「エアハルトさん、仕事始めって?」
キョトンとしているのは、クラーラだけではない。
大男もデレクも、エアハルトを見つめてポカンと口を開けている。
「優秀なフリッツが、事務所に最適の空き物件を見つけてくれた。そこでデレクに、さっそく仕事を頼もうと思ってやってきたら、もう一人採用できそうで万々歳というところだ」
にこにこしているエアハルトに、誰もがついていけてない。
ひょこっとその後ろから、フリッツが顔を覗かせる。
「ハル、それでは説明不足ですよ。僕からみなさんに嚙み砕いて説明しましょう」
そこからフリッツの話が始まったのだが、ケンカが終わったと分かると、子どもたちは前庭へ分散し遊び始める。
その場には該当者であるデレクと、兄を心配するチェリーと、状況が知りたいクラーラが残った。
そしてもう一人――。
「俺はバリーってんだ。この坊主が言うように、観光客から小銭を巻き上げて、毎日を凌いでいる」
エアハルトほどではないが、立派な体格のバリーは、がしがしと青い髪を気まずげに掻いた。
水色の瞳は濁っておらず、酒に焼けた喉以外はしっかりしている。
年齢も30代前半と若く、自暴自棄になるにはまだ早いと思われた。
「バリーさんにも、興味をもってもらえる話だと思いますよ。僕がオルコット王国について調べてみた結果、まだ未開拓の事業分野を見つけたんです。そこで今後、ハルが資金を用意して会社を興し、その事業に本格的に取り組む予定です。先立って、デレクにお手伝いを頼もうと思ったんですが、バリーさんにもお願いしていいですか?」
「つまり、新しい会社で俺を雇ってくれるってことか?」
信じがたい顔つきのバリーが、恐る恐る尋ねる。
なにしろ城下町には失業者があふれている。
うまい話はそうそう転がってはいない。
「事務所に契約書を用意しています。ぜひ条件を確認して、検討してもらいたいですね」
「本気かよ……こんなイカサマ師を?」
「バリーよ、そう捨て鉢になるものではない」
食うに困ってとは言え、バリーも己の行為が違法だと分かっていた。
だからこそ卑下する言葉を口にしたが、それをエアハルトが押し留める。
「命の危機に瀕したとき、誰しもが正常な行いができるとは限らないんだ。助かろうとして悪事に手を染めてしまったのも、現在のオルコット王国が不況なのも、バリーの責任とは言えない」
命のやり取りの最前線に、身を置いた経験のあるエアハルトの言葉は重みがあった。
「俺はこの城下町の治安を、少しでも良くしたい。クラーラが暮らす修道院や子どもたちが遊ぶ孤児院が、常に平和であるように願っている。そのための第一歩を踏み出したところだ。バリーもぜひ協力してくれ」
名前を出されたクラーラは、ハッとする。
バリーはクラーラをちらりと見て、納得したように頷いた。
「なるほどな、このシスターが発端か。あんたが綺麗ごとばかり並べるなら、信用できなかった。だが惚れた女のために一肌脱ぐ男は、嫌いじゃねえ」
「おじさんはさ、ごちゃごちゃ言ってないで、素直によろしくって挨拶すればいいんだよ」
バリーの上から目線な発言に、デレクが呆れる。
デレク本人は、すでに心を決めたようだ。
「僕はやるよ! 少しでも早く、稼げるようになりたいからね!」
「おい坊主、そういうのはちゃんと、契約書を読んでからの方がいいんだぞ。……そもそも、字が読めるのか?」
「院長先生に教わったよ! ここではチェリーくらいの年でも、読み書きを学べるんだ!」
「へえ……こんな時世に、随分とまともだな。この城下町も、まだ捨てたもんじゃねえってことか」
なんだかんだ、デレクとバリーは口喧嘩しながらも気が合うようだ。
フリッツがふたりを手招き、事務所への道案内を買って出た。
「せっかくですから、ハルはもう少ししてから、帰ってきてください」
短いがクラーラとの逢瀬の時間を、捻出してくれたのだろう。
だが男衆が立ち去ると、クラーラは眩暈を感じてふらつく。
「おっと……安心して気が抜けたか? クラーラは少し横になったほうがいい。顔色が良くない」
「すみません、お手数をおかけして」
指先が冷たくなっているのを感じたクラーラは、抱き留めてくれたエアハルトに従う。
クラーラの異変に、チェリーが先頭を切った。
「エアハルトお兄ちゃん、こっち! クラーラお姉ちゃんのベッドがある!」
「よし、チェリー、頼んだぞ」
次々に扉を開けてくれるチェリーについていき、エアハルトは物置を改装した寝室へ辿り着く。
暗い室内を見渡し、チェリーが指さす方のベッドへクラーラを横たえた。
「チェリー、厨房から水を持ってこれるか? クラーラに飲ませてやりたい」
「分かった! 待ってて!」
元気よく返事をしたチェリーが、駆けて行く。
エアハルトは目を閉じているクラーラを振り返った。
「クラーラ、灯りをつけようか?」
「お願いします。サイドテーブルに、小さなロウソクがあるはずです」
少し頭を持ち上げたクラーラが、薄く目を開けてそちらを指さす。
しかし、エアハルトの視線は、指の先ではなくクラーラの瞳に注がれた。
外は明るいが、窓のない寝室は薄暗がりが広がる。
そんな中で輝くのは、橙色の星だった。
「それは……王家の星?」
「っ……!」
息を飲んだクラーラが慌てて掌で目を隠すが、もう遅い。
夜には見られないよう気を付けていたが、今は体調の悪さもあって油断していた。
クラーラの心臓が、ばくばくと嫌な音を立てる。
「なぜ、それがクラーラに……?」
「エアハルトお兄ちゃん、持ってきたよ!」
エアハルトの追求を妨げるかのごとく、チェリーがグラスを掲げて戻って来た。
それを受け取ったエアハルトは、顔を伏せて縮こまっているクラーラの背に腕を回す。
「さあ、水を飲んで。そしてゆっくり休むんだ」
「エアハルトさん……私」
「今は何も考えずに、気分を落ち着けたほうがいい」
エアハルトは詮索しなかった。
クラーラはそれをありがたく思い、一口だけ水を飲むと、気を失うように倒れた。
力の抜けた体をエアハルトがゆっくり横たえてやると、チェリーが小声で訊ねてくる。
「クラーラお姉ちゃん、大丈夫そう?」
「ちょっと疲れただけだと思う。院長は留守みたいだね?」
「大きな教会のお手伝いに行ってるの。もうすぐ帰ってくるよ」
「そうか、それまで俺が留守を預かろう」
「一緒に遊んでくれるの?」
はしゃぐチェリーと手を繋ぎ、エアハルトは寝室から出る。
扉を閉める前に、もう一度だけクラーラを振り返った。
(あれは俺の見間違いじゃないよな? オルコット王国の王族だけが持つという、青い瞳の中に輝く橙色の星――)
オルコット王国に腰を据えると決めてから、フリッツと共に学んだ教養の中にその情報はあった。
(クラーラが身分を隠して、修道院にいるのだとしたら――)
なにか深い事情があるのだろう。
エアハルトは、音を立てないように扉を閉めた。
(他人の俺が、軽々しく立ち入っていい問題ではないな。いつかクラーラから、打ち明けてもらえると嬉しい)
だが今はその時ではない。
エアハルトはチェリーたちと一緒に前庭で遊びながら、ドリスの帰りを待った。
おそらくドリスは事情を知っていて、クラーラを匿っているのだろう。
だからせめて一言、エアハルトは伝えたかった。
(これからは、俺もクラーラを護りたい。事情や立場に関わらず――クラーラの味方になる)
まずは信用してもらえるに値する男であると、ドリスに証明しなくてはならないだろう。
(いざとなれば、故郷に残した権力も惜しみなく使って、クラーラの安全を確保しよう)
確固たる決意をするエアハルトが、帰ってきたドリスを迎えるのはまもなくだった。