに、エアハルトと知り合いだったのかとシュテファンも返す。
国王はいまだ、首をかしげたままだ。
「それで、この侍女が言うには――」
そつのない侍従が、国王の質問に答えようとしたところ、にわかに執務室の前の廊下が騒がしくなった。
扉越しに、「お待ちください!」「許可をお取りください!」といった騎士の声が聞こえてくる。
「おや、誰か訪ねて来たかのう?」
それでも護衛をしている騎士たちの腕前を信じて疑わない国王は、のんびりしていた。
だが、ここに来たのは、それを跳ね除けるだけの膂力を持ったエアハルトだ。
「失礼します!」
バアンと開かれた扉の向こうに、両手両足に数名の騎士を引きずって仁王立ちしているエアハルトの姿を認めて、王家の三人は眼を剥いた。
何事をも貫徹するという強い意思が、オーラとなって噴出し、エアハルトを取り巻いているのが分かる。
瞬時に、「この男を絶対に怒らせてはならない」という共通認識が、三人の頭の中に生まれた。
真っ先に動いたのは、好々爺を装った国王だ。
「おお、エアハルトよ、ちょうど良かった! どうやら、おぬし宛ての封書が、手違いでこちらに運ばれたらしい。ちょっと確認してくれんか?」
「っ……! もしかして……!」
ずるずると騎士たちを引きずりながら、エアハルトが近づいてくるので、マルセルは手の中にあった封筒をすぐさま渡した。
礼をして受け取ったエアハルトは、手紙の差出人がクラーラであると知って顔を輝かせる。
「届かないと思っていたら、誤配されていたんですね。では、クラーラの身は無事ということか」
「ちなみに、お主の用事とやらは、何だったのかのう?」
エアハルトの機嫌が上向いたのを見逃さず、国王が今のうちにと聞き出す。
「いえ、この手紙に比べたら些事です。そちらの件はまた、改めてお願いに参上します。今はこれを読むのが、最優先なので――」
エアハルトは挨拶もそこそこに、大事そうに手紙を抱えて、そそくさと執務室を後にした。
厄災が去って、どっと汗をかいたのは、三人だけではなかったはずだ。
「はあ、生きた心地がせんかったわい! 獰猛な獣に睨まれたようじゃった!」
「相対すると、あんなにも威圧感があるのですね。現役のころの、騎士団長ローラントを思い出しましたよ」
「俺、封筒を差し出すのが怖かったよ! 股間がすくみ上った!」
がくりと机に伏し、三人とも大きく息を吐き出す。
不甲斐ない姿を見せてしまった騎士たちも、やれやれと元の位置へ戻って行った。
これで困難は去った、と思われた。
しかし、そうではなかった。
「陛下、大変申し上げにくいのですが――」
顔を青ざめさせた侍従が、三人へさらなる恐慌をもたらしたのだ。
◇◆◇◆
部屋に戻ったエアハルトは、封筒に書かれたクラーラのサインを凝視していた。
「いつもと雰囲気が違う。姓がついたとか、そんな微々たる差じゃない」
引き出しを開け、これまで受け取ったクラーラの手紙を広げた。
「今までのは小さく整っていて、いかにも女性らしい書体だった。だが、これはどうだ……」
クラーラ・オルコットと綴られたサインを、エアハルトは撫でる。
いつだったかクラーラの頬を、つい触ってしまったときのように愛し気に。
「鞠を追いかける仔猫みたいに、しなやかに跳ね上がっている。これこそが、クラーラの字だ」
ほう、と口から漏れた吐息には熱が籠る。
クラーラへの愛しさが溢れ出していた。
「ああ、どうして気がつかなかったんだ。俺が今まで受け取っていた手紙からは、こんな感情はこみ上げてはこなかった。つまり、クラーラの筆跡ではなかったんだ」
シワを伸ばして広げられた便せんに記されている内容には、クラーラらしさがあるがそれだけだ。
むしろ今となっては、溌溂とした内容と大人しい字面に齟齬を感じる。
「クラーラの手紙を、誰かが書き写したということか。……一体なぜ?」
思い当たる節がない。
そんなことをして、利のある者などいないはずだ。
「分からない問題は、とりあえず置いておこう。本物のクラーラの手紙を読むことが先決だ」
微かに震える指先で、エアハルトは封を切る。
そして中から滑り出てきたクラーラの情熱的な恋文に、撃沈するのだった。