「おかえりなさいませ。お嬢様」
出迎えてくれたシエラは何も聞いてはこなかった。
ただ、優しく微笑み、世話を焼いてくれる。
いつもの彼女だ。
「今日はコーヒーを入れてくれる?」
「かしこまりました」
紅茶を飲む気にならなかった。
フルーツが入っていようが、いまいが関係がない。
ナサリを思い出す気がする。
ずっと求めていた音色は知らない間に消えていたなんて…。
その事実を受け入れたとはいえ、吹っ切るにはまだ、早すぎる。
いえ…その時間があるのかどうか分からないわね。
「あの、このような時に申し上げるのはどうかと思ったのですが、王太子殿下から手紙が届いております」
「手紙?お会いする機会もあるというのに珍しいわね」
「急な知らせでもあるのかもしれません」
「分かったわ。確かめておくから。シエラももう休んでいいわ」
「そうさせていただきます」
シエラが入れてくれたコーヒーはとても苦かった。
けれど、今はこれがいい。
しばらくは紅茶は飲めないかもしれない。
思わず、苦笑いが浮かんでくる。
暗い寝室で再び、涙がせりあがってくる。
シエラは空気を呼んでくれたのかしら?
声を抑えて、感情のままにやり過ごせば、ようやく溢れてくる生暖かい雫はとめどなく流れていく。
マニエルが亡くなった時ともまた違った感覚だ。
”ああ、会いたいよ!”
本物のソフィアが悲しんでいる。
私が友人に会いたいと願ったのと同じように。
だから、その痛みが分かる。
「いいのよ。悲しみに蓋はしなくていい。私がそばにいるわ」
自分自身の中にいるソフィアに語りかけるようにその身を包み込んだ。
不思議な気分だった。自分で自分をあやしているような物だもの。
この場に誰かがいたなら、不審がるだろう。
けれど一人なのだから問題ないはず。
ナサリ…。ナサリ…。
ごめんなさい。気づいてあげられなくて…。
ずっと憎んでいたの。怒っていたのよ。
それでも、本当に貴方は友人だった。初恋だった。
世界を見ようと言ったナサリ。
あの顔には二度と会えない。
例え、叶わない夢だと分かっていても、私達は未来を思い描いていたのに…。
もう、ナサリとの新しい思い出も築けない。
もっと話せばよかった。一緒に学院に通いたかった。
ピアノだってナサリが褒めてくれるなら練習したよ。
貴方だけが理解者だったのに…。
ごめんなさい!ごめんなさい!
ソフィアの心は闇深い所に落ちていこうとしていた。
それを直感的に感じとる。
まずい!
『ねえ、ソフィア。凄いね!』
ナサリに…リオンによく似た青年の幻影が一瞬見えた気がした。
汐風の香りを漂わせて…。ソフィアと手を繋いでいる。
あったかもしれない未来。
だが、けして現実にならない世界。
そう自覚した瞬間、ソフィアが感じている悲しみは少し和らいだ。
彼女の感情はまるで眠るように静かになった。
「しばらくお休みね」
さっきまで胸のあたりに感じていた
私は私だ。
つぶやくように気持ちを切り替え、王太子の手紙を事務的に開いた。
私にはやる事がある。
ナサリを偲ぶのはこの身で傷を癒しているソフィアがやってくれるのだから。
美しい封筒に収められた紙にはパトリックの名で診療所を認可すると書かれていた。
頼りないと思っていた殿下だが、どうやら、やる時はやるらしい。
さすがは攻略対象と言うべきかしら。
彼がソフィアのために本当に動いてくれるという事実も驚かせてくれるわ。
王ではないにしろ、王太子のお墨付きを貰えたとなれば、出来る事は増える。
クラヴェウスの名だけでは心もとなかったけれど、この事実が広まれば、嫌がらせはほぼなくなるだろう。何より、王家から幾分か、支援を受けられる。資金も同様だ。
ソフィアはパトリックへのお礼の手紙を素早く書き、オリビアに知らせるために便箋をめくった。
今はオリビアに任せきりで、ほぼボランティアに近い。
人を雇う良い機会かもしれないわ。何より、手に職をつけたい人間もいるかもしれない。
お金を出すと言えば、それなりに人も集まるだろう。
その旨を記しておこう。
「ふう~」
マニエルの事件の背景はつかめないのに、物事は進んでいる気がするわ。
ナサリエルの秘密もパトリックも弟との関係も何もかもがゲームとは違う。
世界はもっと複雑で、誰もが闇を抱えている。それを痛感させられるわ。
聖女という分かりやすい善なる存在がいないから、余計にそう思うのかしら?
ソフィアは背筋を伸ばした。
シエラが置いたであろう夕刊が目に入る。
そこには1000年以上前。マゴスが暗躍していた頃に活躍した大冒険者の墓が突然の土砂崩れで破壊されたという記事が載っていた。そして、その近くから美しい宝石が散りばめられた首輪が見つかったとも記されている。おそらく大冒険者の持ち物と推測され、魔力が込められているかもしれないと騒がれていた。だが、そのニュースが気になったわけではない。
その首輪を見つけた男の名前に驚いたのだ。
「何してるのよ。アイツ…」
そこにはマイケルの名がはっきりと書かれていた。
しかし、彼と一緒に映っている首輪の写真に思わず眉をひそめた。
なぜか既視感がある?
けれど、思い出せない。
疲れているせいかもしれない。
寝た方がいいかもね。
今日は本当に体力を消耗されたわ。
いや、精神がすり減らされたのよね。
もう、何の情報も入れたくはない。
にしても、マイケルの奴。てっきり、もう海に出たとばかり思っていたのに…。
旧友のおかしなニュースに思わず、吹き出しそうになりながら、夜はふけていった。