「リオン。これで僕らは自由だよ」
「自由?」
「そうだよ。こんな男どもの相手はもうしなくていいんだ」
親友が何か言っているのに理解が追いつかない。
ただ、言葉を繰り返すだけで精一杯で、立ち込める匂いに咽そうだった。
「とにかく、ここを出よう」
目の前で起きている光景よりも不敵な笑みを称えるテアトが心配だった。
そんな不気味な表情をする奴ではない。
まるで、別人だ。
「これでずっと一緒にいられるよ」
ゆったりとこちらに足を向けるテアトに恐怖を覚えて、後ずさった。
違う。何もかもがテアトではないと告げていた。
「お前は誰だ?」
「ひどいよ。友達だろう?」
血で滴る指先が頬をかすめて、思わず身構えた。
「やめろ!」
「どうして。拒否するんだ?」
悲しそうなテアトの視線とぶつかり、罪悪感が募っていく。
「違うんだ…」
否定してもテアトは聞く耳を持ってはくれない。
怒りの形相でこちらを睨んでいた。明確な敵意だ。
そして、物凄いスピードで迫ってくる親友の姿に思わず目を閉じた。
だが、一向に衝撃はやってこない。
そっと、目をあけるとテアトが倒れていた。
「まさか、魔法が使えるとはな」
振り返ると悪魔が立っていた。
テアトに殺されたはずの男の姿に背筋が凍っていく。
「これもマゴス様の導きか?」
何を言っているんだ?
だが、自身の左手を見ると、小さな風の渦が出来ていた。
俺がテアトを攻撃した?
「さあ、おいで…。彼はマゴス様の愛を受け入れたんだよ」
意味が分からない。
友人を傷つけてしまった。早く、手当をしなくちゃ。
「どうした?君も特別だ。殺したりはしないよ」
パニックになる俺に向かってつぶやいた悪魔が手を伸ばそうとしたその時…。
――グサッ!
悪魔の胸に何かが突き刺されていた。
「テアト!」
親友が悪魔に刃を突き立てていたのだ。
「お前は許さない!」
「まがい物風情が…」
悪魔が叫んだ瞬間、テアトは再び、地面に這いつくばり、今度こそ動かなくなった。
「うっ!まだ、馴染んではいなかったか」
膝をついた悪魔も悪態をつき、うめき声をあげながら、やがて静かになった。
すべてがスローモーションのように巡っていく。
何も感じない。それでも、親友が死んだと言う事実は分かった。
テアトは奴らに一矢報いたのだ。
俺に出来なかった事をやったのだ。
だが、テアトが動かなくなったのは俺のせいだ。
ああ、俺が拒否したから。
怖がったから。
親友の死と共に風を操る力に目覚めた瞬間だった。
燃える屋敷の中で、ただ、立ち尽くしていた。
そして、俺も死ぬのだと思っていた。
友のそばで…。
もう、どうでもよかったのに…。
俺は生きていた。
気付けば、俺は路地を歩いていた。
あの悪魔に連れ去られる前にいた場所だ。
どうやって、屋敷を出たのかも思い出せない。
女性達の姿を探すがやはりいない。
馬車が急ブレーキをかける音が耳に入った所で意識を失った。
――ナサリ…ナサリ…
誰かの声が頭をかけていく。
浮上する視界の中で最初に目に入ったのは、ベンストック子爵夫人の安堵の顔だった。
「ナサリ!やっと目覚めたのね。ずっと、熱が下がらないから心配したのよ」
誰の事かと思ったが、ベンストック子爵が夫人を連れ出し、俺に向き直った。
「君は路地で倒れていたんだよ。しかし、見れば見るほど、あの子に似ている。まるで双子のようだ。我々の出会いは運命だよ」
ベンストック子爵は流行り病で亡くなった息子の変わりをするのが使命だと俺を諭した。
冗談じゃないと思った。けれど、身をもって分かってもいた。
自分には何の力もないのだと…。
あの悪魔は死んだが、俺やテアト…ほかの少年達をいたぶった連中はまだ生きているはずだ。
このままで済ましたくはない。
拳を上げたテアトのやり残した事を引き継ぐのは俺の役目だ。
だから、身代わりを引き受けたのだ。
子爵一族が有する風の魔法を俺が持ったのも運命とすら感じた。
俺は、ベンストック子爵が望む息子を完璧に演じようと努力した。
息子の死でおかしくなったという夫人も子爵の親族たちも誰も疑わなかった。
風の力に目覚めた子爵の跡取りを歓迎したのだ。けれど、ナサリエル様と仲が良かったという令嬢だけは違った。その純真な視線はすべてを見透かされそうで恐ろしかった。
聖女候補だという彼女には穢れたこの身が分かるのかもしれない。
そう考えるだけで、震えが止まらない。
だから、距離を取ったし、忌まわしい記憶を呼び起こす紋章も自らの手で消し去った。
それが彼女の心を傷つけると分かっていてもやめられない。そうしているうちに幼少期に顔を合わせたソフィアという令嬢は聖女とはかけ離れたわがままな女に成長した。その姿に安堵した。
仲を深めるような女ではなかったのだと…。
距離を取って正解だったのだと言い聞かせた。
自身を見つめる瞳が時折、寂しそうな色をしているのに気づかないふりをして…。
俺には奴らを追いかける方が重要だった。しかし、手がかりは何もない。悪夢の舞台となった屋敷の場所もつかめない。俺の面倒を見てくれた女性達が殺された理由もだ。それでも、悪魔は身なりが良かった。出入りしていた連中も…。きっと、帝国の有力者たち。だから、王太子に近づいたのだ。彼のそばにいれば、自然と有能な貴族の令息達が寄ってくる。そいつらが情報を持っている可能性があると推測したのだ。それでも、何も分からない。すべてがもどかしかった。
「ねえ。ナサリ。もしかして怒っているの?」
そんな言葉を投げかけてきたのはマニエルだ。
「どうしてそんな事を言うんだ?」
「貴方の奏でるピアノは悲しみと怒りが入り混じっている気がするから。ごめんなさい。素人なのに…」
肩をすくめる彼女は可憐で美しかった。ピアノに思い入れなどない。
ただ、本物のナサリエル様が好きだったからだと言う理由だけで仕込まれた。
マニエルはかつて、自分を見つめた聖女候補の少女とは違った透き通る瞳を持っていると思った。
安らぎと微笑みを浮かべていた。
「大した理由ではないんだ。ただ、しいて言うなら亡くなった友にささげる曲だからかな」
それはハッタリだった。いや、無意識のうちにテアトを偲んでいたのかもしれない。
「いつまでも忘れずにいてくれる親友がいるなら、その人はきっと幸せね」
「君にはいないのかい?人気者だろう?」
「私が?まさか…。でも、友達になりたい人はいるわ」
「へえ~」
「ねえ、もう少し聞いていてもいい?」
マニエルはテアトとは別の意味で特別な友人となった。
しかし、彼女もまた、この世を去ってしまった。
心を通わせた人達は次々、離れていく。
けれど、新たに手を差し出してくれたのは、かつて恐怖を感じた女性だった。
ずっと探していた者達への手がかりを引っ提げて…。
ソフィア様。
彼女は別人のようだった。
記憶の中の少女とも、ずっと見てきたわがままな女でもない。
凛々しく、何かを決意したような力強さを持つ女性。
そして、誰かを強く想っているとも直感した。
俺と同じように…。
だから、信用できると分かってしまったのだ。
何より、彼女から親友を取り上げたのはこの俺だとやっと受け入れたのだ。
そうなるまでに随分時間がかかりすぎた。
ゆえに純粋にこの少女の力になりたいと思うのだろう。