「王家の星を、エアハルトさんに見られたそうね」
教会の手伝いから戻ったドリスは、休んでいたクラーラを見舞う。
軽い貧血を起こしたクラーラが回復する頃には、エアハルトはもういなかった。
「すみません、院長先生。私の不注意で……」
「責めているのではないのよ。クラーラの出自が発覚したのは、運命じゃないかと私は思っているの」
「運命、ですか?」
クラーラを護りたいというエアハルトの覚悟を聞いて、ドリスも心積もりを決めた。
王家の血が流れるクラーラを託すのは、誰でもいいわけではない。
エアハルトから密かに明かされた、大国キースリング国の辺境伯家令息という身分が、クラーラの盾になり得ると判断したのだ。
「これまでクラーラを匿ってきたけれど、私も齢を取ったわ。いつ神のお迎えが来るか、分からない身よ。だから私の代わりにクラーラを庇護してくれる人を、探そうと考えていたの。そんな折に、エアハルトさんから申し出があったのよ。運命でしょう?」
「院長先生……」
両親と死別してからずっと、ドリスはクラーラの指導者だった。
包丁や火の扱い方だけでなく、高貴な身分の女性が嗜むべき作法も、子どもたちと一緒に遊ぶルールも、ドリスが教えてくれた。
そんな第二の母とも呼べるドリスの気弱な発言に、クラーラはしゅんとする。
「エアハルトさんは誠実な人よ。そしてクラーラを護る力も十分にある。何かあったときには、必ず助けてくれるでしょう」
「ですが、あまり頼ってしまうのは――」
「あら、エアハルトさんはクラーラに頼られたい様子だったわよ?」
「そ、それは……!」
まだドリスには、エアハルトから告白されたのを打ち明けていない。
しかし、クラーラとエアハルトの微妙な仲など、ドリスにはお見通しなのかもしれなかった。
「クラーラにとって、将来はまだ未確定で、何をどうしていいのか決められないのは分かるわ。だからこそ、ここぞというときに信頼できる人がいるのは、安心材料になると思うの」
大きなものを背負うクラーラのために、エアハルトは心を砕こうとしていた。
さらにエアハルトは、ドリスにもクラーラにも、何の見返りも求めなかった。
その実直な姿勢から、エアハルトの本気がドリスにも伝わったのだ。
だがドリスから見たクラーラは、間違いなくエアハルトを恋い慕っているが、どこか遠慮や葛藤がある。
本人が恋に不慣れなだけでなく、これまでエアハルトに出生を隠していたのが、障害になっていたのかもしれない。
けれども、今はクラーラに王家の血が流れていると、エアハルトにも詳らかになった。
ここからクラーラは、新たな一歩を踏み出せるのではないかとドリスは期待する。
「何もかもを打ち明けるつもりで、エアハルトさんと話し合うといいわ。前にも言ったけれど、人を愛することは素晴らしいことなのよ。クラーラは特に、事情があって修道院に来たのだから、規律に縛られる必要はないの。――恋をしてもいいのよ」
ドリスはクラーラの気持ちを後押しする。
畏縮する心に、前へ進んでもいいのだ、と力強く語りかける。
それでも、クラーラは自問自答した。
(エアハルトさんを慕う気持ちは確かにある。告白されて嬉しかったのがその証。だけど私は、何も持っていない王族だから……)
エアハルトはクラーラが王家の血筋だと分かっても、その態度を変えなかった。
むしろ、クラーラを護る手助けをしたいとドリスに申し出たそうだ。
(院長先生がその力を認めるほど、エアハルトさんの身分は高かったんだ。それならば余計、そんな人の隣に立つのに、私は相応しくない)
エアハルトの足手まといにしかならないのであれば、気持ちを返すべきではない。
眉根を寄せて、悶々と悩むクラーラに、ドリスが苦笑する。
「クラーラは根が真面目だから、恋をするにも手が抜けないのね。経験者から言わせてもらうと、恋というのは丹精込めたスープのように、いつも透き通ってばかりではないのよ?」
思いがけないドリスの台詞に、クラーラは驚いて顔を上げる。
神に仕えるドリスから、恋の話が出るとは思わなかった。
「院長先生も、恋をしたんですか?」
「これだけ長く生きているのよ。そんな日もあったわ」
あっけらかんとしているドリスからは、悲壮さは感じられない。
だが、ドリスが修道院にいるという事実が、その恋の末路を物語っている。
「飛び込んでいけるときに飛び込んでおかないと、後悔するわ。人というのは、神と違って愚かなのだから……それを理由に恋に溺れてもいいのよ」
「恋に、溺れる」
「恋をしたら、人生が変わるの。急に世界が色づいて、何もかもが輝いて見えるようになるわ」
クラーラにはまだ分からない。
ほのかにエアハルトを想う気持ちを、こっそり心の奥底に宿しているだけだから。
「恋をしたら、強くなれるんですか?」
恋の力は、どれほどのものなのだろう。
ドリスのように、いかなるときも凛として生きていけるのだろうか。
「それは難しい質問ね。おそらく多くの人は、強くも弱くもなるでしょう」
「私、これ以上弱くなったら、困ります」
ただでさえ世間知らずで、ちょっとした言い争いを見ただけで貧血を起こしたクラーラだ。
恋をして弱くなれば、まともに生きていけないかもしれない。
唸り始めたクラーラに、ドリスが噴き出す。
「クラーラはいろいろと理由をつけて、恋する心を押し留めているようね」
「エアハルトさんは、素敵な人です。――未熟な私には、眩し過ぎるほどに」
「自分の弱さを自覚するのは、身を護るためには必要よ。ただし同時に、クラーラには勇気もあるといいわね」
「勇気……」
「腹をくくって、えいやと突撃する場面が、誰しもあるのよ」
それが今かもしれないのだ。
重すぎる血筋から逃れられず、隠れて生きているだけのクラーラから、エアハルトの隣に並び立てるだけの存在へ、変わろうとする勇気。
(護られるばかりの私に、足りなかったもの。院長先生のようになりたいと思いながら、なれなかった理由――)
子どもたちも、いずれは孤児院を巣立っていく。
クラーラだって、それは同じだ。
「私、デレクよりも臆病者ですね。修道院を出ると考えると、震えそうです」
「私が過保護すぎたのかもしれないわ。だけど、これからいくらでも強くなれるのよ」
「……エアハルトさんを、陰でこっそりと想っているだけで幸せでした。でも、好きだと告白をされて、隣にいる権利が欲しいと言われて……それからは毎日、エアハルトさんのことばかり考えてしまうんです」
「立派に恋してるじゃない」
ふふっとドリスが笑う。
「あとはクラーラが飛び込むだけね」
「私の気持ちを伝えるのは、エアハルトさんに相応しい女性になってからでは駄目ですか?」
「う~ん……すでに私という外堀は埋められているし……彼は見かけ通りの速攻型のようだし……そもそもクラーラは恋心を隠せていないし……」
恋の初心者らしい奥手なクラーラの悩みに、ドリスがぶつぶつ独り言つ。
クラーラと恋人関係になろうとなるまいと、あのエアハルトがこれと決めた相手を逃がすとは思えない。
どんな形であれ、クラーラを護ってくれるのならば、ドリスにとって問題ではない。
「きっとクラーラの気持ちを考慮してくれるだろうから、包み隠さず伝えてみなさい」
故にそんな曖昧な助言で終わってしまった。
こうしてドリスに太鼓判をもらったクラーラは、前向きにエアハルトへ突撃するのだが、あまりに赤裸々な告白にエアハルトが目を白黒させる未来が待ち構えている。